「里見八犬伝」(巻一)

滝沢馬琴作/山田野理夫訳

エキスパンドブック 846KB /ドットブック版 210KB/テキストファイル 175KB

700円

ときは戦国。安房国(千葉県)を領する里見義実《よしざね》は安西景連《かげつら》に攻められる苦戦のなかで、たわむれに犬の八房《やつふさ》に向かい、「景連の首をとってくれば娘の伏姫《ふせひめ》を与えよう」といった。この冗談が現実となったばかりか、八房はほんとうに伏姫を欲しがる。伏姫は犬を殺そうとする父を制して、八房と一緒に出奔する。二年後、義実は娘の救出にむかい、犬と一緒にあやまって娘をも銃で撃ってしまう。伏姫は死ぬまぎわに妊娠していることを告げるが、けっして八房に身を汚されたことはないと誓い、身の潔白のあかしに切腹する…と、白煙があがり、伏姫の「仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌」の八字を彫った数珠が天空にのぼって光を放って飛び散った。その後、各地に八つの玉のそれぞれ一つを持った八人の犬士が生まれる。本巻には「仁の巻」と「義の巻」を収める。早くも四人の珠の所有者があきらかになる。

滝沢馬琴の波瀾万丈のファンタジー大作「南総里見八犬伝」。その原作の香りを伝えるようにと、作家・詩人の山田野理夫が細心の注意を払ってなしとげた現代語訳。エキスパンドブックには、原作所収の江戸時代の木版画を収録。

滝沢馬琴(たきざわばきん 1767〜1848) 本名興邦(おきくに)、のちに解(とくる)と改めた。号は曲亭馬琴。江戸の深川に生まれる。早くに父を亡くし奉公先を転々としながら医者や漢学者を志すが、24歳のとき人気作家の山東京伝に弟子入りをし、黄表紙や読本などの大衆文学を書き始める。ことに読本で大成し、代表作家として人気を得た。「南総里見八犬伝」の執筆中、失明するが、息子の妻お路の協力を得て口述で書き続け、1841年、28年の歳月をかけて完成させた。82歳で死去するまでに300余編の作品を残した。

立ち読みフロア
 京都にすむ室町幕府六代将軍足利義教(あしかがよしのり)と、関東管領(かんれい)ににんじられ、鎌倉にすむ足利持氏(もちうじ)とのあいだに、不和が生じた。持氏が自立のこころざしをいだいたからである。義教の軍と、それを支持する持氏の家来上杉憲実(のりざね)が合体し、持氏とその嫡子義成(ちゃくしよしなり)をせめた。持氏父子に利あらず、鎌倉の報国寺(ほうこくじ)におしこめられ、ついに父子は詰腹(つめばら)をきらされた。
 後花園(ごはなぞの)天皇の永享(えいきょう)十一年(一四三九年)二月十日のことである。持氏には、嫡子義成のほか二男春王(はるおう)・三男安王(やすおう)がいる。この春王・安王の二子は、かろうじて義教・憲実がたの目をのがれて、下総の国におちのびた。この地を持氏の家来結城氏朝(ゆうきうじとも)が所領していたからである。
 義にあつい氏朝は、春王・安王を主君としてむかえた。さらに京都の義教の命(めい)をこばみ、その配下の清方(きよかた)・持朝(もちとも)の大軍がせめてきても、ものともせずにむかえうった。
 この合戦のしらせをきき、持氏と縁のある里見季基(さとみすえもと)をはじめとする武士たちが、死を辞さず、結城勢のこもる城にかけさんじてくれた。結城勢は京都側の大軍にかこまれながらも、落城の気配はなかった。
 こうしてその年の春のころから、嘉吉(かきつ)元年(一四四一年)の四月まで、三年間にわたって篭城(ろうじょう)をつづけた。しかし、ほかに援軍もなく、兵糧(ひょうろう)も矢だねもつきはててしまった。
「いまや、のがれるみちはない。もろとも死ぬのみ」と、結城一族、里見の主従は覚悟をきめた。城門をひらき、うってでた。結城がたの兵どものしかばねの山がきずかれた。そして、城はここに落ちたのである。
 春王・安王はとらえられ、美濃(みの)の垂井(たるい)で首をはねられ、ぞくにいう結城合戦の幕はとじた。
 落城ま近とさっした里見季基は、自分の嫡子義実(よしざね)の姿をさがした。
 義実はこのころ十九歳で、又太郎(またたろう)と名のっていた。義実は、父季基とともに三年のあいだ篭城(ろうじょう)し、たたかっていた。この日も義実は敵の兵十四、五騎(き)をきり、さらに敵本陣にすすもうとしていた。季基はこれをよびとめて声をかけた。
「とどまれ、義実。父子ともに討死(うちじに)したら、どうする。先祖への不孝は、これにすぐるものはない。将軍家を敵として、持氏どの、氏朝どのにそむかず、これだけのはたらきにおよべば、いきおいつき、ちからきわまって落城にいたっても、わたしが節義のために死に、子のおまえが里見家のためにのがれても恥ではない。ここからすみやかにのがれて、時節をまち、里見家の再興をはかるのだ。これこそおまえのつとめだ」
 義実は、馬の鞍(くら)の上で頭を低くし、
「お話は、うけたまわりました。しかし父親の討死するのを眼前に見て、おめおめとのがれることは、三歳の童子にもできることではありません。わたしは武士の家にうまれ、すでに十九歳になります。文武の道をおさめ、その両道のなにごとかをぞんじているつもりです。このまま冥土(めいど)におつれください。死ぬべきところで死ぬことができずに、笑いものとなり、名をけがし、先祖をはずかしめることはできませぬ」とこたえた。
 季基は、自分の息子義実の顔をつくづくとみた。こころのなかでたのもしくおもったが、表面ではしきりに嘆息していった。
「義実、わしはおまえに頭をそって出家せよ、といっているのではない。時節をまち、家を再興せよ、といっているのだ。おまえも知っているように、足利持氏どのはむかしからの主君ではない。わが先祖は、一族にあたる新田義貞(にったよしさだ)どのにしたがって、元弘(げんこう)・建武(けんむ)の役(えき)に戦功をたてたものだ。そののち、わが父里見元義(もとよし)は持氏どのの父君足利満兼(みつかね)どのにまねかれて、つかえることとなった。で、わしも、持氏どのに出仕することになったまでだ。しかも、春王・安王の二君のため死ぬ。こころざしはこれですんだのだ。これらの理義(ことわり)をわきまえないで、ただ死するのみでは武士とはいわぬ。学問をしたかいもあるまい。こうまでもうしてもわからなければ、親でもなく、子でもない」
 義実は、父のつよい語気に、おもわず馬のたてがみに涙をおとした。季基は、そのまま乱戦のなかに姿をけした。

……《第一巻 仁・聖女伝説の巻 第一回 落武者がいく》より


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