「人形佐七捕物帳(14)」

横溝正史作

ドットブック 136KBテキストファイル 86KB

400円

本巻収録作品
◆舟幽霊
◆捕物三つ巴《どもえ》
◆丑《うし》の時参り
◆仮面の若殿
◆白痴娘
立ち読みフロア

舟幽霊

 屋形船
 ――ずぶぬれの女がしょんぼりと

「ほんとうにすみません。もうそろそろかえってくるじぶんだと思うんですが、ついでのことに、もう少々お待ちくださいましたら……」
「おかみ、せっかくだがそうはいかねえ。もうだいぶ、約束の時刻もすぎたようだ。辰、仕方がねえから、駕籠《かご》でも拾おうよ」
「へえ、親分、それじゃそういうことにしますか。おかみさん、すまなかったねえ」
「いえ、もう、とんでもない。こちらこそ……久蔵も長吉も、いったい、なにをしているんだろうねえ」
 そこは柳橋の舟宿、井筒の二階である。
 川向こうに用事があって、舟で繰り込むつもりのお玉が池の佐七は、きんちゃくの辰と、うらなりの豆六をひきつれて、なじみの舟宿井筒へやってきたが、あいにく舟はみんな出払って留守。
 仕方がないから、二階で一杯やりながら、四半刻《しはんとき》(半時間)ほど待ってみたが、いっこう舟のかえってくるもようもないので、とうとうしびれを切らして、立ちあがった三人である。
「ほんとうに申し訳ございません。そういううちにも、だれかかえってきやアしないか」
 おかみのお徳は未練たらしく、二階の手すりから身をのりだして、川のあちこちを見わたしている。
 今夜は陰暦八月十五日、いわゆる中秋名月である。
 空にはおあつらえむきの満月があかるくかかっているが、隅田川《すみだがわ》のうえには薄もやがたれこめて、両岸の家々も、川のうえをいきかう舟も、いぶしたような銀色の底にしずんでいる。
 九月十三夜の後の月を豆名月というのにたいして、八月十五日は芋名月。川にめんした井筒の二階の縁側にも、はぎ、すすき、秋の七草にそえて、芋や団子がそなえてある。
 佐七もその縁側へでて、川のうえをみていたが、
「おかみ、そこへきたなあ、このうちの舟じゃねえか」
「いいえ、あれはちがいます。ほんとうに、どうしたというんだろうねえ」
 お徳がじれったそうに、銀かんざしで頭をがりがりかいているとき、思いがけなく、いまの佐七の指さして舟から声がかかった。
「もし、井筒のおかみさん、そこにおいでのお客さんは、お玉が池の親分さんじゃありませんか」
 呼びかけられて、お徳がそのほうへ目をやると、いましも、井筒のまえを通りかかった屋形船の船頭が、こぐ手をやすめてこちらを見ている。
「ああ、そういうおまえさんは山吹屋の若い衆。親分さんになにか用かえ」
「いえね。お玉が池の親分さんも、たしか今夜、大桝屋《おおますや》さんの寮へいらっしゃるはず、なんならごいっしょに……と、こちらのお客さんがおっしゃるんです」
 渡りに舟とはこのことだが……と、佐七もちょっと手すりから身をのりだして、
「おかみ、ありゃどこの若い衆だえ
「はい、あれは山吹屋といって、へっつい河岸にある舟宿の若い衆で、巳之助《みのすけ》というんです。ちょいと、巳之さん、そして、そちらのお客さんというのは……?」
「へえ、それは……」
 と、巳之助はなにかいいかけたが、屋形のなかから呼びとめられたらしく、ふたこと三こと話をしていたが、やがてにやにやしながら、
「けっして怪しいおかたじゃございません。お玉が池の親分さんもよくご存じのおかたなんで……ぜひ、親分さんのお供をして、向島《むこうじま》まで、まいりたいとおっしゃってでございます」
「ほんに、巳之さん、そうしてもらうとうちも助かる。すっかり舟が出払って、さっきから困ってたところなんだから……親分さん、どうなさいます」
「そうよなあ」
 佐七は辰や豆六と顔見合わせて、
「どういうおかたか知らないけれど、それじゃ、おことばにあまえるとしようか」
「そうなさいまし。それにしても、いったいどういうおかたかしら」
 と、さきにたって階段をおりたお徳は、こぎよせる屋形船のなかをのぞいて、
「おやまあ、あなたは天王寺屋の親方さん、お駒《こま》ちゃんもごいっしょかえ。ほ、ほ、ほ、これはお安くないわねえ」
「おかみさん、からかっちゃいけません。ついそこでいっしょになったのさ。お玉が池の親分、辰つぁんも豆さんも、どうぞおはいりなすって」
 屋形船のなかには、ひとめで役者としれる男が、わかい芸者とさしむかいで、酒さかな、まことにおつな情景である。
 男のとしは二十五、六、白がすりのうえに、黒い絽《ろ》の羽織をむぞうさにひっかけて、まゆをそりおとした顔が、軒につるした岐阜《ぎふ》ぢょうちんのほのかな光に、気味悪いほどしろくさえている。
 これがいま、人気の絶頂にあるといわれる花形役者、上方くだりの中村富五郎である。
 その富五郎とさしむかいで、ほんのり上気したほおを川風になぶらせているのは、ちかごろ柳橋でも売り出しのわかい芸者で、名はお駒《こま》。
「おお、これは天王寺屋か。それじゃ、おまえさんも大桝屋の寮へ……?」
「はい、お招きをうけて、いま出向くところでございます。さあ、親分も辰つぁんも、それから豆六さんもどうぞおはいりなすって」
「それじゃ、遠慮なくおんぶされようか。辰、豆六、おまえたちも乗んねえ」
「へっへっへ、お駒ちゃん、おじゃまじゃないかえ」
「なんや、こら、悪いみたいだんな。駒ちゃん、かましまへんのんかいな」
「いやな兄さんたち、乗るならさっさとおのりなさいよ。親分さん、しばらく」
「ああ、しばらく。いつ見てもきれいだね」
 佐七と辰と豆六は、器用に舟に乗りこむと、
「それにしても、親方、おいらがあすこにいることが、よくわかったね」
「いえね、そこにいる巳之さんが見つけたんです。お玉が池の親分さんが、井筒の二階にいらっしゃるというもんですから、それじゃ、これからお出かけのところだろうと、ちょっと声をかけさせたんです。まあ、おひとつ、辰つぁんも、豆さんも、どうぞ」
「それじゃ、みなさん、いってらっしゃいまし。巳之さん、頼んだよ」
 と、これが舟宿のおかみのあいきょうというやつである。みよしに手をかけ、やんわりひと押しおそうとして、なに思ったのか、お徳はだしぬけに、
「あれえッ!」
 と、叫んでそでのなかに顔を埋めた。
「ど、どうしたんだ、おかみ。やけにまた大きな声を立てるじゃないか」
 佐七にたしなめられて、お徳はおずおず顔をあげると、おそるおそる屋形船のなかを見まわし、
「あら、すみません、わたしとしたことが……」
「いったい、どうしたんだ」
「えらいまたぎょうさんな声を出すやおまへんか。どないしやはったんや」
「いまそこに……天王寺屋の親方さんのちょうどうしろに、ズブぬれになった女が、髪をさんばらにして、しょんぼり座っていたような気がしたもんですから……」
「じょ、じょ、冗談じゃない。おかみさん!」
 と、中村富五郎が意気込むと、
「あれ、まあ、怖い!」
 と、お駒が身をふるわせて、がばっと薄べりに突っ伏すのと、ほとんど同時だった。
 佐七が辰や豆六と、あきれたように顔見合わせているところへ、
「で、で、出ますよ!」
 と、すっとんきょうな巳之助のひと声。
 屋形船はゆらりゆらりと井筒の桟橋《さんばし》をはなれると、月の隅田川をこぎのぼっていく。

……「舟幽霊」冒頭より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***