「歌う白骨」

オースチン・フリーマン/大久保康雄訳

ドットブック 217KB/テキストファイル 186KB

600円

物語の前半で真犯人を明かして、犯罪の過程を述べ、後半で完全犯罪のしくみをあばいていく――この「倒叙推理小説」と呼ばれる形式を初めて試みたフリーマンの代表的中編を集めた傑作ミステリー。当時のイギリス推理小説界の二大花形であったドイルとフリーマン。ドイル描く《ホームズとワトスン博士》に対する《法医学者ソーンダイクとジャーヴィス医師》の活躍は、その緻密な推理と科学的立証で、今日のミステリーの先駆的な存在として、新分野を開拓した。

オースチン・フリーマン(1862〜1943) ロンドン生まれ。医者になってアフリカに赴くが、病に冒されて帰国。その後もよくならず、医業を捨てて文筆家をめざす。法医学者ソーンダイク博士が活躍するミステリー作品「赤い拇指紋」で認められた。また短編集「歌う白骨」で倒叙推理小説を創始、これはアイルズやクロフツに受け継がれた。他の代表作に「オシリスの眼」「ダーブレイの秘密」などがある。

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 良心ということについて、ばかげたことが、おどろくほどふんだんに語られている。一方では悔恨(かいこん)(極端なチュートン民族学者一派は「呵責(かしゃく)」と呼びたがるようであるが)、他方では「やすらかな良心」――このようなものが、幸福か否(いな)かを決定する要因とされているのである。
 もちろん「やすらかな良心」という見方にも一理はあるが、しかしこれは、まるで仮説を論拠とした議論にすぎない。ある独特の強い良心は、きわめて不利な条件――もっと薄弱な良心が「呵責」のためにはげしく苦しめられるような条件のもとでも、平然としてやすらかでありうる。さらに、ある幸運な人たちは、実際まるで良心なんぞ持っていないようでもある。この持たざる天分によって、彼らは一般人類の精神的な栄枯盛衰から超然と遊離しているのである。
 サイラス・ヒックラーは、まさにその実例だった。その陽気な丸顔が、慈悲ぶかそうにかがやき、たえず微笑をたたえているのを見ていると、だれも彼が犯罪者であるとは想像もしないであろう。わけても、いつも愛想のよい彼に接し、家のまわりで心も軽やかに歌いつづける彼の聖歌を聞き、食事時には熱心に料理を賞味するのを心にきざみつけていた彼の優秀な、高教会派の家政婦にいたっては、そんなことは夢想だにしていなかった。
 しかもサイラスが、つつましやかながら、安楽に暮らせる生活費を、みやびやかな夜盗の技術でかせいでいたのは事実なのである。これは不安定な、危険の多い職業ではあるが、思慮分別をもって、つつましやかにやれば、それほどあぶなっかしくもないのだ。そしてサイラスは非常に思慮分別のある男だった。いつも彼は、ひとりきりで仕事をやったし、自分ひとりで考えた。危機にのぞんで不利な共犯の証言を申し立てるような共犯者をもっていなかった。かんしゃくを起こしてロンドン警視庁へ駆けこむような仲間も一人もいなかった。多くの犯罪者とちがって、彼は強欲でもなく、金づかいも荒くなかった。「大もうけ」をやる場合は、きわめてすくなく、長い時日をへだてて、慎重に計画し、ひそかに決行していた。そして、その収入を賢明にも「毎週利益のあがる不動産」に投資していたのである。
 若いころ、ダイヤモンドの取引きに関係していたサイラスは、現在でもすこしばかり、いささか不規則な取引きをやっていた。同業者間では、ダイヤモンドの不正買入れをやっていると見られていて、ある業者のごときは「故買(こばい)」という不吉な言葉までささやくようになっていたのであるが、サイラスは慈悲ぶかげな微笑を見せて、あいかわらずわが道をたどっていた。彼は、みずから万事を心得ていたし、オランダの首都アムステルダムの彼の得意さきの連中も、せんさく好きではなかった。
 サイラス・ヒックラーは、こうした人物だった。十月の夕方のたそがれどきに庭さきをぶらついている彼は、つつましやかな中流階級の裕福な人間の典型のように見えた。ヨーロッパ大陸へ小旅行に出かけるときの旅行服をまとい、カバンは、ちゃんと荷づくりされて居間のソファーにおいてあった。ダイヤモンド(サザンプトンで、さしでがましく、よけいな質問はしなかったというだけのことで、これは正直に買いとってきたものなのである)の小さな包みは、チョッキの内ポケットにはいっており、もっと貴重な一包みは右の深靴(ブーツ)
の踵(かかと)の空洞のなかにしまいこまれていた。あと一時間半すれば、臨港列車に乗りこむために連絡駅へ出かける時刻だった。それまでは、光の薄れてゆく庭をぶらついたり、こんどの取引きの収益をどんなふうに投資するかを考えるよりほかに、何もすることはなかった。家政婦はウエラムへ一週間ぶんの買物に出かけていて、十一時ごろまでは帰ってきそうもなかった。彼は、ただひとり庭にいて、ほんのすこしばかり退屈ぎみだった。
 ちょうど家のなかへはいろうとしかけたとき、庭の端(はし)の向こうがわに通じている未完成の道に足音がするのを彼の耳は聞きつけた。彼は、たたずんで聞き耳をたてた。近くに人家はないし、しかも、この道は、どこといって到達点はなく、家の向こうの荒地へ消え去っているのだ。訪問者だろうか? いや、そうではなさそうだ。サイラス・ヒックラーの家を訪れるものなど、ほとんどいなかったからだ。そのあいだに足音は次第に近づき、石の多い固い小道に、だんだん高くひびいてきた。
 サイラスは、ぶらぶら門のところまで行って、それによりかかりながら、多少の好奇心をもって外をのぞいて見た。まもなく、パイプにでも火をつけたのか、ぱっと見えた光が一人の男の顔を照らしだした。それから、ぼんやりした一つの人影が、あたりをつつむ暗がりから、こちらへ近づいてきて、庭の向こうに立ちどまった。そして、口から巻煙草をはなし、雲のように煙をはきだしながら、たずねた――
「この道を行けばバザム連絡駅へ行けますかね?」
「いや」ヒックラーは答えた。「しかし、もっと向こうに駅へ通じている野道がありますよ」
「野道ですって?」相手は、うなるように言った。「いや、もう野道には堪能(たんのう)しましたよ。わしはロンドンからキャトリーまできて、連絡駅へ歩いて行くつもりだったのです。それで道路を歩きはじめたところが、どこかの阿呆が近道を教えてくれました。おかげでわしは、この半時間、暗がりのなかをうろつきまわらねばならん仕儀となったのです。なにしろ、わしは眼があまりよくないもんですからね」そう言い足した。
「どの列車に乗るつもりですか?」ヒックラーはきいた。
「七時五十八分の列車です」そう返事した。
「わたしもその列車に乗るんです」サイラスは言った。「しかし、あと一時間ほどたたないと出かけません。ここから駅までは、わずか四分の三マイルですからね。うちへはいって、ひと休みされてはどうですか。そうすれば、いっしょに出かけられるし、あんたも道に迷われる心配はない」
「ご親切に、どうもありがとう」相手は眼鏡をかけた眼で暗い家のほうをのぞきながら言った。
「それにしても――どうも、わしは――」
「駅で待つより、ここで待ったほうがいいでしょう」門をあけながらサイラスは独特の愛想のいい調子で言った。相手は一瞬ためらってから門をはいり、巻煙草をすてて、サイラスのあとから小別荘風の家の扉までついてきた。
 居間は暗くて、消えかけている炉の火が、にぶく光っているだけだったが、客人よりもさきに部屋にはいったサイラスは、天井からさがっているランプにマッチで灯をともした。その光が小さな部屋の内部を照らし出すと、二人の男は、たがいにまじまじと相手をながめた。
「おや、ブロズキーじゃないか」客人を見てヒックラーは心の奥でつぶやいた。たしかに、おれに気づかないらしい――もちろん気づくまい。もう長い年月がたっているし、あんなに眼がわるいのだから――
「さあ、どうぞおかけください」声に出してそう言った。「時間つぶしに軽く一杯いかがですか?」
 ブロズキーは小声で、いただきましょう、とぼんやりした口調で言った。そして主人が向こうをむいて戸棚をあけたとき、ブロズキーは帽子(かたい灰色のフェルト帽)を隅の椅子の上に、カバンをテーブルのはしにおいて、コウモリ傘をそれにもたせかけ、小型の肘掛け椅子に腰をおろした。
「ビスケットあがりますか?」ヒックラーは言いながら、テーブルの上に、ウイスキーの壜(びん)と、星模様のついた一番上等のグラス二つと、サイフォン壜(びん)をおいた。

……
「オスカー・ブロズキー事件」冒頭より

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