「知られざる傑作」

(「ピエール・グラスー」併録)

バルザック/伊藤幸次訳

ドットブック 8.1MB/テキストファイル 62KB

600円

一つの作品に打ち込む老画家の十年にわたる執念が狂気にまでいたる経緯を描く「知られざる傑作」。この作品は、世代の異なる画家3人をパリに集めて出会わせ、具象と抽象という造形芸術の永遠の問題をうきぼりにしてもいる。重厚な描写とあわせてバルザック特有の「軽み」にも意をもちいた改訳版である。併録した「ピエール・グラスー」は「知られざる傑作」の幻想的な雰囲気とは異なり、リアルな物欲・名誉欲にかられる人物たちをコメディー・タッチで描く。 画家を主人公としたこの2作は、いわば能楽と狂言のような関係にある。後者の主人公は贋作作家であるが、当代注目されている公式肖像画家をモデルにしており、芸術と金銭・権力との関係に興味のある人には必読の書。両作ともに、豊富な参考画像と当代の事情を明らかにする詳しい解説を付した。

バルザック(1799〜1850)ユゴー、デュマとならぶ19世紀フランスを代表する作家。パリ大学に学ぶが中退して文学を志す。出版、印刷などを手がけて失敗したあと、負債返済のために頑張り「ふくろう党」で成功。以後、みずから「人間喜劇」と名づけた膨大な小説群を生み出した。代表作「ウジェニー・グランデ」「ゴリオ爺さん」「従妹ベット」「従兄ポンス」「風流滑稽譚」など。20年間、毎日50杯のコーヒーを飲みつづけて創作に打ち込んだ逸話は、派手な女性遍歴と浪費癖とともに有名。

立ち読みフロア
 一六一二年の暮れ近く、十二月らしく寒い午前中に、ひどくみすぼらしい身なりの青年が、パリのグラン・ゾギュスタン通りに面した、とある家の玄関の前を行ったり来たりしていた。どんなに落としやすい女だと思っていても、なかなか初めての愛人のもとへ顔出しができない、未経験な恋人のようにためらいながら、この通りを長いこと歩きまわったあげく、彼はようやくこの家の入口をくぐり、フランソワ・ポルビュス画伯〔一五七〇〜一六二二、アントワープ生まれのアンリ四世の宮廷画家〕はご在宅ですかとたずねた。一階のホールを掃いていた老女が、「いらっしゃいますよ」と答えると、青年はゆっくりと階段をのぼりはじめたが、初めて宮中に出る時、王様にどうあつかわれるかと心配している新米の宮廷人のように、一段ごとに立ちどまっていた。
 螺旋階段をのぼりつめると、彼はドアに飾られた、ルネサンス風に奇怪な形のノッカーを手にとったものかどうかためらって、踊り場にしばしたたずんでいた。そのドアの中のアトリエでは、ルーベンスが現われたおかげでマリー・ド・メディシスに見捨てられた、彼女の亡夫アンリ四世の宮廷画家が仕事をしているのであろう。そのとき青年は深い感動に心をときめかせていたのだが、それはのちになってすぐれた芸術家となる人たちならば、若さや芸術に対する愛にかられて、天才の近くにいあわせたり、傑作に接したりする折りに感ずるにちがいないものだった。人間のすべての感情の根元には、高貴な情熱によって生み出された、一番咲きの花のようなみずみずしさがあるものである。その情熱は、幸福が追憶の中にしかなくなり、栄光がにせ物でしかなくなる日まで、しだいにしぼみ続けてゆくものであるけれど。
 こういった、ともすれば失われやすい感動のなかでも、芸術家の宿命である栄光と不幸とがあやなす甘美な拷問に、責められはじめたばかりの芸術家のもつ若々しい情熱、すなわち大胆さと気の小ささ、漠然とした自負と確かな挫折への予感とにみちた情熱ほど、男女の愛に似たものはほかになかろう。
 お金もなく、才能があるかどうかもまだ解らない若い頃に、巨匠の前に出て感動にふるえおののいた経験のない者は、いつまでたっても心に琴線を欠き、画家は筆さばきに、小説家は作品の中の感情に、詩人ならば何らかの詩的な表現に、欠けるところがあるものであろう。もしどこかの、慢心でふくれあがった空威張りが、自分の将来をあまりに早く信じ過ぎたとすれば、彼らは馬鹿者どもの間でだけ才気ある人として通ることになろう。
 こう考えると、この見知らぬ若者には、本物のみどころがありそうであった。もし才能が、このうぶなはにかみによって、計測できるものとすればであるが。このはにかみを、栄光を約束された人たちは芸術の道を歩むあいだに失ってしまうが、それはちょうど、きれいなご婦人方がその媚態にみがきをかけるうちに、初めのいいあらわしがたい恥じらいを忘れてしまうのと同じである。勝利に慣れてしまうと自分に疑念を持たなくなるもので、初心者の持つ恥じらいは、おそらくそういった疑念の一つなのであろう。
 貧しさにうちひしがれ、また大先輩のところに押しかけようとする自分に驚きもしていたので、この新米画家は、もし偶然がもたらした特別な助けがなければ、アンリ四世のすばらしい肖像画を現代にのこしている画家の部屋へ、はいらずじまいだったかもしれない。そこへ一人の老人が階段を上ってきた。その一風変わった服装や、立派なレースの胸飾り、堂々とした押し出しのよさなどから見て、青年はこの人物がポルビュスのパトロンか友人であろうと推量した。彼は踊り場で道をゆずり、芸術家らしい善良さか、でなければ芸術愛好家特有の世話好きな様子がうかがえるものと期待して、この人物をしげしげと見つめた。けれどその顔つきに見てとれたのは、何かしら悪魔的なもの、とりわけ、芸術家が見たら制作欲をそそられるような、何かわからぬあるものであった。

……「知られざる傑作」
冒頭より

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