「神州纐纈城」

国枝史郎作

ドットブック版 342KB/テキストファイル 212KB

700円

武田信玄のお気に入りの家臣土屋庄三郎は、ふらりと思い立った夜桜見物で、老人から声をかけられ、見事な深紅の布を売りつけられた。これは、古く中国で人血で染められたという纐纈布だった! だがこの紅巾には、今は行方知れずの庄三郎の父の名が浮いて見え、ひらひらと飛ぶ紅巾に操られて、庄三郎はいつしか富士山麓をさまよっていた。そこには、仮面の城主が君臨する纐纈城があり、神秘的な宗教団、不思議な女能面作り師が隠れ棲み、毎日人を斬らずにはすまない陶器師がうろつき、まさに魑魅魍魎の跋扈する魔界だった。……怪異と妖美の世界をめくるめく筆致で描いた、不滅の伝奇文学。

国枝史郎(1887〜1943) 長野県諏訪郡宮川村茅野(現在の茅野市)生まれ。早大英文科中退。劇作家を志すがうまくいかず、大阪に移って朝日新聞の演劇記者、松竹座の座付き作者などをへるが、病を得て郷里へ帰り、雑誌に小説を書くようになる。最初の伝奇長編「蔦葛木曽棧」が評判となり、またたくまに売れっ子作家となった。「蔦葛木曽棧」「八ケ嶽の魔神」「神州纐纈城」が三大傑作とされる。

立ち読みフロア

第一回

 一
 
 土屋庄三郎は邸(やしき)を出てブラブラ条坊(まち)を彷徨(さまよ)った。
 高坂(こうさか)邸、馬場邸、真田(さなだ)邸の前を通り、鍛冶小路(かじこうじ)の方へ歩いて行く。時は朧(おぼ)ろの春の夜で、もう時刻が遅かったので邸(やしき)々は寂しかったが、「春の夜の艶(なまめ)かしさ、そこはかとなく匂ひこぼれ、人気(ひとけ)なけれど賑やかに思はれ」で、陰気のところなどは少しもない。
「花を見るにはどっちがよかろう、伝奏(でんそう)屋敷か山県(やまがた)邸か」
 鍛冶小路の辻まで来ると庄三郎は足を止めたが、「いっそ神明(しんめい)の宮社(やしろ)がよかろう」
 こう呟くと南へ折れ、曽根の邸の裾を廻わった。
 しかし、実際はどこへ行こうとも、またどこへ行かずとも、花はいくらでも見られるのであった。月に向かって夢見るような大輪の白い木蘭(もくらん)の花は小山田邸の塀越しに咲き、下を通る人へ匂いをおくり、夜眼(よめ)にも黄色い連翹(れんぎょう)の花や雪のように白い梨の花は諸角(もろずみ)邸の築地(ついじ)の周囲を靄(もや)のように暈(ぼか)している。桜の花に至っては、信玄公が好まれるだけに、躑躅(つつじ)ケ崎のお館(やかた)を巡り左右前後に延びているこの甲府のいたるところに爛漫(らんまん)と咲いているのであったが、わけてもお館の中庭と伝奏屋敷と山県邸と神明の社地とに多かった。
「花を踏んで等しく惜しむ少年の春。灯(ともしび)に反(そむ)いて共に憐れむ深夜の月。……ああ夜桜はよいものだ」
 小声で朗詠を吟じながら、境内まで来た庄三郎は、静かに社殿の前へ行き、合掌して叩頭(ぬかず)いたが、
「お館の隆盛、身の安泰、武道長久、文運長久」
 こう祈って顔を上げて見ると、社殿の縁先狐格子(きつねごうし)の前に一人の老人が腰かけていた。朧ろ朧ろの月の光も屋根に遮(さえぎ)られてそこまでは届かず、婆裟(ばさ)として暗いその辺(あた)りを淡紅色にほのめかせて、何やら老人は持っているらしい。
 おおかた参詣の人でもあろう。――こう思って気にも止めず、庄三郎は足を返した。
 と、うしろから呼ぶものがある。
「もし、お若いお侍様、どうぞちょっとお待ちくださいまし」
 ――それは嗄(しわが)れた声である。
 で、庄三郎は振り返った。
 山袴(やまばかま)を穿(は)き、袖(そで)無しを着、短い刀を腰に帯び、畳んだ烏帽子(えぼし)を額に載せ、輝くばかりに美しい深紅の布(きぬ)を肩に掛けた、身長(せい)の高い老人が庄三郎の眼の前に立っている。
「老人、何か用事かな?」
 庄三郎は訊いて見た。
「布(きぬ)をお買いくださいまし」
 おずおずとして老人は云う。
「おお、お前は布売りか。いかさま紅(あか)い布を持っておるの」
「よい布でございます。どうぞお買いくださいまし」
「よい布か悪い布か、そういうことは俺には解らぬ」庄三郎は微笑したが、「俺はこれでも男だからな」
「お案じなさるには及びませぬ。布は上等でございます」
 老人は執念(しつこ)く繰り返す。
「そうか、それではそういうことにしよう、よろしい布は上等だ。しかし、俺には用はないよ」
 云いすてて庄三郎は歩き出した。
 しかし布売りの老人は、そのまま断念しようとはせず、行手へ廻わってまた云うのであった。
「布をお買いくださいまし」
「見せろ!」
 と庄三郎は我折(がお)れたように、とうとうこう云って手を出した。
「なるほど。むうう。美(よ)い色だな」
 渡された布(きぬ)を月影に隙(す)かしつくづくと眺めた庄三郎は思わず感嘆したのであった。
「はい美い色でございます。そこがその布の値打ちのところで……」さもこそとばかりに老人は云った。
「若い女子(おなご)の喜びそうな色だ。なんと老人そうではないかな」
「はいさようでございます」
「ここら辺にはお邸も多い。若い女子も沢山いる。お邸方の奥向きへ参って若い姫達のお目にかけたら喜んで飛びついてまいろうぞ」
「今日も昨日(きのう)も一昨日(おとつい)も、もうかれこれ十日余りも、お邸方へ参上致し、さまざまご贔屓にあずかりましたが、この布ばかりは買っていただけず、一巻(ひとまき)だけ残りましてございます」
「どなたの嗜好(このみ)にも合わないと見えるな」
「皆様、恐(こわ)らしいと申されます」
「なに恐(こわ)らしい?」と不思議そうに、「はて何が恐いのか?」
「そのお色気でございます」
「色気と云っても、紅いだけではないか」
「人間の血で染めたような、燃え立つばかりの紅い色が、恐(こわ)らしいそうでございます」
「アッハッハッハッ、馬鹿な事を。さすがは女子、臆病なものだな」
 もう一度布を差し上げて、月の光に照らして見たが、庄三郎は思わず身顫(みぶる)いをした。

 二

 と、布(きぬ)売りの老人はあるかなしかに嘲笑(あざわら)ったが、
「お侍様、あなたまでが……」
「何!」
 と庄三郎は振り返る。
「顫(ふる)えておいでなされます」
「痴(たわ)けた事を!」
 と一喝したが「これ、この価(あたえ)なんぼうじゃ?」
「太鼓判(たいこばん)一枚でございます」
「それ持ってけ!」
 と抛(ほう)り出した。チリンと鳴る金の音。屈(かが)んで拾う布売りの姿があたかも大蜘蛛(ぐも)の這(は)ったように、地面に影を描き出したが、さっと吹いて来た夜嵐に桜の花がサラサラと散り、その影をさえ埋めようとする。

 こういうことのあったのは永禄(えいろく)元年のことであるが、この夜買った紅巾(こうきん)の祟(たた)りで、土屋庄三郎の身の上には幾多の波瀾(はらん)が重畳(ちょうじょう)した。

……冒頭より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***