「密偵」

コンラッド/井内雄四郎訳

エキスパンドブック 450KB/ドットブック 272KB/テキストファイル 239KB

600円

19世紀末の巨大都市ロンドン、あらゆる国々からの亡命者が集まるるつぼ。そこにうごめくアナーキストたちの姿を通して政治と人間ののっぴきならない交渉を描き切ったコンラッドの代表作。エキスパンドブック版にはH・A・ミュラーの木版画15点所収。

ジョーゼフ・コンラッド(1857〜1924) ポーランド生まれの英国の作家。帝政ロシア支配下の南ポーランドに貴族の息子として生まれた。本名ユーゼフ・テオドル・コンラッド・ナウェンチ・コジェニョフスキー。11歳で孤児となり、母方の伯父の家に引き取られる。のちイギリス船員になり、8年後イギリスに帰化し、結婚して作家生活に入った。名前もそのころに英国風に改めた。処女作「マライ群島のキプリング」が賞讃をもって文壇に迎えられ、以来、未完の長編「サスペンス」を残して急逝するまで、多くの長編、短編、評論、劇作を発表し、イギリスを代表する作家となった。代表作「闇の奥」「密偵」「ロード・ジム」「ナーシサス号の黒人」など。

立ち読みフロア
 朝でかけるとき、ヴァーロック氏は妻の弟にほんの名ばかり店をまかせていった。そうできたのも、いつでも店はほとんどひまだったし、じっさい夕刻前はまるでお客がなかったからだ。ヴァーロック氏はおもてむきの商売には無頓着同然だった。それに、スティーヴィーには妻がついている。
 店も住居も小さなものだった。それはロンドンに改造時代が訪れる以前よく見うけられた、あのよごれた煉瓦(れんが)造りの家のひとつで、四角い箱形の店には小さいガラスのはまった前面がついている。日中、戸は閉ったままだが、夕刻になると、控え目に、いかにも猜疑心が深そうに細目にあけられるのだ。
 飾り窓には、裸同然の踊り子の写真、売薬よろしく包み紙に入った得体のしれぬ包み、大きく黒々と二×六と書かれた薄っぺらい黄色の閉じ封筒、まるで乾燥させるように紐(ひも)に吊した数冊のフランスの古い艶笑本(えんしょうぼん)、薄汚れた青磁の壷、黒い木製の小箱、不変色インクの瓶、ゴム印、数冊のいかがわしげな題名の本、「たいまつ」とか「ゴング」とか威勢(いせい)のいい名前をつけ、粗悪な印刷の古びたインチキ新聞が何部か置いてある。ガラス窓のなかの二つのガス灯の炎は、節約のためか、お客のためだか知らないが、いつも低くねじってある。
 店の客は、しばらく窓の前をうろついて急にすーっと入ってくる少年か、大人かのどちらかだったけれど、概して金がありそうには見えなかった。
 大人のなかには、オーバーの襟を口ひげのあたりまで立てている者がいた。あまり上等でない彼らのすり切れたズボンのすそには幾筋もの泥がつき、中の足だってどれもたいした物ではないようだった。彼らはオーバーのポケットに深く手をつっこみ、まるで鈴の鳴りだすのを恐れるように、肩からさきにすばやく横ざまに入って来る。
 鈴は曲った細長い鉄片で戸口に吊され、それを避けるのはむずかしいことだった。ひびだらけの鈴なのに、晩方など、ほんのちょっとふれただけで、ぶしつけに悪意をこめて、お客の背後で鳴り響くしまつである。
 ガラガラと鈴が鳴る。すると、その合図でペンキ塗りのカウンターのほこりだらけのガラス戸を通って、いつも奥の居間から、あわただしくヴァーロック氏があらわれるのだった。生来ねむたげな目つきで、きちんと服を着たまま、ベッドも整えずに一日中寝そべっているような感じだった。ほかの人間なら、自分のこういう容貌をあきらかに不利だと感じるにちがいない。小売業では、商人の愛想のよい魅力的な様子がすこぶるものをいうからだ。ところが、ヴァーロック氏ときたら自らの商売をよくわきまえ、自分の容貌を審美的に思い悩むということがなかったのだ。彼はいとわしい脅迫さえはねかえしそうなふてぶてしい落着き払った目つきで、どう見ても受けとった金に値しないようにおもえるひどい品物、たとえば、ひと目でなかが空っぽなのがわかる小さなボール箱、ていねいに封をした例の薄っぺらな黄色い封筒、思わせぶりな題のよごれた紙表紙の本を、カウンター越しに売り渡す。ときには、色褪(あ)せた踊り子の写真が、まるで生身の娘よろしく愛好家の手に渡される。
 ときどき、鈴の音に応じてヴァーロック夫人があらわれることもあった。彼女はゆたかなバストをぴっちりした胸衣に包み、みごとなヒップをした若い女で、髪がとても手際(てぎわ)よく結いあげられていた。夫同様落着いた目つきの彼女は、カウンターの城壁の背後で測り知れないひややかさを守りつづけた。だから、比較的感じやすい年頃の客などは、相手が女なので急にどぎまぎし、内心腹を立てながら、ふつうは六ペンスの不変色インクをひと瓶(この店では一シリング六ペンスもしたが)くれといい、外に出るやそうっと溝(みぞ)のなかにすててしまうのだ。
 晩の客は襟を立て、ソフトを目深(まぶか)にかぶった男たちだった。彼らはヴァーロック夫人に親しげに会釈し、今晩はとつぶやいて、カウンターの端の跳ね蓋(ぶた)をあげ、廊下と急な階段に通じる奥の居間に入っていく。売場のドアは、ヴァーロック氏があやしげな品物を売りつけたり、社会の保護者としての使命を遂行し、家庭的美徳の涵養(かんよう)につとめている住居に通じる唯一の入口だった。今家庭的美徳云々(うんぬん)といったのは、ヴァーロック氏がまったく家庭的な男性で、精神的、肉体的にあまり家をあけようという欲求を持たなかったからである。家にいて、妻のウィニーの心遣いと彼女の母親のうやうやしい尊敬があれば、身も心も安らぐのである。

……冒頭より


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