「良き兵士シュベイク」(上下)

ヤロスラフ・ハーシェク/辻恒彦訳

(上)ドットブック版 234KB/テキストファイル 157KB

(下)ドットブック版 228KB/テキストファイル 151KB

各800円

プラハで怪しげな犬の売買をして暮らしていたシュベイクは、オーストリア軍に召集されて前線に送られる。以前に兵役に服したときは「愚鈍」とレッテルをはられて除隊になったのだが、シュベイクははたして「愚鈍」なのか、それとも「知恵者」なのか、なかなかわからない。だが、シュベイクは上官の命令を忠実に実行することで、軍に多大な損害をあたえる。軍律の盲点をつく天才だったのだ。この長編は、第一次世界大戦時に被支配状態にあったチェコ人の一下級兵士がおこなった珍無類の抵抗と冒険をコミカルにえがき、諷刺・ユーモア文学の世界的傑作として名高い。シュベイクが常連だったことになっているプラハのレストラン兼酒場「ウ・カリハ(さかずき屋)」は、今も観光名所として知られる。ドットブックには、上の表紙絵のような、ハーシェクの親友ヨゼフ・ラダの手になる原書挿絵を多数いれてある。

ヤロスラフ・ハーシェク(1883〜1923)プラハ生まれのチェコの作家。17歳のときから新聞に諷刺的な記事を書き、多くの短編小説を発表した。第一次世界大戦ではオーストリア・ハンガリー帝国の兵隊としてロシア戦線に従軍、捕虜になった。帰国してからは大作「良き兵士シュベイク」の執筆に没頭したが、未完のままに早世した。

立ち読みフロア
第一部 後方にて

一 愚直兵士シュベイクの欧洲大戦参加

「旦那様。フェルジナントがぶち殺されただよ」
 兵隊に取られていたが、軍医の委員会から低能なりと申し渡されて数年前除隊となり、その後はお化けのようなみにくい犬をいい加減にごまかしては売って、その日の生計を立てているシュベイクは、この商売の外に、リウマチを持っていて、召使いのミュラー婆さんが今こう話しかけたときも、ちょうどオポーデルドク(リウマチの民間薬)を膝小僧にすりこんでいたところだった。
「どこのフェルジナントがだ、ミュラー婆さん?」と、シュベイクは膝をこする手を休めないできいた。「フェルジナントったって二人あるからな。一人は薬屋プルーシャさんとこの召使いをしているフェルジナントで、こいつ、いつだったか間違えて毛染め薬を一瓶飲んでしまったことがある。もう一人はフェルジナント・ココーシュカって奴だが、何でも犬の糞をかき集めるのが商売だったっけ」。
「旦那様、冗談はよすべえ。フェルジナント皇太子様だよ、あの肥った優しい皇太子様だよ」
「そいつあ大変だ」と、シュベイクは叫んだ。「えれえ事をやらかしたものだ。してどこでそんな目におあいなすったんだい、皇太子様は」
「サラエボで、ピストルで射たれなすっただ、旦那様。妃様《ひいさま》を連れて自動車でそこへお出でなすっただ」
「それ見な、ミュラー婆さん、自動車だ。あんな方々は自動車に乗れるんだ、そしてまさか自動車旅行で不幸な目にあおうなんて夢にも思わなかったろうて。だが場所が悪いや、サラエボだもの。知ってるかい、ミュラー婆さん? サラエボってのはボスニアにあるんだよ、こりゃてっきりトルコ人の仕業に違えねえ。いったい俺らこのボスニアだのヘルツェゴビナだのって所を取らなきゃよかったんだ。そうだろう、婆さん。じゃ皇太子様ももう神様のふところで休みってわけだな。長くお苦しみだったのかい」
「直ぐおなくなりなすっただ、旦那様。ピストルってやつは冗談じゃねえからのう」
「ところが、どんなにしたって弾丸の飛びださねえピストルもあるんだぜ。だが皇太子を射とうってえんだから上等なのを買ったにちげえねえ。それからピストルをぶっ放した男は立派な服装をしてたにちげえねえぜ。なんしろ皇太子様を射ち殺すってのは生易しい仕事じゃねえからな。密猟者が山番人を射つのたあ、ちとわけがちがう。第一におそばに近づくことからして問題だ、まさかボロじゃ近寄れめえ。お巡査《まわり》に怪しまれねえためにゃシルクハットもかぶらなきゃなんねえからなあ」
「奴らどっさりいてやったってえだよ、旦那様」
「そりゃ決りきってらあね、ミュラー婆さん」――膝の按摩を終って、シュベイクは言った。「三人寄れば文珠《もんじゅ》の知慧って諺にもあるとおりだ。一人や二人で出かせる仕事じゃねえ。ところで俺らの皇帝様もこれからは気をつけなくちゃなるめえ。フェルジナントよりゃ、ずっと敵が多いんだからな。皇太子のほかにやられた人があるのかい」
「新聞で見ると、皇太子様は篩《ふるい》みたいになったとよ。弾丸がみんな当ったってえだから」
「そうだ、そいつあ恐ろしく速く飛びだすんだからな。わしもそんなブローニング銃を買いてえものだよ。見たところ玩具《おもちゃ》のようだが、肥っておられようが痩せておられようが皇太子の二十人くらいは二分間と経たねえうちに射ち殺せるんだからなあ。ミュラー婆さんだから打明けて言うが、痩せた皇太子様よりゃ肥った皇太子様の方にゃうまく当るぜ。ポルトガルの王様が射たれたことをおぼえているかい。あの王様もやっぱり肥っておられた。そりゃもちろん、王様だもの痩せてるはずはねえんだが。じゃわしゃこれから酒屋の『さかずき』へ行ってくるぜ」
『さかずき』には、一人の客がぽつねんと坐っていた。それは私服警官のブレートシュナイダーであった。主人のパリーベクは茶碗を洗っていて、ブレートシュナイダーが真面目な話をしむけるが、いっこう受け合わない。
 パリーベクはゲヒンなので有名である、二言目には糞だの尻《けつ》だのと言う。それでいてなかなかの読書家で、ヴィクトル・ユゴーのどの作品はどうのって、自信をもって人に教える。
「申し分のない夏だね」と、ブレートシュナイダーが真面目な話を持ちかけようとする。
「何もかも糞みてえですよ」パリーベクは、茶碗をたなに片付けながら言った。
「なんでもサラエボじゃ素晴しいことがあったってね」どうせろくな返事はしないだろうとは思いながらもブレートシュナイダーは、また話しかけた。
「どこのサラエボですかい。ヌースレの葡萄酒屋ですかね。あすこじゃつかみ合いの無《ね》えって日がありませんや。ご存知でしょうが、ヌースレでさあ」
「ボスニアのサラエボだよ。大将。フェルジナント皇太子が射たれたんだ。どう思うかね、君は」
「わしゃそんなものに口を突っこむことは嫌いでしてな。そんなものあ糞食らえでさ」と、丁寧に言いながら、パリーベクはパイプに火をつけた。「きょう日《び》そんなものに口を突っこんでた日にゃ命にかかわりまさあね。わしゃ商売人ですから、お客が来てビールを注文すりゃ、注《つ》いであげるまででさ。だがやれサラエボだの、政治だの、皇太子様だのって、こちとらにゃ何でもありませんや、たかだかパンクラッツ〔プラハ近郊にある大刑務所〕のお世話になるだけですからな」

……冒頭より

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