「ある羊飼いの一生」

W・H・ハドスン/水嶋正路訳

ドットブック版 242KB/テキストファイル 225KB

600円

1910年に書かれたこの作品は、英国中南部のウィルトシァを舞台に、老羊飼いケイレブ・ボーカムが当時の田舎の人々の暮らしを自然を淡々と語る物語。「老羊飼いの故郷愛──羊飼い生活五十年──ボーカムの風変わりな様子──タヒバリの話──ケイレブ・ボーカムの父親──父と子──感謝する狩猟家とアイザック・ボーカムの年金──老夫婦の一方が亡くなると連れもすぐ亡くなること──村の墓地で──農業労働者の墓石とその物語」……この第一章の見出しだけでも、十分にこの作品に描かれる自然と人々の日々の暮らしの機微が伝わってくると思われる。

ウィリアム・ヘンリー・ハドスン(1841〜1922)アメリカ移民の子としてアルゼンチンのブエノスアイレス近くに生まれ、大草原パンパとガウチョと小鳥を友に育つ。33歳のとき英国に渡り、のちに帰化した。小説家としては本書のほか、南米の密林に咲いた美しいロマン「緑の館」が代表作。彼は博物学者でもあって、とくに鳥に関する多くの著書を著した。この方面の著書では「ラプラタの博物学者」がよく知られている。

立ち読みフロア

 ウィルトシァ州は英国地図で見ると大きく見える。緑の大きな州に見えるが、いなかを歩きまわる人たちには、全然、人気のない州らしい。ともかく、この土地の出身者とか、住人とか、あるいは前にここのモールバラ市にいったことがあって、若い頃の縁でここが好きになった人は別として、そうでもないのにウィルトシァ州が好きな人など、一人も私は思いつかない。この点、私自身も例外ではなく、私の体のなかには一種の適応性というか、草の生えているところなら、どこにでも落ち着けるような感覚があって、私もある意味では、ここの土地者である。また、五、六人の友人が集まって、今までに行った場所、あるいは、これから行こうとする場所について話し合っているのを聞いてみるがいい。いろんな州、町、教会、城、風景──とにかく、自分を引きつけ、満足させてくれるいろんなものについて、感想を話し合っているのを聞いてみるがいい。ウィルトシァ州など、まず話にも出てこないのが普通である。みんな「ある程度」のことは知っている。ソールズベリ大聖堂やストンヘンジ巨石群は見ている。こういうものは一生に一度は見ておかねばならない。しかし、それ以外となると、温泉地バスとか山国のウェイルズ、あるいは大多数の英国人が最も愛するサマセット、デボン、コーンウォルなどの西部地方に汽車でゆく途中に、車窓からウィルトシァの田舎景色を見たことがある、という程度にすぎない。これは無理もない話で、ウィルトシァには人目を引くものは何もないのである。とにかく、自然を何よりも愛するという人には何もない。山もなく海もなく、これから先を急ぐ西や北の土地に比較できるものは何もない。草丘地帯がある、と言う人がいるかもしれないが、なるほど、それはある。薄みどりの大波、また大波が凝固したような形になって汽車の窓いっぱいに流れるようにひろがっている草丘地帯がある。歩くだけでも充分な楽しみだという人には、この草丘地は天気のよいとき、歩いてゆくにはすばらしいところである。しかし、それだけでは不満だという人は、こんなところは問題にもしないだろう。草丘地が見たいのなら、ロンドンから一時間としないところに、もっと高く美しいサセックス山系がある。それにこのウィルトシァの草丘地帯の何もない、むき出しの景色に嫌悪をもよおす人もいる。そういう人はギルピン説教牧師同様、装飾のない土地はお気に召さないのである。「白亜は何もかも台なしにする」とギルピンは言う。私や、白亜を愛する人間に言わせれば、ギルピンの趣味は間違った、バカげたものではあるが、しかし、この言葉は、たしかにこの土地の空漠、静寂に慣れない人たちの共通の感情を表わしている。
 この草丘地を歩くという段になると、晴れた日は、ここではあまり多くはなかったという記憶がある。晴れた日が当てにされる季節でもそう多くはない。──たしかに、この一九〇九年という雨の多い、気分の悪い一年は、上天気の日などほとんどなかった。じつは、この白亜の草丘地帯で初めて私は英国の気候に反感をおぼえたのだが、こんな気持になったのは、この土地が初めてだった。なにしろ、屋外を愛する人間は、あらゆる天気を上天気と心得ていて、どんな天気でも、それぞれに独特の魅力を感じるのが普通である。秋分の強風の吹く十月の荒れた日に外に出て、身をねじ曲げている木々の間に咆える風の声を聞いたり、枯れ葉が疫病にかかった群衆のように黄や黒や赤に飛びちり、吹きつける突風に吹き送られて、一群、また一群と飛び去ってゆくのを眺めたり、あるいは嵐のように叩きつけてくる雨、それこそ雹のように叩きつけてくる雨を耳に聞き、目に見、体で感じるのは、なんという喜びだろうか。それからまた、静かな灰色の十一月の天候は、冬を控えた緊張と憂鬱のときだが、自然が不安を感じて息をひそめているような不思議な静寂感があって、これがまた、なんともいえぬ楽しみである。こういうふうに、一年じゅう、いつでも、どこの土地でも、どんな天候の時でも、屋外にはたのしみがある。ところが、このウィルトシァの白亜の草丘地は例外で、その荒涼たる丸裸の土地には、なんのたのしみもない。ここでは、風や、叩きつけてくる雨に人間に対する悪意が感じられて、こちらは惨めさに負けそうになる。ここでは、さびしさ、単調さ、孤独感を感じさせられる日が多く、雨が降っていない時でも、そんな気分になることがある。こういうわびしい時に、一人の鳥追いの少年に出会った面白い経験がある。
 三月の寒さのきびしい日で、もう何日も寒風が吹いて、空は鋼のような、固い灰色だった。エブル川の流れに沿って私は自転車を走らせていたのだが、とうとうそれを降りて、急な長い坂を押して上がり、今度は高原のほこりっぽい道を走りだした。激しい向かい風が吹いていた。土地は全て耕されて、ひろびろと広がっている。灰色の巨大な畑が一つ一つ針金で仕切られて、果てしなく広がるという有様で、これ以上わびしい景色は想像するのもむつかしいと思った。その景色のなかに生きものが一つだけ見えた。人間だ。一人の人間が、ずっと左の方の大きな畑の真中に鉄砲らしいものを持って立っている。少年だな、と思ったとたん、むこうでも気がついたらしく、クルリと向きを変えて道の方へ全速力で走りだした。なにか話でもあるのだろうか。走る距離は四分の一マイルほどある。こちらに間に合うだろうかと思ったが、むこうは足が早かったし、こちらは向かい風を受けていたので、ちょうど少年が道に着いた時に、こちらもそこに着いた。道の柵の横にハアハアと息をはずませながら、ととのった顔を赤くほてらせて立っている。十二、三歳の子で、大柄なりっぱな体格をして、鳥追いの少年にしては、なかなかいい服を着ていた。たしかに鳥追い少年で、一挺の変わった、重そうな銃を持っていた。私は自転車を降りて、相手が話しだすのを待ったが、むこうは黙ったまま、満足そうな顔でニコニコしているだけだ。
「うん?」
 とさそいをかけても、なにも答えずニコニコしている。
「なにか用があったのかね」
 と、しびれを切らして聞くと、
「なにもないよ」
「しかし、こっちを見たとたんに一生懸命に走ってきたじゃないか」
「そうだよ」
「それなら、なんのために、そんなことをしたんだね。なんのために走ってきたの?」
「おじさんが通るのを見ようと思ったんだ」
 ちょっと妙な話で、初め私はまごついたけれども、少し話をしてから別れた時には、かなり私は愉快な気分になっていた。重い銃を持って、畑のなかの長い距離を走ってきて、こちらの通るのを見物してくれるというのは、ちょっと珍しい、うれしい経験である。

……「一章 ソールズベリ平原」より

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