「古代への情熱シュリーマン自伝

ハインリヒ・シュリーマン/立川洋三訳

ドットブック版 850KB/テキストファイル 116KB

400円

ホメロスの「イーリアス」に魅せられた少年の心は、終生かわることはなかった。事業で成功した彼は、私財をなげうって後半生を幻の「トロイア」の発掘に邁進した。今では乱暴と一蹴されてしまうような方法で、彼は大規模な発掘を敢行、数多くの遺跡を発見して、考古学や美術史に多大な貢献をすることになった。本書は、そうした彼の生涯と事業の概要を知るための好著であり、最も劇的な発見物語である。

ハインリヒ・シュリーマン(1822〜90)ドイツの考古学者。北ドイツの小都市に牧師の子として生まれた。実科中学校を卒業しただけで、ロシアに移住してから実業家として成功した。このころ世界漫遊の旅にのぼり、1865五年日本にも立ち寄った。やがてパリに移り、少年時代からいだきつづけてきたトロイア発掘の計画に没頭し、またアテネの名門の娘ソフィアと結婚、よき協力者をえた。小アジアのヒッサリックの丘を発掘し、ここがトロイアの地であることを実証し、全世界に衝撃を与えた。ギリシア本土のミケーネ、ティリンス、オルコメノスをも発掘。晩年はアテネに住み、世界の名士としてふるまった。旅行の途中ナポリで急死、墓はアテネにある。その発掘品はベルリン、アテネ、トルコの博物館におさめられている。数奇な生涯をたどった伝記的人物として有名。

立ち読みフロア
「ついに私は、ある半生の夢を実現できる境涯に達したのだ。私にとってあれほど深い関心の的でありつづけた、あの伝説の諸事件の舞台を、また、その冒険によって少年の私をあれほど魅惑し、元気づけてくれた、あの英雄たちの祖国を、いまや私は時間を気にする必要もなく、思うぞんぶん、実地検分することができる身分になったのである。かくて一八六八年四月、あこがれの旅路についた私は、ローマとナポリを経て、コルフ、ケファロニア、イタケ〔いずれにもギリシア西岸に近いイオニア海の島〕の諸島へ渡り、オデュッセウスゆかりの地、イタケにおいては、徹底的な調査をさえ試みた」
 とシュリーマンは、この古跡巡礼への門出にあたって書いている。
 ところで、そのイタケ島には、アエトス山という山があるのだが、その山の頂を古代色豊かな周壁がとりまいているところから、土地の人々は、これこそオデュッセウスの城塞に相違ない、とみなしていた〔ホメロスではイタケがオデュッセウスの故郷とされているのだが、はたして今日のイタケがそのイタケであるかどうかは、疑問視するむきが多い。もちろんシュリーマンはこの点でも生一本にすぎるぐらいホメロスによりかかっている〕。
 シュリーマンがまず第一に発掘の鍬をおろしたのは、この山の上においてであったが、彼がどうしてこの場所を掘り始めようと思いたったか、あるいはまた、発掘をしながら、彼がどんなことを考えていたかは、その著『イタケ、ペロポネソス、トロイア』〔一八六九年〕のなかでつぎのように述べられている。
「アエトスの頂上は、ほとんど一面といっていいほど、大きな水平の石でおおわれていたが、それでも、数メートルずつ間隔をおいて、あちこちに灌木や雑草がはえているところをみると、ここにも、どうやら土壌があるらしいことはわかった。そこで私は、地面の状態いかんによっては、ただちに発掘を始める決心をした。ただあいにくと、この日になんら道具のもちあわせがなかったため、せっかくやりかけた調査も、翌日まで延期しなければならなかった。
 うだるように暑い日で、私の寒暖計は摂氏五十二度をさしていた。じりじりと渇きが咽喉《のど》を焼きこがすというのに、私の手もとには、酒はもとより、一滴の水もなかった。だが、今、私が立っているところは、ほかでもない、あのオデュッセウスの宮殿の遺跡ではないか。そう思うと、身うちには鬱勃《うつぼつ》と感激がわきあがり、いつか私から、炎熱も渇きも遠のいてしまった。忘我の境地というのか、しばし私は、夢中になって地形を調べてみたり、『オデュッセイア』をひもといては、この場所を舞台とした感動的な場面の叙述を読み返したりしていた。また、一望のもとにひろがる景観にも目を見はらないわけにはいかなかったが、そのみごとさたるや、つい一週間まえ、シチリアのエトナ山頂からながめおろした展望にまさるとも、けっして劣りはしなかった。
 さて、翌七月の十日、私は朝早く海水浴をすませると、四人の人夫を伴って五時に宿をたった。七時ごろ、われわれはアエトスの頂上についたが、満身すでに汗びっしょりであった。私はまず人夫たちに山上の雑草をむしらせ、それから、おもむろに北東の一隅を掘らせた。私の推定では、オデュッセウスが夫婦の臥床《ふしど》をつくる材料にしたという、あのすばらしいオリーヴの木、また彼がその寝室を建てた場所にもあたる、あのオリーヴの木が立っていたのは、このあたりのはずであったからだ。『オデュッセイア』第二十三巻には、こう書いてある。
『庭の中に葉茂るオリーヴ樹が高く繁りて、柱のごとく強く生い立つ。このまわりにわれは密に並べたる石にて部屋を建てて、ついにしあげ、その上を堅固に屋根ふき、かつ密に組み立てられた扉を設けた。かくして後、長き葉のオリーヴ樹の枝葉を切りさり、根本より上へと幹をあら削りして、手斧にてそのまわりを巧みに滑らかにし、つぎに準縄に従ってまっすぐにし、かくして寝台の柱を巧みにこしらえ、錐《きり》にてすべて穴をあけた。しかるとき、われはそれを元にして、臥床を削り作って、ついにしあげ、黄金、銀ならびに象牙を象眼し、紫に輝くウシの革ひもを張った』
 だが、今ここに姿を現わしたものは、単なる瓦や陶器のかけらばかりで、それ以上はなにも出てきそうもなかったが、やがて、七十センチほども掘ったろうか、そのあたりで岩面が現われた。見ると、その岩面には、たしかにあのオリーヴの木の根がくいこんだと思われる形跡が、いく筋も縦横に認められはしたが、その点を除いては、ここで考古学上の収穫を望むことは、もはや諦めなければならなかった。
 そこで私は、こんどはその隣接地を掘らせてみた。おそらく城壁の一部であったと思われる二個の切り石が、そこで発見されたからであるが、三時間も掘りつづけたあげく、ついに人夫たちは、そこに小さな建物の下層部分らしいものを掘りあてることに成功した。ところが、その石材を調べてみると、いずれも器用に削ってあるうえ、白セメン卜でしっかりと接合してあるので、残念ながらこの建造物は、目ざす時代よりずっと後代のもの、すなわちローマ時代のものと断定せざるをえなかった。
 さて、人夫がこの発掘にとりくんでいる間、私自身はといえば、できるかぎり丹念に、宮殿の敷地と考えられるところを調べまわっていた。すると、一端がわずかに曲線を描いているように見える石材が一個見つかったので、まわりの土をナイフで取り除いたところ、その石は半円形をしたものであることがわかった。私はなおもナイフで掘りつづけたが、そうすると、まもなく、その平らな側面のほうには、いわば小規模の石垣とでもいおうか、小石がいくつも積みかさねてあって、そのため全体が結局は円形になっていることに気がついた。この発見に気おいこんだ私は、さっそくこの円形のものをえぐりだそうと思ったのであるが、まわりの土壌には、石灰化した骨の灰とおぼしい白い物質が混じっており、そのためか、土壌が石と変わらぬぐらい堅くなっていたので、ナイフでは目的を達することができなかった。そこで、こんどは鍬で掘ってみた。と、まだ十センチも掘らないころ、私の鍬は一個の美しい、しかしきわめて小さな壺にぶつかり、それを打ちこわしてしまった。案のじょう、その中には人間の灰がはいっていたのだ。

 ……「 イタケ、ペロポネソス、トロイアへの最初の調査旅行」より

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