「傷痕の街」
 

生島治郎著

ドットブック版 197KB/テキストファイル 155KB

500円

入港中の船に食糧や船具を納入するシップチャンドラー久須見健三は、暴力団の横やりで運転資金につまり、魅惑的な女の紹介で、奇妙な条件つきの金を導入する。だが、部下の妻の誘拐事件が起こり、用意した大金の身代金は何者かに強奪される……横浜の埠頭をバックに、暴力団と張りめぐらされた策略。犯人を追って毅然と闘う男の魅力を描くハードボイルド小説。その第一人者だった生島治郎のデビュー作。

生島治郎(いくしまじろう、1933〜2003) 日本のハードボイルドの生みの親、第一人者。上海生まれ、引き上げ後、金沢に住む。早大英文科を出、知人の紹介で早川書房に入社。26歳のとき都筑道夫のあとをうけ『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集長。1963年、退社し、『傷痕の街』で作家としてデビューした。1967年には『追いつめる』で直木賞。以後、「傷跡」「黄土」「志田司郎」「兇悪」など多くのシリーズを手がけ人気作家となった。大沢在昌は生島治郎の作品を読んで作家をめざしたという。

立ち読みフロア
 運河は濁っていた。いつも、濁っているのだ。
 この河が、澄み切った水をたたえていたのはいつ頃のことか、この底にどんなものが沈んでいるのか、誰も知らない。ただ、人々はこの運河に船を浮かべ、荷物を運び、塵芥(じんかい)を投げこみ、時には水を汲みあげて顔を洗う。そして、ふと気づいたように、濁った水に顔をしかめるのだ。
 運河は秋の匂(にお)いと、それからかすかにオイルの匂いを放っていた。私は発動機船の前部にすわって、両岸の行き交う人をぼんやりみあげた。
 買物籠を下げた中年の女と、季節はずれの赤いアロハを着た外人が、仲むつまじく腕を組んで通る。黒皮のジャンパーを着た中国人の小学生が通る。カーキ色のくたびれた作業衣をまつわらせた老人の人夫か通る。黒い事務用の上っぱりを着たハイティーンの娘が通る――その娘の白いむきだしの脚が私の視線をとめた。娘はおどるような足どりで歩いてゆく。そのたびに、張り切ったふくらはぎがキラリと陽(ひ)に反射する。白い両脚の腿(もも)から爪先へ、筋肉の動きが、あわいかすかな翳(かげ)となって、かわるがわる走り去る。娘はなにも知らぬ気に河岸(かし)を歩き、やがて横丁へ姿を消した。
 私は眼を運河に落とす。濁った水は船の舳(へさき)にひきさかれ、きれぎれに、私の姿をうつしている。きれぎれになっても、その姿が一本脚であることは、ごまかしようがない。しかし、十年前だったら、この濁った水も、両脚そろった私の姿をうつしたにちがいないのだ。

 十年前――昭和二十七年の横浜は、やっとメイン・エヴェントに出場する資格のできたボクサーみたいに張り切っていた。朝鮮特需(とくじゅ)――それが彼に与えられたラウンドだった。桟橋はもとより、港内にも港外にも、朝鮮からひきあげてきた病院船や、朝鮮に向う軍事補給船がぎっしり碇泊していた。
 港湾業者が全力をあげ、徹夜の連続で作業を続けても、とてもさばききれるものではなかった。誰もが顔をくろずませ、眼を血走らせながら、それでも奇体(きたい)なエネルギーに充ち充ちていた。
 病院船で送られてくる戦屍体(せんしたい)の処理が、一晩でとてつもない金になるという噂(うわさ)が、街中で公然とささやかれ、その度に人々は自分の身体から屍体の臭いと紙幣の匂いがたちのぼってくるような錯覚に落ち入った。
 この特需景気のおこぼれにありついたのは、われわれシップ・チャンドラーも同様だった。シップ・チャンドラー、と云っても、いったいどんな商売か正確に知っている人は少ないだろう。これは、入港中の船に不足した食料や船具を納入してマージンをとる、いわば海のブローカーだ。不足した品を市中の店から本船にかわって集めてくる。納入される品物は、したがって市中で売っているものより割高になるわけだが、集める手間を考えると、われわれを利用しないわけにはいかなかった。
 もっとも、シップ・チャンドラーの中には、それだけの仕事では満足できない商売熱心な連中もいた。陸と船の間をしょっちゅう連絡しているから、その利点を活用して、規定以外の品物をこっそり運んでやることも、あながち不可能ではない。
 特にまだ定期船をにぎれず、不定期の貨物船相手にほそぼそと商売をしている群小のチャンドラーは、その利点に目をつけた麻薬密輸業者にとって、組織の網をひろげる絶好の餌食になった。
 そのたくみな勧誘員として業界に知られているのは吉田隆介という男だった。吉田自身、ニュー・エンパイア・トレイディング・カンパニーという、戦後すぐに創立されたシップ・チャンドラーの経営者である。本来なら、その年数から云っても、すでに定期船をにぎってかたい実績をあげられていい会社なのだが、終戦直後の混乱に乗じて吸った甘い汁が忘れられず、いつまでも妙なアルバイトに熱を傾けたおかげで、いまだに船会社の信用はゼロに等しい。
 しかし、吉田はそれを一向に苦にしている様子はなかった。自分の新しい帝国(ニュー・エンパイア)を白い粉ででも創りあげるつもりなのか、積荷のかげやランチの底にかくしたケチな密輸の取りひきから、税関吏を仲間に入れた大きな取りひきまで、この港で行われる暗い噂のかげには、かならずと云っていいほど、彼の名前がささやかれていた。そして特にこの数年来、彼がその能力を発揮しているのは、新しい業者に密輸のうまみを教えこんで、自分の組織に加入させることだった。

……第一章 蒼ざめた過去 より


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