「死刑囚最後の日」

ユゴー/斎藤正直訳

ドットブック 194KB/テキストファイル 133KB

500円

表題作は、死を前にしてしだいに切迫していく死刑囚の心の世界を克明に描いたユゴーの異色作。これはユゴーの死刑廃止の信念を公にする作品でもあった。同時に収めた「クロード・グー」の主人公は、のちに「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンとして結晶する。

ヴィクトル・ユゴー(1802〜85) アルプスのふもとのブザンソン生まれ。詩人として出発したが、戯曲「エルナニ」で劇壇へ登場し、フランス・ロマン派の旗手となった。31年、長編「ノートルダム・ド・パリ」を発表。政治的には王党派からルイ・フィリップ支持へ移り、二月革命以後は共和派へ変わった。51年のナポレオン三世のクーデターに反対して国外追放となり、以後、第二帝政が崩壊する70年までフランスヘは帰らなかった。「レ・ミゼラブル」を含め「静観詩集」「海に働く人々」などの代表作は、この間に書かれた。帰国後、上院議員に選ばれたが、政治的にはあまり活躍せず、作品を書き続け、72年に発表した「九十三年」が最後の作品となった。

立ち読みフロア

 死刑囚!
 私はもう五週間も、この考えといっしょに住み、いつも二人きりですごし、この考えの前にたえず身は凍りつき、その重みの下に背はいつも折れ曲がっている。
 以前、といっても、このいく週間がいく年間にも思われるからだが、その以前の私も、他の人々と別に変りない一個の人間だった。毎日、毎時間、毎分ごとに、それぞれ違った考えがわいてきた。私の精神はまだ若くて豊かで、気まぐれな空想でいっぱいだった。それは人生という粗い、薄っぺらな布地を、見果てぬアラビア風の夢でとりとめもなく飾りたて、私の前につぎつぎと果てしもなく、楽しい世界をくりひろげてくれた。若い娘たち、司教のきらびやかな法衣、凱旋の英姿、さざめきと輝きとにみちあふれた劇場の夢。またしても浮かんでくる若い娘たちの姿、生い茂った大きなマロニエの木陰での、ほの暗き宵のそぞろ歩き。私の空想の世界は、まるでお祭りのようだった。私はどんな望みにも想いを馳せることができ、自由だった。



 それは八月の美しく晴れた朝のことだった。
 私の裁判は、はじまってからもう三日もたっていた。その間、私の名前と私のおかした犯罪は、毎朝雲のようにたくさんな傍聴者をよびよせていた。彼らは、まるで、死骸のまわりに群がる鴉《からす》のように、法廷のベンチに押しかけてきた。判事や、証人や、弁護士や、検事たちは、この三日間、私の前をまるでまぼろしの魔像のように、グロテスクな、時には血なまぐさい臭いを漂わせ、たえず陰気な、死を呼ぶ不吉な陰をおとしながら、往き来していた。最初の二晩は、不安と恐怖のために眠れなかった。三日目は、倦怠と疲労のあまり、裁判中につい眠ってしまった。深夜まで審議に夢中になっている陪審員たちをあとにし、私は牢獄の藁《わら》の上に連れもどされると、すぐに深い眠りに、忘却の眠りに落ちていった。それが裁判が始まって何日目かに私が得た、はじめての休息の時間だった。
 誰かが私を起こしにやってきたとき、私はまだ、深い眠りの奥底にいた。こんどは、看守の重い足どりや、鋲をうった靴のたてる音や、錠前のがちゃつく音や、閂《かんぬき》の甲高くきしむ音などにも、私は容易に眼をさまさなかった。私をこの深い眠りから引きずりだすためには、「こら、起きろ」という荒々しい声が耳もとに浴びせられ、乱暴な手が、私の腕をはげしく揺り動かさねばならなかった。私は眼をあけ、びっくりしてとび起きた。その瞬間、独房のせまい高い窓から、となりの廊下の天井がみえた。それは、いわば今の私の眼に垣間みえるただひとつの空でもあったのだ。その天井に映ってる黄色な光の反射をみ、牢獄の闇になれてきた私の眼は、すぐに太陽の光をそこにはっきりとみてとることができた。私は太陽が好きなのである。
「好い天気ですな」と、私は看守に言った。
 彼はしばらくなにも答えないで、つっ立っていた。そんなことに、いちいち相づちをうってやるだけのことがあるかどうか、考えているようだった。それから、いくらかお付きあいをしてやるといった感じで、突然咳《つぶや》くように言った。
「そうらしいな」
 私は立ったまま、なかば寝ぼけまなこで、口もとに微笑を浮かべながら、天井を染めている金色のやわらかな光の反射に、じっと眼をむけていた。
「ほんとに、好いお天気だ」と私はくり返した。
「そうだな」と、男も答えた。「みんながお前を待ってるぜ」
 このほんのわずかなひとことが、自由に飛びまわってる昆虫をたちまちしばりつけてしまう一筋の糸のように、現実の世界に私をむざんにも引きもどしてしまった。突然、晴天にひらめく稲妻の光に照らされたごとく、私の眼前にはふたたび、あの重罪裁判所の暗い広間が、血なまぐさいぼろ《ヽヽ》をまとった判事たちのいる馬蹄型の席が、間抜け面《づら》のならんでる三列の証人席が、私の席の両脇につっ立っている二人の憲兵の姿が、さらに、黒い法服があちこちとうごめき回っているようすや、闇の底にはいずりまわる蟻のようにみえる群集の頭や、私の眠っている間、徹夜で審議してきた十二人の陪審員たちの眼が、じっと私の上にそそがれている光景などが浮かんできた。
 私は立ちあがった。歯はがたがたと鳴り、手はぶるぶると震えた。そして、自分の着るべき服がどこにあるのかさえ分からなかった。両脚にも力がなくなってしまった。ひと足ふみだしただけで、重い荷物を背負いすぎた人夫のようによろめいた。それでも私は、看守のあとについて歩いていった。
 二人の憲兵が、独房の入口で待っていた。私はふたたび、手錠をはめられた。手錠は複雑な仕かけになっていて、憲兵たちはそのひとつ、ひとつに、念入りに鍵をかけた。それは仕かけの上に、さらに仕かけのある二重鍵の錠前だった。私はされるがままになっていた。
 私たちは中庭を通り抜けていった。朝のすがすがしい空気が私を元気づけてくれた。私は顔をあげた。空は青かった。そして暖かい太陽の日差しが、何本かのながい煙突にさえぎられながら、監獄のどす黒い、高い壁の一部に、明るい日の照った部分を角張ったかたちで描きだしていた。まったく申し分のない天気だった。
 私たちは、螺旋状の階段をのぼっていった。ひとつの廊下をすぎると、他の廊下に移り、さらに三番目の廊下を渡りおわると、そこには寸のつまった低い扉が開かれていた。
 ざわめきを伴った、暑苦しい空気が、顔に吹きつけてきた。それは重罪裁判所につめかけた群集の息吹きだった。私はなかにはいった。
 私が姿をあらわすと、武器のがちゃつく音と、どよめきの声が法廷におこった。席の入れ替えが、やかましい音をたてて行なわれた。仕切りの板がきしんだ。その間、私は兵士たちにさえぎられ、二つの集団に分けられた群集のあいだの長い廊下を歩いていった。われを忘れて身体を前にのりだし、私を見送っている群集のなかを通りぬけているあいだ、私はなんだか自分が、これらの全部の顔を自在に引きまわす操り糸の中心になっているような気がした。
 と、思った瞬間、私の身体からいつのまにか鉄の錠前がはずされているのに気づいた。それが、いつ、どこで、はずされたのか、私には思いだせなかった。
 一方、その時にはもう、法廷内はすっかり静まりかえっていた。私は自分の席のところまでやってきていた。群集のなかのざわめきがやんだとき、私の頭のなかのざわめきもやんでいた。 と、突然私は、自分はいま、ここに、自分に下される判決をききに来てるのだ、という現実をはっきりと悟った。今までのそれは、私が頭のなかで漠然と垣間みてきたものにすぎなかったのだ。この自覚は、いま述べてきたような経過をたどって、突然私に生じたのだが、どういうわけか、恐怖の念は湧いてこなかった。窓は全部、開かれていた。街路の空気と雑音とが自由に、外から舞いこんできていた。広間は、まるで結婚式の時のように、晴ればれとしていた。こころよい太陽の日差しが、あちこちの小窓を明るく浮き出させながら、床板の上にながく延びてき、テーブルの上にまで拡がり、さらに壁の角にぶつかり、折れ曲がっていた。また、窓のところから、それらの菱《ひし》がたに明るくなった部分にまでさしこんできている、いくつかの太陽の光線のなかには、金色の埃がつくる大きなプリズムが浮きでていた。
 裁判官たちは、広間の奥で、おそらく裁判はこれでもうすぐ終るのだ、という喜びのためでもあろう、いずれも満足げな面持で控えていた。日差しをうけた窓ガラスの反射をあびて、のどかに明るく照らされた裁判長の顔は、なんとなく静穏な、好意にあふれた感じをただよわせていた。一人の陪席判事は、まるで愉快そうにさえみえる表情を浮かべながら、うしろの特別席にいる、ばら色の帽子をかぶった美しい婦人と話しこんでいた。
 陪審員たちだけが青ざめ、打ちしおれているようにみえた。だが、それは明らかに、彼らが一晩中徹夜した疲労からきてるものだった。彼らのうちの何人かは、あくびをしていた。彼らのようすには、どこをみても、いま死刑の宣告を下しにきた人間を想わせるようなものはまったくなかった。これらの善良な市民たちの顔には、ただもう早く眠りたい、という欲望しか、私には見分けられなかった。私の真向かいにある窓がひとつ、大きく開け放たれていた。そこから、河岸通りの花売娘たちの笑い声が、私の耳にきこえてきていた。そして、その窓ぎわの石のわれ目に、黄色のかわいい草が一本はえていて、太陽の日差しをいっぱいに浴びながら、風とたわむれていた。
 こうした、いかにも和やかな感興のなかで、どうして不吉な考えなどおこりえよう。空気と日の光とにいっぱいにひたされて、私には自由以外のことはなにも考えられなかった。希望が、周囲の日の光とおなじように、私のうちにも輝いてきた。そして、私はすっかり安心しきって、釈放と生命とを期待しながら、自分の判決を待った。
 その時、私の弁護人がやってきた。みんなは、彼を待っていたのである。彼は、ゆっくりと舌つづみを打って朝食をとり、十分に腹ごしらえをしたのち、やってきたのである。彼は自分の席にやってくると、微笑を浮かべながら、私の方に身体をかがめた。
「うまくいくと思いますよ」と、彼は私に言った。
「そうでしょうか」と、私も軽い調子でほほ笑みながら応えた。
「そうですとも」と、彼はくり返した。「あの連中が、どんな申告をしたか、私はまだ知ってませんが、予謀の点はとりあげなかったことは、たしかでしょう、とすれば、せいぜい終身懲役といったところでしょう」
「なんですって!」と、私は憤然として言葉をかえした。「それだったら、死刑のほうがずっとましです」
 ──そうだ、死刑のほうがずっとましだ! と、なによりもまず、自分にもはっきりとは分からないある内心の声が、私にくり返した。そうだ、今それをはっきりと口にしてみたとて、なんの危険があろう。つまり、死刑の判決というものは、真夜中の、ろうそくの火に照らされたどす黒い、暗鬱な広間で、それも冬の、雨のそぼ降る寒い晩以外に、一度だって人の口にされたことがあったか。ところが、どうだ、この八月の、この朝の八時に、しかも、こんな素晴らしい天気の日に、あんな善良な陪審員たちが控えている前で、そんなことがあってたまるか! そして、私の眼はふたたび、あの太陽の日差しをあびている黄色なかわいい花の上にもどっていった。
 その時、突然、先ほどから弁護士の出廷を待っていた裁判長が、私に起立を命じた。兵士たちは武器を手にした。すると、電気仕かけのように、広間に集まっていた全員まで、同時にたちあがった。判事席の下の机に向っていた、馬鹿面《づら》の、虫けらのような男が、──おそらく書記だと思うが、口を開いて、私の欠場中に陪審員たちが下した評決を読みあげた。冷たい汗が全身に流れた。そのままぶっ倒れないように、私は壁に身を支えていた。
「弁護人、本件の適用について、なにか申し述べることはないか」と、裁判長はたずねた。
 私、この私には、言いたいことがいっぱいあったが、なにひとつ口にのぼってこなかった。舌が顎にへばりついてしまっていたのである。

……巻頭より


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