「私の西域紀行」(上下)

井上靖著

(上)ドットブック版 584KB/テキストファイル 176KB

(下)ドットブック版 616KB/テキストファイル 135KB

各400円

 

「私の生涯の一書はこれだ」と井上靖はいう。白雪をいただく峻烈たる天山山脈、砂また砂の荒涼寂寞たるタリム盆地、西遊記おなじみの火焔山、そしてあの「敦煌」…いまそれらがあざやかによみがえる。憧れの地への四度にわたる踏査行によって、無数のロマンをはぐくんだ西域という土地が、克明に浮かび上がる!

井上靖(1907〜91)旭川で生まれ静岡で育つ。四高、京都帝大卒後、毎日新聞社へ。1950年「闘牛」で芥川賞受賞。以後作家として独立。代表作は『猟銃』『闘牛』『氷壁』などの現代もの、『風林火山』『真田軍記』『淀どの日記』などの歴史小説、中国の西域を題材にした『敦煌』『楼蘭』『天平の甍』など。

立ち読みフロア
一 ウルムチへ

 八月十五日(昭和五十二年)、五時三十分起床、大型鞄二個、部屋の外に出す。新疆(しんきょう)滞在が半月ほどになるので、荷物は全部携行することにする。洗顔して窓を開ける。快晴、太陽昇りつつある。
 六時四十分、北京飯店を出発、勤めに出る自転車の洪水の中を行く。街路樹のポプラの葉が陽にきらめいて美しい。日中は暑くなるであろうが、今は二十七度。北京秋天という言葉を思い出す。それほど天は高く、澄んでいる。
 自動車には、私の他に日中文化交流協会の白土吾夫(しらとのりお)、佐藤純子両氏が乗っている。佐藤さんは最近相続いて喪(うしな)った御両親に、こんど行く新疆ウイグル自治区のことを度々話していたので、お二人を同行させるような気持で、小さい遺品を二つ携行して来たという。どこかで月を観たい、そんな話が出る。トルファン観月か、ホータン観月か、まだみない《異域》の月光が、瞬間、思いをよぎる。
 今日は八月十五日、敗戦の日である。白土氏は東京に居り、佐藤さんは山形で小学校五年生だった由。私は私で毎日新聞社大阪本社の社会部の席で、「終戦の詔勅(しょうちょく)を拝して」という文章を書いたことを思い出す。それからいつか三十二年の歳月が経過している。それにしても西トルキスタンのサマルカンドに初めて自分の足で立ったのは六十歳の時、こんどの新疆入りは七十歳、若き日の夢を果す、なんと難きことか。
 言うまでもないことだが、招かれての中国の旅である。中国に招かれるのは七度目で、最初の中国訪問は二十年前である。その間、新疆地方のことを度々口にしていたので、そんなに関心を持つところならばと、中国側みんなの好意で、こんどの旅が実現したようなものである。自分ひとりのこと許(ばか)り言ったが、一行十一人、みな同じような立場で、同じような思いであるに違いない。一行は中島健蔵夫妻、宮川寅雄、東山魁夷(かいい)、司馬遼太郎、藤堂明保、團伊玖磨、日中文化交流協会の白土吾夫、佐藤純子、横川健の諸氏、それに私。新疆族の集りとでも言いたい顔触れである。
 空港の食堂で朝食、朝のひえびえとした空気が気持よい。北京から同行して下さる孫平化氏が、
「北京はもう秋ですが、これから行くところは夏も夏、夏の真盛りのようですね。トルファン(吐魯番)の四十五度というのは、見当つきませんな」
 そんなことをおっしゃる。多少、みんなその暑さが心配でないことはない。

 八時四十分、離陸。機はイリューシン62の大型ジェット。新疆ウイグル自治区の首府ウルムチ(烏魯木斉)まで二八〇〇キロ、飛行時間は三時間半。白い機体は、東京では見られぬ怖ろしいほど高い秋の空に翔(と)び立って行く。北京からウルムチ行の列車が出ているが、三日四晩、あるいは四日三晩かかるという。
 すぐ機は山岳地帯の上に出る。山岳が波立っている上に、真綿をちぎったような白い雲がばら撒かれている。
 スチュアデス嬢に飛行機が通過して行く地点と、時刻について、予め大体の予定を教えて貰う。――八時四十分、北京離陸。九時三十分、包頭(パオトウ)の上空。それから黄河に沿って飛び、やがて黄河を越え、寧夏(ねいか)回族自治区を通り、甘粛省の民勤(みんきん)を十時十八分、酒泉(しゅせん)を十時五十一分、新疆ウイグル自治区に入り、ハミ(哈密)を十一時二十九分、ウルムチ到着が十二時十分。
 予定通り、離陸後一時間ほどで包頭上空を翔んでいる。この辺りは全くの沙漠地帯で、その中に、黄河が赤褐色の長い帯として見えている。赤褐色と言うよりチョコレート色と言った方がいいかも知れない。それがいかにもどんよりと澱んで流れている感じである。所々に、さっと鮮やかな朱の色が掃かれたりしている。その掃かれ方は、茶碗で言えば光悦(こうえつ)である。やがて行手に陰山(いんざん)山脈が見えて来、機はそれに近寄って行く。黄河の流れのこちらは沙漠、向うは陰山山脈。
 陰山山脈は高所から見降ろしている限りでは、それほど大きいボリュウムでは感じられず、長い堤でも置かれているように見える。その長い堤の向うにも沙漠が見えている。機は陰山山脈を次第に背後にし、黄河とも離れ、やがて黄河は全く見えなくなる。下は依然として大沙漠の拡がりである。大乾河道が何本も置かれている。糸のような細さで道が走っているところもある。全く集落は見られず、まさに死の砂の海である。
 暫くすると、また黄河が見えて来る。機はその上を突切って行く。陰山山脈と賀蘭(がらん)山脈の間を抜けて、寧夏回族自治区の上空に出ようとしているのである。こんどの黄河もまた赤褐色。岸にひと握りほどの緑の地帯があって、そこに小さい集落のあるのが見える。一生赤い黄河の流れを見て暮す人たちが住んでいるのである。赤褐色の黄河、その岸の一点に置かれた小さい緑の地域、その中の小さい集落、そしてそれらすべてを大きく取り巻いている灰黄色の沙漠の拡がり、――いろいろなところに人間は住んでいるものだと思う。
 黄河を越えると、沙漠の風紋がくっきりと見え、その辺りには大小の塩湖が点々と置かれている。塩湖は白の絵具をブラシで掃いたように見える。やがて反対側の窓から賀蘭山脈の長い稜線が見えて来る。機は完全にテングリ沙漠の上に出て、賀蘭山脈を左にして、民勤を目指しているのである。賀蘭山脈も機上から見る限りでは、先刻の陰山山脈と同じように、大沙漠の拡がりの中に置かれた長い堤でしかない。
 十時十分頃、大沙漠の海の中に耕地地帯が割り込んで来る。耕地はそれぞれ多少色の異った小さい短冊でも竝(なら)べて置いたように見え、人間の営みが必死に沙漠を蚕食(さんしょく)している感じである。道が一本、真直ぐに走っているのも見える。耕地の緑の中に白い塩の地帯が置かれているところもある。また耕地の中に沙漠のかけらがそのまま置かれてあるようなところもある。明らかに民勤附近ではあるが、民勤の集落は眼に入って来ない。
 やがて左手の窓から雪を頂いた山脈が遠くに見えて来る。祁連(きれん)山脈である。機は相変らず大沙漠の上を翔んでいる。沙漠はテングリ沙漠に続いて拡がっているバタンジリン沙漠であろう。砂の海の中に、時々盆石のように岩山地帯が置かれている。やがて大沙漠は何となく騒がしくなって来る。大砂丘が現れたり、丘が大きく波立ったり、大断層が横たわっていたりする。塩湖も多くなる。白い波の花を散らせたようにも、無造作に白の絵具をなすりつけたようにも見える。
 久しぶりに沙漠の中に大河が見えて来る。河の両岸だけ緑で、そこが耕地になっている。その緑の帯の中に小集落が見え、やがてやや大きい集落も見える。青い湖もある。機はおそらく東西四〇〇キロの長さを持つ祁連山脈の北側、河西(かせい)回廊地帯の上空を翔んでいるのであろう。河西回廊というのは、往古から中国本土と西域を結んでいる重要な歴史的交通路が走っているところで、まさに回廊というにふさわしい半オアシス、半沙漠の長い帯である。
 雲の影が沙漠に捺(お)されている。無数の雲の影である。陽光の加減か、緑に見える。恰(あたか)も小さい緑地が無数にばら撒かれてあるようだ。
 十時五十分、予定通り機は酒泉上空を通過する。段落のある地帯に大きな集落が営まれている。この辺りから沙漠は波立ち、騒がしくなってくる感じで、波立っているところは岩山の重なりである。岩山という岩山の斜面は一面に砂に覆われ、その上にたくさんの流線模様の置かれているのを見る。あるところは、たくさんの木の枝が捺されているように見え、あるところはたくさんの熊手で掃いた跡のように見える。またまるでスキーの跡のように、何本かのなだらかな曲線がどこまでも平行して続いているところもある。風のいたずらであろうが、なかなかしゃれた自然の遊びという他はない。また抽象絵画の曲線のようにも、抽象の文字のようにも見える。
 そうした岩山と岩山との間に沙漠のかけらが置かれてあるが、その沙漠のかけらは冷凍でもされたような固さを持っていて、大きく罅(ひび)割れている。岩山、岩山の斜面の風紋、罅割れた沙漠のかけら、そうしたものででき上がっている地帯が続いている。私の知る限りでは、奇巌で埋められているトルコのカッパドキヤ高原と竝ぶ不思議な地殻の一画ではある。こういうところには人間が居よう筈はないが、もし紛れ込んで入ったら、さぞ荒涼たる思いに立ち竦(すく)むことだろうと思う。人間の臭いというより、生きものの臭いが全くない。
 やがて遠く前方に、雪を頂いた山脈が見えて来る。天山(てんざん)である。正確な言い方をすれば天山山脈を造り上げている支脈の一つである。

……冒頭より

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