「殺意」

フランシス・アイルズ/宮西豊逸訳

ドットブック版 257KB/テキストファイル 229KB

600円

田舎町の開業医ビクリーは妻のジュリアの抹殺を決意する。周到完璧と思われる殺害計画にもとづく実際の犯行、捜査警察官との虚々実々のやりとり、緊迫感あふれる法廷での尋問、そして意想外な結末……倒叙形式ミステリの最高傑作のひとつであり、推理サスペンスの頂点をなす代表作。

フランシス・アイルズ(1893〜1970)英国を代表するミステリ作家アンソニー・バークレーの別名。「パンチ」誌にユーモラスな雑文を書いたりしたあと、ミステリ執筆に転向、「毒入りチョコレート事件」(1929、バークレー名義)の知的ユーモアの利いた作風で高い評価を得た。バークレー名義の代表作には他に「試行錯誤」「第二の銃声」などがある。アイルズの筆名での代表作は、「殺意」以外に「犯行以前」など。

立ち読みフロア
 エドマンド・ビクリー博士が妻を殺そうとして行動をはじめたのは、その決心をしてから何週間も後のことだった。殺人は冗談半分にやれることではない。ほんのちょっと《へま》をやっても、わが身の破滅をまねくかもしれない。ビクリー博士はわが身の破滅をまねくような危険をおかすつもりはなかった。
 もちろん、彼は急にその決心をしたわけではなかった。すこしずつ幾度も考えめぐらした結果、その計画がきまってきたのであった。どんなにぼんやりした計画にしても、それは出発点がなくてはならないとすれば、ビクリー博士の計画は、六月の末に近い、ある暑い土曜日の午後のテニス・パーティが、その出発点であったと見られそうである。
 それはビクリー夫妻が主催していたパーティであった。ワイヴァーンズ・クロスの人びとの半分、いや、めぼしい人物ぜんぶが、やって来るはずになっていた。二時ちょっと前に、ビクリー博士が、骨の折れる午前中の往診から、つかれきって昼食に帰ってみると、フェアローン荘は相当ごったかえしていて、妻は食堂を片づけさせようと、いらだたしげに待ちうけていた。
「ほんとに、エドマンド」あつい眼鏡ごしに、とがめだてるように彼を見やりながら、彼女は切り出した。「ほんとに、あなたも、今日くらいは気をくばって、もうすこし早くお帰りになるものと思っていましたわ。こんなに、いつまでもあなたのお食事の後しまつがつけられなくては、フロレンスもサンドウィッチのほうをてきぱきやれないじゃありませんか」夫の帰りがおそい場合、いつもビクリー夫人は、定刻にひとりで食事をすませてしまうのであった。
「すまなかったね、ジュリア。午後にはからだがあくように、午前中にすっかり往診をすませるようにしたほうがいいと思ったものだからね」
「そりゃ、わかってますよ」ビクリー夫人は、わざと夫が道草をくっていたにちがいないという態度をみせて、つじつまの合わない矛盾につじつまを合わせようとした。
 ビクリー博士は皿のそばのびんから、ビールをグラスにつぎ、子羊の脚の冷肉を少し切りとった。くたくたになっている彼は、それ以上に弁解しようとしなかったし、してみたところで、まるでむだであることも知っていた。眼前の骨つき肉を、彼は悲しそうに見つめた。ひざ肉は残されていなかった。彼が好んでいたのは、ひざ肉だけだった。不運なことに、ジュリアもそれを好んでいたのであった。
 味気もなさそうに、彼はたべはじめた。
 ジュリアは番兵みたいに、彼を見おろして立っていた。彼がもう一ぱいビールをつごうとしかかると、彼女は口を出した。
「だめよ、エドマンド。こんな日には、一ぱいでたくさんですわよ」
「暑ければ暑いほど、ビールの味はいいんだがね」と博士は言ってみたものの、たいして望みもいだいていなかった。
 だいたい何にしてもそうなのだが、冗談めいたことなど受けつけないジュリアは、ただ顔をしかめただけだった。「しなければならないことがたくさんあるのに、ここに坐りこんで飲んではいられませんよ。それに、ビールを飲むと、ひどく汗が出るのはおわかりでしょう。もっとお肉をめしあがる? じゃ、すぐ呼鈴をお鳴らしになるがいいわ」
 ビクリー博士は立ちあがった。ジュリアのほうが立っているのだから、自分で呼鈴を鳴らして、こっちにめんどうをかけないようにできるだろうに、と彼は思ったが、そうは言わなかった。部屋のうちにそれをやる男がいるのに、自分で呼鈴を鳴らしたりするのは、中流階級の作法とジュリアは考えていた。そして彼女にとって中流階級の作法は、彼にとっての売薬みたいなもので――ぜんぜん受け入れることができないものだった。
 ビクリー夫人は夫より八つ年上で――四十五、彼は三十七だった。おまけに、なみはずれて小男の博士よりも、彼女のほうがたっぷり二インチは背も高かった。すこし痩せぎすな、まっすぐなからだの女で、ちぢれた黒髪、唇のうすい口をしていて、その両すみが下へまがり、がんこなへの字になっている。まるで陽気でないだけでなく、まるで愛らしくない顔だった。そしてすこしとび出た、うす青い眼の前に、つのぶちの眼鏡でなく、ふちなしの眼鏡をかけていた。二人は結婚して十年になるけれど、子供はできていなかった。


……冒頭より

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