「人形佐七捕物帳(9)」

横溝正史作

ドットブック 138KBテキストファイル 107KB

400円

油町の叶屋《かのうや》のひとり娘のもとに忍んできた「マムシ」という異名のある無頼御家人丹野丹三郎が何者かに殺された。そのとき「マムシの丹三」は「合図はとんとんとん…」と書かれた娘の誘いの手紙をもっていた!…この「春宵とんとんとん」のほか、「三河万歳」「蝶合戦」「女難剣難」「まぼろし小町」「蛇性の淫」の6編を収録。

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「乳母や、雪はまだ降っているかえ」
「はい、お染さま、ますます、はげしゅうなるばかりでございます」
「もう、よっぽどつもったろうねえ」
「さあ、五寸はつもったでございましょう」
「まあ、憎らしい雪だこと。せっかく、丹様が忍んできてくださろうという宵《よい》に、あいにくのこの大雪。ほんとうにおてんとさまも気がきかない。人の恋路のじゃまをする気かえ」
「もし、お染さま」
「…………」
「それでは、あなたはどうしても、今宵《こよい》、あの丹三郎《たんざぶろう》めと、忍びあうつもりでございますか」
「ああ、そのつもりだよ。そのつもりだとも。乳母や、意見ならもうさんざん聞きあいた。このうえ、くどう聞きとうもない」
「いいえ、申します。申しませえでか。あの丹三《たんざ》めのどこがようて、親のゆるさぬ不義いたずら、お染さま、あなたは気でも狂ったのでございませぬか」
「そうかもしれぬ。気が狂ったのかもしれぬ。乳母や、恋は盲目というではないか」
「ええ、もう、あんなやつに恋だのと、耳にするさえけがらわしい。お染さま、よう考えてくださいませ。あなたさまは叶屋《かのうや》という、れっきとした大店《おおだな》のひとり娘。ゆくゆくはお婿様をとって、お店をつぐべき、ご身分ではございませぬか。それにひきかえ丹三めは、安御家人のならずもの。としだって、あなたさまとは、二十もちがうじゃありませんか。お染さま、そこのところを考えて……」
「乳母や、恋に上下のへだてはない」
「それはそうでございます。だんなさまもそのことは、日ごろから、おっしゃってでございます。たとい身分ちがいでも、器量さえあれば婿にすると。ですから、わたしもいちがいに、野暮なことを申すのではございませぬ。しかし、あいてが丹三とあっては、これゃどうしても、おいさめしなければなりませぬ。あいつは、まむしと異名のあるくらい、札つきのならずもの。ゆすりかたりはいうまでもなく、ほかにどのような凶状を持っているやしれぬ男。お染さま、こればっかりは、思いとどまってくださいまし。もし、お染さま」
「くどい!」
 お染はきっとまぶたを染めて、
「さっきから聞いていれば、よう恋人の悪口をいうておくれだったね。もう乳母とはおもわぬ。主人ともおもうておくれでない。あたしが慕うて、あたしが身をまかせようというのに、他人の斟酌《しんしゃく》はいらぬこと。ああ、まだ五つ半(九時)にはならぬかえ」
 お染はことしまだ十七、日ごろはしごくおとなしい娘だが、いったんこうと思いこむと、なかなかあとへはひかぬ性分。
 恋にくるうたかそのお染が、気もそぞろのありさまに、乳母のおもとは、たもとをかんでむせび泣いた。
 そこは油町でも名だいの大店、叶屋のはなれ座敷なのである。
 こよいは親戚《しんせき》にお通夜があって、あるじ重右衛門《じゅうえもん》は、ひと晩、うちをあけることになっているが、その留守ちゅうに娘お染が、乳母にきり出したのは、おもいもよらぬ難題だった。
 こよい五つ半、うらから男が忍んでくるから、なんにもいわずに、手引きをしてくれというのである。
 びっくりしたおもとが、あいてをたずねると、丹野丹三郎というので、おもとはいよいよびっくり、肝をつぶした。
 丹野丹三郎というのは、ひょうばんの悪御家人で、叶屋へも二、三度、ゆすりにきたことがある。としもお染と二十ばかりちがって三十五、六、そんな男とどうしてと、尋ねてみても理由はない。
 ただ、ほれたから身をまかせる気になった。じゃまだてすれば生きてはおらぬと、懐剣まで用意して、おもいつめたお染のようすに、乳母はただ泣くばかりである。
 そのうちに時刻は容赦なくうつって、約束の刻限ともなれば、お染はいそいそこたつの火をかき立て、まくらもふたつ用意して、なまめかしい長襦袢《ながじゅばん》いちまいで、男を待ちこがれるようすに、おもとはいよいよあきれて泣いた。
 やがて約束の五つ半。
「もう、丹様がおみえになる時刻だが……」
 と、お染のことばもおわらぬうちに、裏木戸にあたって、とん、とん、とんと、かるく三つ戸をうつ音。
 それがあいびきのあいずなのである。
「それ、乳母や、丹様がおみえになった。はやくこちらへご案内して。無礼なまねをすると、承知しないから、おぼえておいで」
 と、せき立てられた乳母のおもとが、涙をかくして庭へおり、裏木戸をあけると、降りしきる雪のほのあかりのそのなかに、長合羽に、宗十郎頭巾《ずきん》でおもてをつつんだ男が、傘《かさ》をつぼめて立っている。
「丹様かえ」
 乳母のおもとがそばへよると、男はひどく酔うていて、ぷんと酒のにおいがする。
「は、はい……」
 と、男はふらふらしながら答えた。
「お染さまがさきほどよりお待ちかね。さ、ちっともはやく……」
 と、悲しさとくやしさをこらえて、おもとが手をとると、男はなにかいったようだが、頭巾のためにききとれなかった。
 やがて、おもとが男の手をひいて、はなれ座敷へかえってくると、お染がとび立つような顔色で、
「丹様、さぞ寒かったことでございましょう」
 と、ふらふらしている男の手をとり、寝床のほうへみちびいていくと、
「まあ、いやな丹様、こんなに酔うて……」
 と、いいながら、ふっと行灯《あんどん》をふき消した。
 それをみると、乳母のおもとは、あまりのあさましさに、じぶんの部屋へかえってくるなり、わっとその場に泣きふした。
 とはいうものの、合点のいかぬは、お染さまのきょうのふるまい、あれほど聰明《そうめい》なお染さまが、丹三のような男に思いをかけるはずがない。
 これにはなにか、ふかい子細があるのではないか……と、おもとはむっくり頭をもたげて、ひと間へだてたむこうの座敷のけはいに耳をかたむけたが、しばらくするうちに、おもとはまたあらためて、絶望のどん底にたたきこまれた。
 はじめは男も遠慮しているのか、ごくかすかなつぶやきと、ものやわらかなけはいしかきこえなかった。やがて、男のうめき声がきこえはじめ、それがしだいに高まっていくにもかかわらず、女のそれはきこえなかった。
 そのうちに、男の声がおいおい切迫してくると同時に、もののけはいも狂暴となり、ついに破局をしめす、傍若無人な怒号と化したあと、一瞬シーンと、あたりが静まりかえるまで、ついに女の声はききとれなかった。
 しかし、それですべてがおわったわけではない。
 ほんのみじかい小休止があったあと、またしても、男のあらあらしい息遣いと、うめき声が聞こえはじめた。しかも、その息遣いとうめき声が、しだいにたかまり、切迫していくにつれて、こんどは女の声がまじりはじめた。それはあきらかに、男と共通の使命にむかって、驀進《ばくしん》している声である。
 はげしく箪笥《たんす》の鐶《かん》がなりはためき、たえいるばかりの女の声をきいたとき、おもとは畳のうえに顔をふせて、両手でひっしと耳をおさえた。
 しかも、おなじようなことがもういちどくりかえされたらしいと感じたとき、おもとはもうだめだと、たもとをかんでひたなきに泣いた。
 それから、小半刻《こはんとき》(小一時間)ほどのちのこと。
 くらがりのなかで、かえりじたくをした男を、お染がしどけないかっこうで、縁先まで送ってでると、いつか雪はあがって、空にはうつくしい月がでていた。
「まあ、きれいなお月様だこと」
 と、お染はうしろから男をだきすくめて、
「もし、丹様」
「ふむ」
「さっきの約束をわすれないでね」
 と、あまい声でささやくのを、男はうわのそらで聞きながし、長合羽に、頭巾をかぶった顔をそむけるようにして、裏木戸から出ていった。
 お染はしばらくぼうぜんと、うしろすがたを見送っていたが、やがて、雪の夜風が身にしみたのか、ゾクリとからだをふるわせると、座敷のなかへとってかえし、いま男とあまいかたらいを、かわしたばかりの寝床のうえに、わっとばかりに泣き伏した。
 おさないお染はさいごまで、耐えうるつもりだったのである。
 じっさい、はじめのうちは耐えぬいた。それはからだをたてに引き裂かれるのではないかと思われるほどの、はげしい肉体的な苦痛をともなった。嫌悪感《けんおかん》いがいのなにものでもなかった。こんなことにむちゅうになっている男を、世にも不潔な動物とさげすんだ。
 やがて、そこにはげしいたつまきがおこり、それがおさまると同時に、男のからだが、阻喪《そそう》していくのをかんじたとき、お染はこれでおわったのだと思った。
 もし、そこでおわっていたら、お染の青い果実は、ほんのちょっぴり、外側からよごされただけですんだろう。
 しかし、それはじぶんの幼くて、甘いかんがえかただったことに、お染が気がつくまでには、それほどの時間はかからなかった。
 女を本式に征服してしまわねば、承服できぬ男の獣性からか、それとも女にも喜びを分かちあたえてやりたいという男らしい使命感からか、男はしばらく呼吸をととのえたのち、ふたたび活力をとりもどした。
 この男らしい鼓舞と鞭韃《べんたつ》にたいして、さいごまで抵抗するということは、どんな女にだって、不可能だったにちがいない。お染はいくどかじぶんをしかり、心の手綱をひきしめようとした。しかし、彼女のからだは心とははんたいに、しだいに女としての、甘美な自壊作用をおこしはじめ、いつかお染は息をあえがせ、身もだえしながら、共犯者として、男と行動をともにしていた。
 そして、男のからだに、二度めのたつまきがはじまったとき、お染もからだのおくふかく、はげしい山津波をおこして、それを迎え、お染はひしと、男のからだを抱きしめていた。
 おもとの聞いた絶えいるような声は、そのとき、お染の口から、ほとばしりでたものだろう。そして、もういちど、おなじことが繰りかえされるにおよんで、お染のからだは完全に、男と溶けあってしまった。
 お染はそれをくやしいと、たもとをかんでひた泣きにないた。お染の心は、いまでも丹野丹三郎を、蛇蝎《だかつ》のごとく憎んでいる。しかし、お染のからだはうらはらに、男ののこしていった移り香を、恋い慕うているのである。
 女はあいての男しだいで、身を持ちくずすものだということを、お染はいつか聞いたことがある。
 お染はじぶんがそうなるのではないかと、心のなかで驚きあきれた。
 しかし、どう考えてみても、丹野丹三郎みたいな男のために、身を持ちくずすのはいやだった。とすれば、舌かみきって死んでしまうか、それとも、あと追っかけて、丹野丹三郎を殺してしまうか。
 きっと顔をあげたお染の目には、絶望的な殺気がほとばしっていた。
 丹野丹三郎が死体となって、叶屋からほどとおからぬ火よけ地のそばで、雪に埋もれているのが発見されたのは、その翌朝のことである。

……「
春宵とんとんとん」冒頭より

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