シリーズ「鎮魂の戦史」

「戦艦武蔵」

佐藤太郎著

ドットブック版 243KB/テキスト版 152KB

600円

シリーズ「鎮魂の戦史」第 6弾! 著者は戦艦武蔵に一兵曹として乗り組み、奇蹟的に生還した。「秘密のうちに生まれ、秘密のうちにシブヤン海に沈んだこの巨大戦艦は、500機の敵機来襲に、魚雷26発、直撃弾15発、至近弾20発以上を受け(これらは大和をはるかに凌駕する)、満身創痍となりながら、なお沈むまで数時間を生き延びた。その死闘を、そしてそれを戦った《兵の心》を知ってもらいたかった」…この著者の言葉がすべてを語る迫真の戦史!

佐藤太郎(1915〜?)静岡県伊豆の生まれ。1935年以降、駆逐艦「嶺雲」「秋風」「大潮」、巡洋艦「那珂」などに乗り組み、太平洋戦争突入以後は、駆逐艦「朝雲」を経て戦艦「武蔵」の乗員として従軍。その間、砲術学校高等科の対空教程を卒業した。戦後は東京・大田区の渡辺精鋼所に勤務した。
立ち読みフロア
 昭和一七年三月――そのころスラバヤ沖の海戦で大戦果をたてた駆逐艦・朝雲(あさぐも)の乗組員として私は勤務していたが、本艦が被弾故障のために母港に帰投すると、ただちに長崎へ転勤を命ぜられたのであった。当時一等兵曹であった私は、八名の部下とともに国際都市としてその風光を世界に謳(うた)われた長崎市の駅頭に降り立った。
 駅前で、通りかかった商人風の年ぱいの男に、軽くことばをかけて道をたずねると、いきなり「ウチ知らんばい」
 とはじきかえすようにいいすてて、うさんくさそうにじろりと白眼を向けた。この冷淡な態度に、思わず私はむっとした。もちろんこれが軍隊なら、いきなりビンタがすごい勢いでとぶところである。
「道を教えるだけの親切気もないのか」。あまりの仕打ちに二の句もつげず、私はあっけにとられてその顔をまじまじと見守るばかりであった。
 当時は、大東亜戦争が始まってまだ三カ月にしかならず、ハワイやマレー沖の大戦果にまだ日本中が酔っているころであり、しかもぞくぞくと大戦果が予期されていた軍人の黄金時代である。ことに敵艦轟沈(ごうちん)の戦果に感謝状を授与されたばかりの、身も心も浮き立つばかりにはれがましいときであっただけに、われわれのふんがいは無理もないところである。案のじょう、私がぼんやり毒気を抜かれていると、そばにいた血気の大野兵長が、いきなりかみつくようにどなってしまった。
「おい、知らないとはなんだ。いくら九州人がケチだからといって、ただでは道も教えられないのかッ」
 ぐっとその鼻先につめよって、いまにもビンタをとばしかねないけんまくである。その商人は、さすがにびっくりして大野兵長をみつめたが、その目は、口先の冷酷さにも似ず、どこか痛々しさを感じさせ、そして明らかに極度の狼狽(ろうばい)におどおどしているようすである。そして、
「すみません。ちょっと……」
 と大野兵長の片腕をとると、あたりをはばかるようにこそこそと駅の横手の便所へ連れこんだ。今度は大野兵長があっけにとられて、導くままに便所へふらふらと拉致(らち)された。わたしはさっぱりわけがわからなくなった。まるで外国にでもきたように、とんちんかんである。しかしまちがいでも起こるといけないと思い、とにかく二人の後について行ってみた。人目がないのをたしかめると、その商人は静かに、そしてていねいに頭をさげた。そして、この街はいま秘密、秘密でうっかりものもいえない。あなた方と話しているところを憲兵にでも見つかると、どんな濡衣(ぬれぎぬ)をきせられるかわからない。新任のあなた方にはわからないでしょうが、そんなわけでたいへん失礼をしましたというのである。
 わたしたちは、すっかりだまりこんでしまった。おたがいに顔を見合せるのも憂うつであった。なにか、じーんと胸の底に沈んでくる重いものが、息ぐるしいまでに感じられるのであった――。
 朝な夕なに祈りを捧げる聖なる鐘の音が、詩情ゆたかに余韻をひびかせていた長崎の街々に、いまでは勇ましい軍鑑マーチが流れわたり、単調な軍隊のラッパが神経質にひびきわたった。石畳には鈍重な軍靴がひびき、剣の音が静かな坂の街に満ちていった。そして海上に面した民家の窓という窓はことごとくくぎづけにされ、静かな海面に映る夕陽をながめることさえできなくなってしまった。目かくしをされた暗い街――一にも機密、二にも機密、そしてそれは血なまぐさいまでにものものしい警戒であった。軍港にも見られない厳戒ぶりである。
 山の頂きはもとより、中腹の住宅街から下町と街中いたるところに建てられている見張小屋、その外に街の角、海岸へ通ずる道路には厳しい服装をした海軍兵が、鷹のようにきびしく目を光らせて道行く人々をみつめている。
 海上には、赤いベレー帽、恐いベレー帽といわれた海上見張が点々として浮いている。これは赤い浮標を湾内五〇〇メートルくらいの間隔に浮かせたもので、その上に警戒員が立って終日見張っている。そして出る船、入る船をうさん臭くにらみつけているその姿は、まるで子供の絵のようにむしろこっけいであった。赤いベレー帽などという名称は、兵隊たちが揶揄(やゆ)した愛称であるが、機密も警戒もここまでくればむしろ愛嬌というべきであろう。しかし、このベレーは、ただ漫然と船をにらみつけているのではない。入港するときは左舷の舷窓が、出るときは右舷の舷窓が一つでも指令にそむいて開いてはいないか、また船の上から対岸をながめているものはないか、と目を皿のようにして見張っているのである。
 詩趣にあふれた宗教の街、長崎が、まるで地球の果てにおきざりにされた寒村のように、文字通り見ざる、いわざる、聞かざるの盲人国となりはてたのであった。長崎市は、そのままそっくり牢獄となり、市民は文字通り、囹圄(れいご)の人となってしまった。いったいなぜ、こんなばかげた警戒をしているのであろうか。
 それは対岸の飽(あく)ノ浦三菱造船所において、世界最大の超弩級戦艦「第二号艦」が誕生しつつあったからである。
 飽ノ浦には魔物が御座(ござ)る
 街の人々はふしをつけてこう歌った。魔物、怪物――そういうよりほかに仕方がない。その正体は完全に秘匿されていた。この魔物の正体を守るための狂気じみた警戒であったわけである。少しでも海岸を見たり、対岸をながめたりするとたちどころにビンタを食った。これでは道を聞いても教えてくれないのも道理である。なにかを教える身ぶりそぶりでも見つかれば、すぐ憲兵の目は光り、海軍巡邏(じゅんら)兵にとがめられるのであった。
「魔物」――しかし、市民のこのことばには、憎悪が含まれていた。恨みが秘められていた。はじめのうちは、この長崎で大きな艦ができるのは、長崎の誇りだといって喜び、ことに商人は兵隊景気のくるのをひそかに期待していた。しかしそれは哀れにも期待はずれのぬかよろこびに終ってしまった。ことにこの巨大な艦が進水したときは、静かな湾内の海上を津波のようにわきたたせ、海岸に立ちならんだ民家の座敷まで洗ったことを思い出し、「長崎を食う怪物、早々に出ていけ」「そうしたらこの街も明るくなる」とはじめの親しみからしだいに憎悪へと変わっていったが、このように市民から憎まれた軍艦、呪われた軍艦とは、いったいどんな艦であったか。

……冒頭「武蔵の誕生」より


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