「死刑は一回でたくさん」

ダシール・ハメット/田中融二訳

ドットブック版 188KB/テキストファイル 152KB

500円

ハードボイルド探偵小説の創始者ハメットの傑作短編集。コンチネンタル探偵社の名なしの探偵「私」(コンチネンタル・オプ)、私立探偵サム・スペードなどが活躍する諸編は、アクションとサスペンス、謎解きが一体となった胸のすくエンターテイメント世界である。背景をなすのは大都市サンフランシスコとその近辺、リヴォルヴァーと車と荒々しい人間と山野だ。

ダシール・ハメット(1894〜1961) 13歳で学校を離れ多くの下積みの職を転々としたあと、サンフランシスコのピンカートン探偵社にはいる。その経験をいかしてパルプ・マガジンに次々と短編を発表、「赤い収穫」「デイン家の呪い」でデビューし、「マルタの鷹」で最高のハードボイルド探偵小説作家としての地位を不動のものにした。

立ち読みフロア
 監房の高いところにひとつだけある、鉄棒のはまった三十センチ四方の窓からさしこむ光がしだいに薄れて、これまでそこに入れられた連中が反対側の壁に、ひっかいたり鉛筆で書きつけたりした記号や頭文字の落書がはっきり見えなくなってきたころ、ダン・オダムスを殺した男は簡易寝台から起きあがり、鉄格子の扉に近づいた。
「おおい、チーフ!」彼はせまい監房の壁を揺るがす大声で呼んだ。
 建物のおもてのほうで床に椅子がきしる音がして、用心深い足音が近づき、ジンゴの町の保安官が執務室と監房をつなぐ通路にでてきた。
「ちょっと話したいことがあるんだ」監房の中の男はいった。「ちょっとだけ――」
 監房に近づいて行った保安官は、薄暗い明かりの中に、銃身の短い、重みのある拳銃の光った銃口が、囚人の右の腰のすぐ上から自分を狙っているのを見た。
 昔からお定まりの命令をされるよりさきに、保安官は両手を耳のところまで上げた。
 鉄格子の向こうの男は簡潔に、ささやくような小声でしゃべった。「むこうを向け! 背中を扉につけろ!」
 保安官が背中を鉄格子につけると、囚人はその左のわきの下から手をまわして、ボタンをかけてないチョッキを引きはだけ、拳銃ケースから拳銃を抜きとった。
「さあ、この扉をあけろ!」
 囚人は自分の拳銃をどこかへしまって、そのかわりに奪った拳銃を手に握っていた。保安官は監房のほうに向き直って片方の手をおろし、その手の中で鍵束のジャラつく音がして、扉があけられた。
 囚人は手にした拳銃でおいでおいで《ヽヽヽヽヽヽ》のジェスチャーをしながら監房の奥のほうへさがった。
「寝台に寝ろ、うつぶせに」
 無言で保安官はそれにしたがった。ダン・オダムスを殺した男はその上にかがみこんだ。銃身の長い黒い拳銃がひらめくように弧をえがいて、うつぶせの保安官の首根っ子を一撃した。
 保安官は両脚を一度痙攣させただけで、そのまま動かなくなった。
 囚人の指はあわてることなく器用に相手のポケットをさぐり、金とタバコと、手巻き用の紙をさらいとった。つぎに保安官の肩から拳銃の吊りケースをはずし、自分の肩につけた。それから監房から出て、扉に鍵をかけた。
 保安官の部屋にはだれもいなかった。ダン・オダムスを殺した男は机の引出しから二袋のタバコと、マッチと、自動拳銃と、二つかみほどの弾丸を失敬した。壁からは、耳まですっぽりかぶさってしまう帽子と、すこし窮屈《きゅうくつ》で長過ぎる黒いゴムびきの雨合羽をいただいた。
 それらを身につけて、彼は街路を見わたした。
 三日間降り続いた豪雨が、たまたま、ちょっと止んだところだったが、ジンゴの町の街道には人気がなかった。ジンゴの町の家々では、だいたいその時間――五時から六時ごろまで――が夕食の時間にあたっていたのだ。
 まつげが短いために動物的な感じが強調されている、深くくぼんだ栗色の目で、彼は木の歩道のついた通りの四ブロックほどの距離を透かし見た。十二、三台の自動車が目にはいったが、馬は見あたらなかった。
 最初の角で彼は表通りを外れ、ほんのちょっと行ったところで、表通りに平行しているぬかるんだ路地に曲りこんだ。表通りの玉突き場の裏手にあたる小屋のかげに、四頭の馬がつながれ、鞍や手綱がそばに掛けてあるのを彼は見つけた。その中から、ずんぐりした、筋肉のたくましい葦毛《あしげ》の一頭を選んで――モンタナの泥地でのレースでは、速いということは最主要条件ではないのだ――鞍を置き、路地のはずれまで引いて行った。
 それから彼は鞍にまたがり、灯りのつき始めたジンゴの町をあとにした。
 彼は雨合羽の下をさぐり、さっき保安官にホールド・アップを食わせた拳銃を尻のポケットからとり出した。 ――石鹸で形をつくり、それにタバコの銀紙を貼りつけたにせものの拳銃。彼は銀紙を剥ぎとり、石鹸を形がわからない塊まりに握りつぶして投げ捨てた。
 しばらくすると空が晴れて星があらわれ、彼は自分のたどっている道が南に向かっていることを知った。彼は足場のやわらかい、ねばつく道を、夜っぴて、容赦なく葦毛の歩を進ませた。
 夜が明けると、馬はもう休ませずには進ませられなくなった。男は峡谷をさかのぼって、道路から完全に外れたところへ馬を引いて行き、雨とロッキーおろしの暖風が雪を溶かした地面から新しい草が萌《も》え出している、ハコヤナギの木立のかげに、その両脚に手綱をからめて放置した。
 それから彼は近くの岡にのぼり、濡れた地面に寝そべって、まつげのない、赤く充血した目で、越えてきた土地を見透かした。濡れた地面とよごれた雪と若草が、起伏する岡の連《つら》なりを黒と灰色と緑の三色に塗り分け、その三つの色の境界をあちこちで侵犯しながら、セピア色のリボンのような郡道が、見え隠れに曲りくねっていた。
 そこに寝そべっている間、人影は見えなかったが、近くに人のいるしるしはそこらじゅうに目につき、すこしも安心はできなかった。道路に沿って肩ぐらいの高さの鉄条網の柵《さく》が張られ、小道が近くの岡をよぎり、灰色の空をバックに電信柱がぎごちなく短い腕を張り出していた。

……「ダン・オダムスを殺した男」冒頭より

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