「種の起原」

チャールズ・ダーウィン/堀伸夫・堀大才訳

ドットブック 600KB/テキストファイル 431KB

2400円

進化論についての初めての本格的な著作「種の起源」は1859年に出版された。この書は一般の人むけに読みやすく書かれていたため、たちまち話題となって大論争を引き起こした。ダーウィンは自然選択によって、生物は常に環境に適応するように変化し、それにともなって種が分岐して多様な種が生じると主張した。そしてこの過程を「生存競争」「適者生存」などの言葉を用いて説明した。彼は多くの観察例や実験による傍証などの成果によって、進化論を仮説の段階から理論にまで高めたのである。
 ダーウィンの進化論の基本は「自然淘汰あるいは適者生存による生物の漸次的進化」であったが、これには多くの反論も寄せられた。だがダーウィンは柔軟に自分の考えを見直し、必ずしも自然淘汰説のみでなく他の進化要因も認めた幅の広い、一層深みのあるものに変更していった。そうして何度かの改訂作業の最後に著したのが第6版であり、本書はこの第6版の完全翻訳である。この版には「自然選択説にむけられた種々の異論」の章が新たに追加され、それまでに寄せられた異論について回答が述べられるなど、ダーウィンの種の起原に対する最終的な考え方をまとめたものとなっている。日本語版としては、これまでに岩波文庫版『種の起原』(八杉龍一訳)があるが、これは原書第1版を基本とし、後の改訂を脚注として補完したものである。

チャールズ・ダーウィン(1809〜82) イギリスの生物学者。エディンバラ大学で医学を学んだあと、ケンブリッジ大学神学部へ転学。博物学にひかれ、卒業後、海軍の観測船ビーグル号に乗り組み、ブラジル、ペルー、ガラパゴス諸島、ニュージーランド、オーストラリアなどを回り、動植物や地質の調査をおこなった(これらは「ビーグル号航海記」としてまとめられた)。そのときの成果と、育種動植物の変異の観察などから、生物進化の確信をもつに至り、ケント州にこもって進化論に関する大著の執筆を始めた。しかし、それが完成しないうちに、博物学者アルフレッド・ウォーレスから同じ趣旨の進化に関する論文が送られてくる。驚いたダーウィンは、リンネ学会にむけてウォーレスとの共同論文というかたちで論文を発表した(1858)。と同時に、前から計画していた大著の要約版の執筆にとりかかり、約一年後の1859年11月に出版にこぎつけた。これが「種の起原」である。ダーウィンは残りの生涯を、進化論と自然淘汰説の普及と深化にそそぎ、その線にそった多くの著作を残した。「人間の由来」「人間と動物の表情」「ミミズの作用による栽培土壌の形成」などが、そのおもなものである。

立ち読みフロア
 私は博物学者として英国軍艦『ビーグル』(Beagle)に乗っていたとき、南アメリカに棲んでいる生物の分布についてと、この大陸の現在の棲息物と過去の棲息物の地質学的関係についての、若干の事実に深い感銘を受けた。これらの事実は本書の後章において述べるが、これこそ種の起原――我らの最大の哲学者の一人が神秘中の神秘とよんだ種の起原――にある光を投げかけるもののように思われた。帰国の後一八三七年に胸に浮かんだ考えは、このことに何らかの関係を有するあらゆる種類の事実を根気よく収集して熟考すれば、あるいはこの問題について何物かが得られるのではないだろうかということであった。私は五年間の研究の後、この主題への理論構成を試み、幾らかの短い覚え書を作成した。一八四四年、私はこれらを敷衍して、私にとって確からしいと思われた結論を略記した。その後今日に至るまで私は着々としてこの主題を追求してきたのである。ここにこんな個人的事柄を述べるのは、私が性急に結論に達したものではないことを示すためであるから、許していただきたい。
 私の仕事は今(一八五九年)ほとんど終わった。しかしこれを完成するにはなお多くの年月を要するであろうし、また私の健康がすぐれないために已むを得ずこの抜粋の刊行を急いだのである。これにはさらに特別の理由がある。それは今マレー諸島の博物を研究しているウォレス氏が、種の起原について私とほとんど同様な一般的結論に達したからである。氏は一八五八年にこの主題に関する一論文を私に寄せて、これをチャールズ・ライエル(Charles Lyell)卿に送るように頼んできた。ライエル卿はこれをリンネ学会に提出した。そしてこれは同会会報の第三巻に発表されることになった。C・ライエル卿とフッカー博士はともに私の研究を知っていたので――博士は一八四四年の私の略記を読んでいた――光栄にもウォレス氏の立派な論文と一緒に私の原稿からの簡単な抜粋を公にすることを勧められたのである。
 今私の公にする抜粋は当然ながら不完全なものである。この書において私は多くの記述に典拠と引用をあげることができなかった。それゆえこれについては読者に私の記述の正確なことを信用していただかねばならない。私は常に信頼できる良い典拠にのみ依るように注意したが、もとより幾らかの誤謬は入っているに違いない。この書にはただ私が到達した一般的結論を述べ得ただけで、例証のための事実は少数にとどまった。しかし大抵の場合はこれで十分であると思っている。今後この結論の基礎になっている一切の事実を、その引照とともに詳細に公表しなければならない必要は、誰よりも私自身が最も痛切に感じており、私は将来の著作でこれを果たしたいと思っている。なぜなら、この書の中で論じたことは、一見したところ私の到達した結論と正反対の結論に導くような事実をあげ得ないものはほとんど一つもないことを、私はよく承知しているからである。公平な結果はただ事実を十分述べて比較考量し、双方の問題について議論することのみによって得られるが、ここではそれができないのである。
 紙面が足りないために、個人的には知らない人も含む非常に多くの博物学者から受けた豊富な助力に対して、一々感謝の意を表することのできなかったことは、私の最も遺憾とするところである。けれども私はこの機会において、フッカー博士に対して深謝の意を表せずにはいられない。博士は実にこの十五年間ほど、その該博な知識と卓越した判断をもって、あらゆる可能な方法により私を援助してくれたのである。
『種の起原』を考察するに当たって、博物学者が生物の相互の類縁や、その発生学的関係や、またその地理的分布、地質系統、その他同様の事実を考慮して、種は独立に創造されたものではなく変種と同様に他の種から由来したものである、という結論に達するだろうことは十分考えられる。けれどもこのような結論は、たとえ十分な根拠があっても、この世界に存在する無数の種が我々の賞賛をよぶ完全な構造と相互適応を得るまでにどのように変容してきたかを説明できるのでなかったならば、不十分であることを免れない。博物学者は常に変異の唯一の可能な原因として、気候とか食物とかの外的条件をあげている。後に述べるような限られた意味においてこれは事実であろう。しかし、例えば樹皮下の昆虫を捕えることに実に巧みに適応した脚、尾、嘴および舌をもつキツツキの構造を、ただ外的条件にのみ帰するのは不合理である。ヤドリギの場合は、その栄養を幾つかの木から得、その種子は鳥類によって運ばれなければならず、またその花は雌雄の区別があるので、昆虫の媒介によって花粉が一つの花から他の花へ運ばれることが絶対に必要である。この寄生植物の構造を、幾つかの異なった生物への関係とともに、外的条件とか植物自身の習性または意志作用とかの効果によって説明するのは同様に不合理である。
 それゆえ、変容および相互適応の方法について明瞭な洞察を得ることが最も重要である。私は私の観察の開始に当たって、飼育動物および栽培植物を注意して研究すれば、この不分明な問題を解決する絶好の機会を得るに違いないと思っていた。そして私の予想は外れなかった。この問題の場合にも、その他の当惑させられる場合にも、飼育の下に現れる変異についての我々の知識が、たとえその知識は不完全であっても、いつも最も良好でかつ安全な手掛かりを与えることを発見した。私はこのような研究は、博物学者には一般に軽視されてきたが、価値の高いものであるという確信を敢えてここに表明したい。
 以上の考慮により、私はこの抜粋の第一章を『飼育の下での変異』に充てる。これによって我々は大量の遺伝的変容が少なくとも可能であることを知るとともに、またこれと同等かまたはそれ以上に重大なことだが、淘汰(Selection)によって継続的に小さな変異を累積してゆく人間の力がどんなに大きいかが分かるであろう。

……「序論」冒頭より


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