「さすらいの記」

ヘッセ作/尾崎喜八訳

ドットブック 565KB/テキストファイル 92KB

400円

若いときからヘッセを熱愛した詩人尾崎喜八が、みずからの好みにしたがって選び、訳しためたヘッセの随想集。表紙の水彩画もふくめ ドットブック版には、ヘッセ自身の手になる水彩画を数点、おさめてある。
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 山の南がわの最初の村。ここからはじめて私の好きな漂泊の生活が、あてもない流浪が、日なたの休息が、解放されたヴァガボンドの日々(にちにち)がほんとうにはじまる。私はルックザックのなかみで生き、ズボンに房をさげているが、そんなことがひどく好きだ。
 居酒屋で露天へ酒を持って来させている間に、私はふとフェルッチオ・ブゾーニのことを思い出す。「あんたはたいそう田舎風に見えるな」と、いくらか皮肉をまじえて私の好きなあの男は言った。それは私たちが最後に――と言ってもいまだそれほどたってはいないが――チューリッヒで遭(あ)った時のことだ。アンドレエはマーラーのある交響曲を指揮していた。われわれはなじみのレストウランで食卓をかこんだ。私はブゾーニの蒼白い幽霊じみた顔や、こんにちなおわれわれがもっているこのもっとも光輝ある反俗物主義者の、不覊の精神にふたたび悦ばされたのだった。――だが、いったいどうしてこんなことを思い出したのだろう。
 わかった! 私の思っているのはブゾーニではない。またチューリッヒでもなければ、マーラーでもない。それは何か厄介なものに出遭った時によくある記憶のまちがいだ。そんな時には往々にして無害な形象が前景へ押し出されるものだ。そうだ、今度こそわかった! あのレストウランには、言葉こそ交さなかったが、ほかにもう一人明るい金髪の、ひどく紅い頬をした若い女がすわっていた。天使のような女よ! その女を眺めることは楽しみでもあれば苦痛でもあった。なんとその間じゅう、私はその女を愛したことだろう! 私はもう一度十八歳の若者にかえっていたのだ。
 急にすべてがはっきりしてきた。美しい、明るい金髪の、快活な女よ! お前の名をなんと言ったか私はもう覚えていない。私は一時間というものずっとお前を愛しつづけた。そしてこの山村のちいさい日当たりの道ばたで、今日もまた一時間お前を愛している。誰も私以上にお前を愛した者はない。誰一人私ほど多くの力を、絶対の力を、お前に認めてやった者はない。だが私は不信の人間だという宣告をうけている。私は、女をではなく、恋を恋する軽薄児の一人なのだ。
 われわれ漂泊者というものは、みんなそういうふうに作られている。われわれの放浪癖も放浪生活も、その大部分は恋愛であり、好色である。旅のロマンティックの半分は冒険への期待にほかならない。しかし他の半分は、好色的なものを変形したり解体したりしようとする無意識の衝動である。われわれ漂泊者は、愛の願望の実現が不可能であればあるだけそれを育もうとして、本来ならば女性に対するものであるその愛を、村落や山に、湖水や峡谷に、路傍の子供らに、橋畔の乞食に、牧場の牛に、鳥に、また蝶に、気軽く播きちらしてやることに馴れている。われわれは愛を対象から解きはなつ。われわれにとっては愛そのもので充分なのだ。ちょうど漂泊の中に目的地を求めず、ただ漂泊そのものの楽しみ、途上に在ることの楽しみを求めるように。
 晴れやかな顔をした若い女よ、私はお前の名を知りたいとは思わない。お前に対する愛を育てたり太らせたりしようとは思わない。お前は私の愛の目的ではなくて、むしろその動機なのだ。私はこの愛を路傍の花に、酒杯にきらめく日光に、お寺の塔の赤い擬宝珠(ぎぼし)に贈ってやる。私がこの世にうっとりしているのはお前のおかげだ。
 ああ、愚かなお喋りをしたものだ! 今日のあけがた、私は山のヒュッテであの金髪の女を夢に見た。私はばかばかしいほど夢中になった。もしもあの女がそばにいてくれるなら、その代わりに漂泊のあらゆる喜びといっしょに、残りの生涯さえ与えてしまったかもしれない。私は今日一日じゅう、あの女のことを思うのだ。あの女のために酒を飲み、パンを食うのだ。あの女のために村や塔の絵を手帳へかくのだ。あの女が生きていること、あの女に遭うことができたことを、あの女のために神様に感謝するのだ。私はあの女のために一篇の歌を書こう。そしてこの赤い葡萄酒に酔おう。
 こうして晴れやかな南国での私の最初の休息が、山のかなたの一人の明るい金髪の女へのあこがれに終始することになってしまった。なんとあの生き生きした口が美しかったことだろう! この哀れな生がなんと美しく、なんと愚かしく、またなんと魅力に満ちていることだろう!

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