「少年船長の冒険」

ジュール・ヴェルヌ/土居寛之・荒川浩充訳

ドットブック版 180KB/テキストファイル 187KB

500円

ディックの乗り組んだ捕鯨船は、ニュージーランドのオークランドを出て数日後、事故にみまわれた。キャッチャーボートが船長と乗組員ともども遭難して行方知れずになったため、見習水夫のディックはアメリカまでの長い航海を捕鯨船の「船長」として働かなければならなくなった。航海は順調のようだったが、船は思いもかけなかった「危険な大陸」に到着してしまった! ヴェルヌの「海洋もの」の力作。

ジュール・ヴェルヌ(1818-1905)フランス西部、ロワール河畔のナントの生まれ。幼ないときから科学への好奇心と冒険心を持ち、11歳のとき従妹にサンゴの首飾りをプレゼントしようと、見習い水夫として船に乗りこもうとして、家に連れ戻されたという。1863年に発表した『気球旅行の五週間』で一躍、世界の人気作家となり、「驚異の旅」シリーズを次々と完成した。おもな作品『地底旅行』『八十日間世界一周』『二年間の休暇』など。

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第一部

一 スクーナー船ピルグリム号

 一八七三年二月二日、スクーナー船ピルグリム号は、西経百六十五度十九分、南緯四十三度五十七分の地点にいた。南方海域での遠洋漁業に出るためにサンフランシスコで装備をほどこした四百トンのこの船は、カリフォルニアの金持の船主ジェームズ・W・ウェルドンの持船だった。彼は数年前から、ハル船長にこの船の指揮を委(ゆだ)ねていた。
 ピルグリム号は、ウェルドンが毎年の季節がやってくるとベーリング海峡をこえて北氷洋まで、またタスマニア海域ないしはホーン岬(みさき)をこえて南氷洋にまで派遣する船隊の船のうちでは最も小さいものの一つだったが、最優秀船の一つだった。船脚がすばらしく速かった。その装備はすべて、きわめて扱いやすいので、南半球の、絶対にその中にはいりこめない大浮氷群を眼前にしても、ごくわずかの人員で危険に直面することができた。ハル船長は大浮氷群に取りかこまれても、水夫たちのことばを使えば《どうにかこうにか難を切り抜ける》術(すべ)を心得ていた。これらの浮氷群は、地球の北方の海上と比べてずっと低い緯度のところまで、ニュージーランドあるいは喜望峰と直角をなして流れて来るのである。むろんこれは、すでに物にぶつかって擦り減り、暖かい海水のために浸蝕(しんしょく)されてしまった小さな氷山だけが問題になるのであって、大部分が太平洋か大西洋に出ると解けてなくなるものなのである。
 有能な船長で、捕鯨船隊の最も腕ききの銛打(もりう)ちの一人であるハル船長の指揮下には、五人の水夫と一人の見習水夫からなる乗員がいた。かなりたくさんの乗員が必要な捕鯨漁業にとって、この数は少なすぎた。キャッチャーボートの操縦のためにも、捕獲したクジラの解体のためにも、多くの人員が必要なのである。しかし何人かの船主たちの例にならって、ウェルドンは、サンフランシスコでは捕鯨船の操縦に必要な水夫だけしか乗り組ませないほうが、ずっと経済的だということを知っていた。ニュージーランドに行けば、脱走兵その他の、あらゆる国籍をもった銛打ちにはこと欠かなかった。彼らは、捕鯨の季節が来ると働き口を探し、鮮やかな手さばきで捕鯨作業に従事することができるのだった。彼らを必要とする時期が過ぎると、船主は賃銀を払い、彼らを船からおろした。そして彼らは来年の捕鯨船がまた雇いに来るのを待つのだった。こうしたやり方で、自由に動員できる乗員をよりいっそう有利な方法で雇うことができ、また彼らを船員組合から外しておくことでいっそう大きな利益をうることができるのだった。ピルグリム号の乗員の状況は、ざっとこんなところである。
 このスクーナー船は、南極圏とすれすれのところでこのシーズンの活動を終わったところだった。しかし鯨油も鯨肉も満載というところまでにはいってなかった。この時代でも、もうすでに捕鯨はむずかしくなっていたのだ。あまりにも捕獲しすぎたために、クジラの数は少なくなっていた。北極洋と南海にいるセミクジラは絶滅に瀕(ひん)し、捕鯨業者たちは巨大なナガスクジラを再び捕らなければならなくなっていたが、これを捕獲するには少なからぬ危険があった。今度の捕鯨でのハル船長の戦果は、大体そういったところだったのだが、この次の捕鯨では、もっと緯度の高い海域にまで行くつもりだった。
 結局、このシーズンは、ピルグリム号にとっては恵まれたものではなかった。一月の初め、すなわちオーストラリアでは夏の真盛りで、捕鯨業者にとってはまだ帰還の時期が来ていなかったにもかかわらず、ハル船長は漁場を放棄しなければならなかった。増援のために加わった船員たち――これはかなり無能な連中ばかりだった――が、船長にいわば《いちゃもんをつけて》来たので、漁場を離れることを考えなければならなかった。
 そこでピルグリム号は、ニュージーランドに向かって、北西の方向に船首を向けた。そして、一月十五日にニュージーランドの陸地を認め、ニュージーランドの北島のハウラキ湾の奥にあるオークランド港に着いた。そして船長は捕鯨シーズンのために雇った水夫たちを下船させた。
 乗員たちは不満たらたらだった。少なくともピルグリム号に積荷としては二百樽(たる)の鯨油が不足していたからだった。こんな不漁は今までに一度も経験したことがなかった。だからハル船長は、生まれて初めて手ぶらか、あるいはそれに近い不漁で戻って来た一人のベテランの銛打ちとしての大きな失望を抱いてここまで戻って来たのである。船長は自尊心を強く傷つけられ、反抗して遠征の成果をすっかり台なしにしてしまったやくざな連中に船長はがまんがならなかった。
 オークランドで新しい捕鯨船の乗員を募集してみたらどうかと勧める者もあったが、それはできない相談だった。動員できる限りの船乗りはすべて、別の捕鯨船に乗りこんでいたからだ。したがってピルグリム号の戦果を満たそうとする希望はあきらめるほかはなかった。結局ハル船長が、すごすごとオークランドの港を離れようとしていた、ちょうどそのとき、この船に乗せてもらいたいという申し出があり、しかも船長はそれを拒むわけにはいかなかったのである。
 ピルグリム号の船主のウェルドン氏の夫人と、彼女の五歳になる息子のジャックと、みんなからベネディクトおじさんと呼ばれている一人の親戚(しんせき)の男が、そのときオークランドにいたのである。商用でときどきニュージーランドを訪れなければならないことがあるウェルドン氏が三人を連れて来たのだが、サンフランシスコへ帰るつもりで全員が出発しようとする間際になって、ジャックが重い病気にかかったため、商用で一刻も早く帰らなければならないウェルドン氏だけが、妻と息子とベネディクトおじさんを残してオークランドを離れたのだった。
 三月経(た)っていた。長い別離の三か月だった。それはウェルドン夫人にとっては、とくに苦しいものだった。そして、子どもの病気が回復し、出発できるようになっていたときに、ピルグリム号の到着が知らされたのである。

……
巻頭より


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