アイリッシュ短編集

「妄執の影」

ウィリアム・アイリッシュ/黒沼健訳

ドットブック版 293KB/テキストファイル 127KB

500円

アイリッシュの短編には「味のある作品」という言葉がぴったり当てはまる。この味にはアメリカの小説とは異なるヨーロッパ的なものが多分に感取される。その作品がフランスで受けている理由であろう。アイリッシュの代表作といえば長編『幻の女』と『黒衣の花嫁』が念頭に浮かぶ。しかしアイリッシュの本領は、長編よりもむしろ短編のほうにあるのではないかと思われる。本書におさめた数編でもわかるように、その短編は粒よりの珠玉編である。(訳者のことば)

ウィリアム・アイリッシュ(1903〜68) ニューヨーク生まれ。コロンビア大学でジャーナリズムを専攻したが、在学中から小説を書き始め、大学は中退。34年からミステリ短編を雑誌に書き始め、42年の長編「幻の女」で一躍サスペンス・ミステリの人気作家となった。哀愁味あふれる美しい文体から「サスペンスの詩人」と呼ばれたりする。本名コーネル・ウールリッチ名義で書いた作品も多い。

立ち読みフロア
 それは、いつもと同じような晩だった。月は出ていた。星もきらめいていた。
 一人の男と、一人の若い女が暗がりを歩いていた。およそ月並みな風景である。侘(わび)しい、郷愁をそそる音楽が、夜風にのって彼らの背後に消えて行く。それといっしょに大天幕の灯(あかり)も消えた。彼女はそれを喜んだ。彼といっしょにいるというだけで充分楽しかった。彼の声音(こわね)の中に、彼女は自分の音楽と踊りを見いだした。その手の感覚は、彼女の両の手の中にあった。
 二人は道の折れているところへ来ると黙って、腰をおろした。何故こんなところへ来たのか彼女には判っていた。彼女は、彼が結婚を申し込むことを知っていた。それは彼女の望んでいたことだった。彼女はその返事を前から用意していた。それは「イエス」だった。
 彼は星を見ようと顔をのけぞらした。彼女はその顎(あご)を見た。凸凹していた。しかし彼女には、それは星のように思われた。星の光は、仰向(あおむ)いたその横顔を霜のような銀色の線で隈(くま)どっていた。ほっそりした銀白の輪郭の線。考えてみると、彼について彼女の知っていることは、こんなものだった。あとはまるで闇だった。すでに存在はしていながら、まだ現れない惑星みたいに、判りもしなければ、想像もつかなかった。
 彼女の母親は、一度会っただけで、ろくにそのひとのことなんか知りもしないで、すぐに夢中になるのは危険だといった。
「そうせくものじゃないよ」といった。
「自分のしていることに気をつけるのですよ」
 あとは世間の母親たちがいうようなことを、彼女の母親もいった。お母さんなんかに、何が判るものですか。お母さんの恋愛時代はもう過ぎたのだ。
 三週間と二日と十二時間。それは、たしかに短い時間だった。人生にとったら、ほんの束(つか)の間だった。
 ミチェル。ケネス・ミチェル。彼女は胸のうちに静かに繰り返した。ミチェル。フランシス・ミチェル夫人。いや、ケネス・ミチェル夫人。このほうがいい。彼女は何もかも彼のものにしてしまいたかった。自分の名前さえも。
「フランシス──」
 彼の腕が、そっと彼女の体を抱(だ)いた。
 これだ。いよいよやって来た。彼女は体をすり寄せた。
「なに? ケン」
「僕は君を愛してる。君は、僕と……僕と結婚してくれないか?」
「いいわよ、ケン」
 彼女は溜息をついた。
「しますとも」
 彼女は、彼の両腕の中にとけこんでしまったように思った。まるで彼の一部分になったみたいだった。彼のもう一つの体といってもよかった。彼女自身というものは殆んど消えてしまったように思われた。二人は、しばらくの間、身動きもしなかった。そのままじっとしていた。すっかり満ち足りた気持だった。もう何(なん)にもいらなかった。求婚につきものの感情の交流──愛撫(あいぶ)、接吻、愛の囁き──そんなものは無用だった。二人の愛撫は、二人が一つになっていることだった。
 すると彼の腕が急に離れた。彼女はまた独りになった。ベンチの上の二人の間には空間(すきま)ができた。
「僕には資格がない──君に、あんなことをいうつもりはなかったんだ」
「だって、いいじゃないの。ケン。いいってこと、あなたには判らないの?」
「はじめに、君に話しておかなきゃならないことがあったんだ。君が聞いておかなきゃならないことがね」
 むろん誰かほかの女のことだろう。それ以外のことがあるわけはない。こんな場合に、男が女にいわなくてはならないことが、それ以外にあるかしら? いったい、それ以外のことで、男と女の間で問題になることがあるだろうか? そのほかのことは、いっさい男の世界に属するものだ。女が足を踏み入れることのできない別の世界である。そんなものは、彼女の利害と衝突することはない。
「だって、ケン。そんなこと、かまわなくってよ。あたし、聞きたくないわ」
「このことは、どうしても聞いておいてもらわなくてはいけないんだ。君が知っていなければならないことなんだ。僕が結婚を申し込む前にね。君が、イエスかノーかの返事をする前にね」
 彼女は黙っていたが、承諾したのだろう。彼のほうに体をすり寄せてきて、彼の言葉を待っていた。
「フランシス、僕は人を殺したことがあるんだ」
 一瞬、この言葉は何の意味もなさなかった。彼女は、ほっと安堵しただけだった。殆んど竜頭蛇尾(りゅうとうだび)の感じだった。案じていた障害がとり除かれたのだ。彼女は紛糾した事柄が、行く手をはばんでいるのではないかと懸念していたのだ。解消しきれない結婚、絶ち切れない恋愛関係。しかし、これらは例の別の世界、彼女には関係のない面(めん)、つまり男の世界のことだった。何処から見ても彼女の利害と衝突するものではなかった。二人の愛情を左右する問題ではなかった。
 これは丁度(ちょうど)、一人の少年が、あなたのところへやってきて
「ボク、よその家の窓に、石をぶつけて毀(こわ)してしまったの」
 というようなものだった。いうまでもなく、そんなことはしてはいけない。悪いことだ。街角にいるお巡りさんは、いいとは思うまい──だからといって、この少年に対するあなたの愛情には変わりはないはずだ。ありえようわけがないではないか。
 彼女はほっとして深い息をした。
「あたし──誰か、ほかにいたのかと思ったわ」
 それから括弧(かっこ)の中でいうみたいに、
「どうしたっていうの? 過失だったの?」
 彼は強く首を振った。
「過失なんかじゃない。いわゆる『殺人』という奴さ。僕はその男を探しに行って、探しあてた。──それで、やっつけたんだ」
 二人は何処までも一体だった。この新事実も、二人を引離す力は持っていなかった。彼女の全身の毛孔(けあな)の一つ一つがそのことを意識していた。
「それで、あなたは何(ど)うなったの? ケン」
 彼は声をぐっと低くしていった。
「僕が犯人だってことは判らずじまいさ。今までのところ、誰も知りやしない。僕のほうだって名乗って出なかった。というのはね──そいつは、早晩ああなることは覚悟していたんだ。奴にとっては、当然の罰だったのだ。奴は僕を侮辱した。僕は、ひとに侮辱されたら、決してただでは置かないからね」
 かつての怨恨(えんこん)が、彼の身内(みうち)にむくむくと頭を抬(もた)げてきた。彼女は、彼の過去の何処からか忍びよる硬直と緊張を感じることができる。
「ずっと前、セント・ルイスでの出来事さ。十年前だった。その男は、ジョセフ・ベイリーといった。そいつは──」
 女の手が、さっと飛んで男の口をおさえた。
「もう沢山。それ以上、ききたくはなくってよ」
 二人はしばらくの間、そのまま坐っていた。ついに彼女は手をおろした。決心がついたのだ。
「あなたが、いおうとしたこと、いって頂戴」
 彼女は囁くようにいった。
「ね、話して。どんなことだって平気よ。あなたにたいするあたしの気持を変えるものは、何(なん)にもなくってよ。どんなことをいわれたって──」
 星の光をうけた男の目は、女に嘆願していた。
「でも、後になって君の気持ちが変わるかも知れないからな。それが心配なんだ。決して変わらないと約束してくれ。よその連中みたいに、喧嘩することがあっても、このことは決して口に出さないってね。フランシス、僕には、それが気がかりなんだ。絶対にいやしないね。永久に、このことを僕に思い出させないと約束してくれ」
 彼女は顔をまげて、男の目をじっと見た。
「約束どころか、あたし、あなたに誓ってよ。今、ここで、あたしは神聖な誓いを立てます。このことは決して口外しません。あなたは、あたしに何もいわなかったも同然です。あたしの唇に出ることは絶対にありません。あたしは──墓場のように沈黙を守りますわ。墓場のような沈黙を永遠に──」
 男は突然、体を動かした。女はそれに抵抗するように両腕をさしのべた。が、それはすぐに、二人の肘(ひじ)と肘の間にできた小さな窪(くぼ)みを埋めたように思われた。二人の間の距離はなくなり、二人は一体となってしまった。
 それは、いつもと同じような晩だった。月は出ていた。星もきらめいていた。

……「妄執の影」冒頭より

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