「サテュリコン」

ペトロニウス/岩崎良三訳

ドットブック版 170KB/テキストファイル 147KB

700円

この作品の全体は、エンコルピウスという主人公、その友人アスキュルトス、2人のあいだを往来する美少年の奴隷ギトンの3人が、地中海の港町を何かの罪の意識に追われながら彷徨する物語。これにさまざまの猥雑な人物、情景がからまる。ただしはもとの16巻のうち、現在残るのは2巻だけなので、ところどころ意味不明な個所も見受けられる。第二部「トルマルキオの饗宴」は、当時のローマの風俗と淫蕩ぶりを描いて、なかでも有名な部分である。

ペトロニウス(27?〜66)古代ローマ帝政期の有能な行政官・文人。ガイウス・ペトロニウス。皇帝ネロの寵愛をうける。ビテュニアの属州総督を務め、のちには補欠執政官となるが、親衛隊長官のティゲリヌスの中傷によって自決を命じられた。タキトゥスによって《趣味の裁判官》と呼ばれたように、優雅な暮らしを送った。シェンキェーウィチの『クォー・ウァーディス』のなかにも登場する。

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 ついに三日目の日がきた。自由に振舞える饗宴が約束されていたのに、ぼくらは傷つき痛み、逃亡のほうがここに休息するよりまだましであった。そこでどうしてこの切迫したあらしを避けようかと憂欝(ゆううつ)な思案にふけっていたとき、アガメムノンの奴隷の一人がぼくらの当惑しているところへ割り込んできていった。
「どうしました? 今日はだれの家で饗宴があるのかご存じないのですか? トリマルキオというこのうえもないしゃれ者ですよ。かれは自分の寿命から時がどれだけ失われたかを絶えず知るため、食堂に時計とラッパ手とを用意しているのです」
 そこでぼくらはいっさいの煩悶を忘れて慎重に上衣を整え、今まで心からぼくらに召使として仕えてきたギトンに浴場へ伴するようにいいつけた。
 ようやく身装(みなり)をととのえてぼくらは散歩に出た。それからどちらかといえば、むしろ戯れにボール投げの仲間に加わった。するとたちまち赤い下着(トウニカ)を着込んだ一人の禿げ頭の老人が、幾人かの髪を伸ばした少年たち〔主人の放埓な快楽のため仕える奴隷は長髪を蓄えることを許されていた。髪をのばしているということは、すなわち堕落を意味していた〕とボール投げをしているのに気づいた。ぼくらの注意をひいたのはその少年たちではなく――かれらとてもそれに価したけれども――せわしく緑のボールを投げつづけている括り靴(ソレア)〔室内や浴場ではく靴。表向きこれをはくことは非常な不作法であると考えられた〕をはいたこの家の主人であった。かれは一度地に蝕れたボールは二度とけっして投げない。袋にいっぱい持って立っている一人の奴隷が遊戯している人たちに代りを渡してやるのである。ぼくらはまた他の奇妙な点にも気づいた。それは二人の宦官(かんがん)がその仲間の両極点に立っていて一人は銀製の尿瓶(しびん)を持ち、もう一人のほうは勝負がつづけられているさいボールを手から手へ投げたときにではなく、地におとしたときに数えるのである。この見事な遊戯を眺めていると、メネラウスが駆けてきてこう教えてくれた。
「きみたちに食卓の席を与えてくださるのはこの人ですよ。きみたちの眺めているこの遊戯こそかれの饗宴の始まりにほかならないのです」
 メネラウスがいい終えるか終えないうちに、トリマルキオはかれの指をピチピチと鳴らした。すると一人の宦官がこの合図に駆けよって、遊戯をつづけているかれのために尿瓶を支えた。膀胱(ぼうこう)をらくにさせてしまうと、かれは指洗盤を求めて手を浸し、それから一人の少年の頭髪で拭いた。
 仔細(しさい)にわたって述べる余裕はないのでそれははぶくが、それからぼくらは浴場〔入浴の順序は脱衣後発汗させるため室内の空気を温めてあるテピダリウムを通ってからカルダリウムで入浴しそれからフリギダリウムで冷水に入る習慣であった〕へ入った。発汗室でしばらく汗を出したのち、冷水室へ移った。トリマルキオはすでにからだじゅうに香油を塗らせ、亜麻製の布は使わずにもっとも柔かい羊毛で作られた毛布でマッサージをさせていた。そうしているあいだ、二人のマッサージ医はファレルナぶどう酒をかれの目の前で飲んでいた。そしていい争ってみんなこぼしてしまった〔健康を祝して乾杯するときは神々の好意を懇請するため、ぶどう酒を食卓の下にこぼす習慣であった〕。トリマルキオはこれは自分の健康を祝しているのだといった。それからかれは真紅の毛氈(もうせん)の外套に包まれて舁(か)き床(どこ)のなかに入れられた。胸に徽章をつけた四人の先触れ奴隷と小さな年寄じみたただれ目の、主人トリマルキオより醜いかれのお気に入りの一人の少年が奴隷の曳く手車に乗って先立った。これが行ってしまうと小さな一対の笛を持った音楽師が先頭に近づいて、まるでかれの耳に何か秘密をささやいているかのように奏しつづけた。
 ぼくらはすっかり驚いたまま行列に従って、アガメムノンといっしょに入口に到着した。門柱には、つぎのように記した掲示がかけてあった。

 主人の命令なしに戸外に出る奴隷は百の笞刑(ちけい)に処す

 ちょうど玄関の内側に緑衣に桜色の帯をつけた門番が銀の皿の中に豌豆(えんどう)のさやをむきながら立っていた。扉の上に黄金の鳥籠がつるされ、そのなかから斑点のあるカササギが訪問者にあいさつした。ぼくはこのすべてのようすをあきれて見ていたが、危うく引っくりかえって脚を折るところであった。なぜなら入って左手の、門番の詰所からいくらも離れていないところに、一匹の鎖につながれた巨大な犬が壁に描かれていて、その上に頭文字で、

 この犬に注意せよ

 と書いてあったからである。


……「第二部 トリマルキオの饗宴」冒頭

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