「里見八犬伝」(巻二)

滝沢馬琴作/山田野理夫訳

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この巻には「礼の巻」と「智の巻」を収める。礼の巻では、犬塚信乃《いぬづかしの》と犬飼現八《いぬかいげんぱち》の2犬士が利根川をのぞむ芳流閣《ほうりゅうかく》の屋根の上で戦う名場面がよく知られている。二人は葛飾の行徳の入江で旅籠屋の文五兵衛に助けられるが、犬塚信乃は文五兵衛の話から、現八とはもちろんのこと、文五兵衛の息子の小文吾《こぶんご》とも不思議な因縁で結び合わされていることを知る。さらに小文吾の義弟房八と妹ぬいの犠牲によって、その子である犬江親兵衛《いぬえしんべえ》も、また犬士のひとりであることが明らかになる。信乃、現八、小文吾の3人は幼い親兵衛を祖母に託し、大塚村にいる犬川荘助を迎えにいく。だが、荘助は主人殺しの罪で処刑されようとしていた…
立ち読みフロア
 浜路(はまじ)は、兄道節(どうせつ)から父母の名をきいた。ねがいの一つがかなえられたのだ。自分の非運が実母の罪のむくいだったことも知った。浜路はこれが末期(まつご)かと、ようやく首をあげ、
 「あなたが、兄上さまですか。仇(あだ)をうっていただき、おもいがけぬご介抱(かいほう)もうけました。だが、会うを別れの《いまわ》の対面、はずかしく、悲しいかぎりです。まことの親のことを知ることができたのは、神の冥助(めいじょ)か仏の慈悲(じひ)でございましょう。
 わたしの夫は、もと管領(かんれい)、足利持氏朝臣(もちうじあそん)譜代(ふだい)の近臣大塚匠作(おおつかしょうさく)どのには孫、犬塚番作一戌(いぬづかばんさくかずもり)どのの一子、犬塚信乃戌孝(しのもりたか)といいます。わたしの養母の甥(おい)ですが、そのこころは正しく、文学武芸にあかるく、由緒(ゆいしょ)ある武士です。はやくに孤児となり、伯母婿のもとに身をよせていました。伯母婿に所領の田は横領されましたが、時運にまかせてひとをうらんだりはしません。
 その犬塚の家に、名刀がつたわっておりました。それがこの村雨(むらさめ)です。親の遺訓で年ごろの宿願をはたそうと、村雨をたずさえ、滸我(こが)(古河)へまいるその前夜、伯母夫婦は左母二郎(さもじろう)とあいはかり、村雨をとりかえ、それを左母二郎は横どりしたのです。わが夫が滸我にまいったなら、そこつの科(とが)にとわれるでしょう。村雨をとりかえそうとおもっても、この深手。ねがうは兄上さまのたすけのみ。ここから滸我におもむかれ、宝刀をわたしてくださいませ、兄上さま」という。
 道節は嘆息し、
 「夫をおもうそのねがい、ききいれてやりたいが、それは私(わたくし)ごとだ。君父(くんぷ)の仇をうつことをあとにして、私ごとを先にはできまい。わたしは君父の仇、扇谷定正(おおぎがやつさだまさ)にこの村雨でうらみをかえそうとおもう。これをもって仇にちかづき、宿望とげて余命があるなら、そのときこそ犬塚信乃の安否(あんぴ)をとい、ぶじめぐりあったら村雨をかえそう。わたしが仇の手でころされたなら、この太刀もぶんどられるだろう。貞操節義は女の道、忠信孝義は男の道だ」とさとした。
 浜路の息がたえた。道節は、まぶたをしばたたき、
 「たぐいまれな妹の節操。せめてこのなきがらをおさめて冥府の苦悩をすくおう」とだきかかえて火定(かじょう)の穴にいれ、のこっている柴をなげこんだ。
 夜風に、埋火(うずみび)がふたたびもえたった。しばらく合掌(がっしょう)し、「泡影無常(ほうえいむじょう)、弥陀方便(みだほうべん)、一念唱名(いちねんしょうみょう)、頓生菩提(とんしょうぼだい)、弥陀仏(みだぶつ)弥陀仏……」ととなえた。またため息をつき、
 「わたしが大義をはたすために、愚民をあざむいた因果で、火定の火がそのまま妹の身をやく火葬(かそう)となった。わたしもまたどこの地で死に、どこの野に骨をうずめるだろう」と、村雨を腰にし、立ち去ろうとする。
 それをうかがっていた額蔵(がくぞう)は、おもった。
 「村雨は道節の手にわたり、その太刀をもって仇にちかづこうという。浜路のたのみもきかぬ。道節がうたれれば、村雨はうしなわれるだろう。
もし、仇をうち、犬塚信乃にわたしても、火急の難儀をすくうことはできぬ。信乃の安否は、いよいよこころもとない。名のってつげ、太刀をこうても、妹にすらゆるされないのだ。わたしにわたすわけはない。くみふせてもとりかえそう」
 額蔵が、「まて!」と道節をよびとめ、木かげからひらりと走り出ると、村雨の《こじり》をとり、二足三足ひきもどした。道節はおどろきふりかえり、こじりの手をはらいのけ、太刀をぬこうとした。額蔵は、横ざまにくみついた。勇者と勇者のくみうちである。いつはてるかわからぬ。

……《第三巻 礼・双玉血戦の巻 悪のむくい…蟇六(ひきろく)・亀篠(かめざさ)のさいご》より


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