「夢遊病者の姪」

E・S・ガードナー/宇野利泰訳

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500円

離婚裁判で係争中だったドリス・ケントは、夫ピーターが看護婦と結婚しようとしているのを知ると、急に作戦を変更して、離婚訴訟を取りさげた。そして、夫に夢遊病の発作があったことを楯に、精神錯乱だと主張し、禁治産の訴訟を起こそうとしていた。星占術にこるピーターの姪(めい)のはからいでその夢遊病者と逢ったメイスンはそこで奇妙な矛盾を発見する――正気であることを証明させるためにメイスンに依頼してきた男が、狂人じみた芝居をしてみせるのである! 初期ガードナーの秀作。

アール・スタンリー・ガードナー(米、1889〜1970)鉱山技師の息子に生まれ、正統な教育は受けなかったが、のち法律に志し、21歳で弁護士事務所をカリフォルニアに開いた。22年間の刑事弁護士生活の経験を生かして、法廷場面とハードボイルド・タッチで有名なペリイ・メイスン・シリーズを書き、一躍人気作家となった。

立ち読みフロア
 ペリイ・メイスンは先刻から、額に深い皺(しわ)をよせ、チョッキのわきに親指をあてがって、事務室のなかを歩きまわっていた。
「たしかに二時といったんだろうな?」
 とメイスンは事務員のジャックスンにいった。
「もちろんです、先生。面会時刻は正確におねがいしますといってあります」
 メイスンは腕時計に目をやって、いらいらした気持ちをあらわに見せて、
「十五分も遅刻しているじゃないか」と繰り返した。
 秘書のデラ・ストリートが帳簿を調べていた目をあげて、口をはさんだ。
「だったら、先生、お断わりになればよろしいわ」
「ところが、その婦人に会ってみたくもあるんだ。弁護士という職業は、これはと思うものにぶつかるまでに、くだらぬ殺人事件をうんざりするほど扱わなけりゃならぬものだ。この事件には有望そうな匂いが漂っている、そこで食指が動いているというわけだ」
「すると、先生」ジャックスンも口を入れた。「殺人事件のうちにも、つまらぬものが多いとおっしゃるのですか?」
「それはそうさ。きみだって、これから事件を数多く扱って、経験を積めばわかることだ。殺されてしまえばそれで終わりさ。人間なんて、死んでしまえばつまらぬもので、興味があるのは、生きているうちだけだ」
 秘書のデラ・ストリートはけげんそうな顔で、メイスンを見ながら、
「ですけど、先生。これはまだ、殺人事件になっていませんわ」
「だからこそ興味がある。事件が起きてからの後始末なんて、願い下げにしたいよ。犯罪にしても、ぼくが突ついてみたいのは、発生した事実じゃなくて、そこへ落ちるまでの過程だ。いいかえると、その事件に結晶した人間の憎悪――つまり、犯罪の動機だ。憎悪の極が殺人になる。ちょうど、恋愛の極が結婚になるようにさ。しかも、憎悪は恋愛より強力だよ」
「だから、恋愛以上に魅力があるとおっしゃるの?」いぶかしそうにメイスンをみつめながら、デラが訊いた。
 メイスンはその質問には答えずに、さらにつづけて床の上を歩きまわりながら、考えごとを口に出していう男の単調ないい方で、
「もちろん、殺人の発生を未然に防止するのが、われわれ法律家の任務だ。しかし、本当のことをいうと、刑事弁護士としてのぼくには、夢遊病患者が無意識のうちに殺人を犯すというところに、興味津々(しんしん)たるものが感じられる。このケースには、殺意もなければ、予謀もないのだ」
「ですが、先生」と、事務員のジャックスンが指摘した。「そのような事件をお引き受けになったら、依頼人の意識的な行為でないと陪審員に納得させるには、たいへんな手間がかかるんじゃないでしょうか?」
「その程度のことは」とメイスンは、両足を踏(ふ)んまえるように突っ立って、ジャックスンの顔を睨みすえ、「これからあらわれる姪にだって、やってやれないものでない。伯父が夢遊病者で、夢行中に肉切りナイフをとり出すこと。それを寝室に持ちこむこと。これだけ証言すれば、じゅうぶんのはずだ」
「それはそうです」
「それ以上の何が必要なんだ?」
「あの女性が証人台に立つと、かえってまずいんです」
「え? 何をいいだすんだ? その女性の何がまずい?」
「彼女だと、みんなの関心を集めすぎます」
「そんなに美人か?」
「ええ、もちろん。すばらしい肉体美でしてね。ドレスの上からでも、身体の線が見えるくらいです」
「ほ、ほう――で、年齢は?」
「いいとこ、二十三か四です」
「いかれた感じか?」
「まあ、そんなところでしょうね」
 ペリイ・メイスンは芝居がかった大袈裟な身振りで、
「年齢が二十三で、すばらしい肉体美人か。その美人を証人に使える光栄に浴したら、ぼくは彼女に、こういって知恵をつけるよ。証人台に着いたら、派手に膝を組みあわせて、脚をちらちらさせろ、とだ。それだけやって、彼女の伯父が夢遊病患者だってことを、陪審員に認めさせられないようなら、ぼくは明日にでも、刑事弁護士を廃業するよ」
 メイスンはそこで、その話題を打ち切るかのように肩をすくめ、次にデラ・ストリートにふり向いて訊いた。
「誰かほかに客は?」
「ジョンソンさんとおっしゃる方が、フレッチャー被告事件の弁護を依頼したいとおいでになりました」
「その件は断ってくれ。ぜったいに引き受けない。あのフレッチャーくらい残忍な男はないぜ。弁護の余地などあるものか」
「でも、ジョンソンさんはいっていました。激情のあまり、かっとなって殺してしまったことだから、先生に弁護をしていただけたら、陪審員の心を動かす余地はじゅうぶんあるはずだと……」
「まあ、やめておこう。いいかね、デラ。なるほど、やつの細君は被害者と浮気をしていたかもしれない。しかし、フレッチャー自身が札(ふだ)つきの道楽者なんだぜ。去年一年だけでも、ぼくがナイトクラブで彼の姿を見かけたことが五、六回ある。そのつど、彼の膝の上にのっていた女の顔がちがっていたよ。あんな乱れた夫婦のあいだでは、離婚の理由ならいくらでも成立するが、殺人の弁明なんかできるものか。で、ほかの用件は?」
「マーナ・デュシェーヌという女の方が面会にきました。婚約中の男に、貯金の全部を持ち逃げされたというのです。相手は非常な美男子で、女を結婚で誘惑しては、貯金を巻きあげる常習犯なのだそうです」
「持ち逃げされた金額は?」
「五千ドルですって」
「検察庁へ行くんだな。この事務所を訪ねてくるのはお門(かど)ちがいさ」
「地方検事は、むろんその男を訴追してくれますが、ただそれだけのことでして」と、デラ・ストリートは指摘した。「ミス・デュシェーヌの盗られた貯金はもどってきません。あの婦人(ひと)にとっては、お金のほうが肝心なのです。そこで先生にお願いしたら、男から逆に吐き出させることもできると考えているのです」
「姿を消してしまったんじゃなかったのか?」
「マーナは、男の現在の居どころを知っているのです。ジョージ・プリッチャードという名で、パレス・ホテルに宿泊しているそうです」
 メイスンは、デラの言葉をさえぎるようにして、
「ミス・デュシェーヌはこの土地の女か?」
「いいえ、ネヴァダのレノから、男のあとを追って出てきたそうです」
 メイスンは目をつぶって、しばらくのあいだ考えていたが、
「デラ、ぼくは謝礼なんかほしくないから、きみから直接、ミス・デュシェーヌに教えてやるがいい。なまじ弁護士なんかが顔を出すよりか、彼女ひとりのほうがうまくこなせる方法がある、とね。もしその男が、女を騙して金を巻きあげるのを商売にしているのなら、彼女の貯金の五千ドルは、次はもっと金のある女をひっかけるための資金に使われるにちがいない。だから、その男を見張っていれば、やつめ、服だとかなんだとか身の廻りの品を新調して、次の女をひっかけにかかるはずだ。で、いざ女をつかまえたとみたら、その瞬間、現場に姿をあらわす。そして居直ってみせるんだよ。持ち逃げされた五千ドルをとり戻すくらい、なんの造作もないことさ」
「でも、恐喝になりませんかしら?」
「それは、なるとも」
「だったら、逆に訴えられるでしょう」
「そのときだよ。ぼくの出番は」メイスンがいった。「弁護は引き受ける。彼女には、一セントの負担もかけさせない。苦労して貯めた金を全額巻きあげられた女が、その犯人を恐喝したからといって、世間から非難される理由にはなるまい。きみはさっそく……」
 そのとき、電話のベルが鳴った。デラ・ストリートは受話器をとりあげて聞いていたが、それを手で押さえて、
「先生、問題のご婦人、やっとおみえになりましたわ」と、いった。
「待たしておけ。みせしめのために、五分間、待たしておくんだ……いや、そうじゃないな。すぐに会おう。そのほうがよさそうだ。通しなさい、デラ。きみはそこにいていいよ。ああ、ジャックスン。きみはあちらの部屋で、手紙の整理だ。それがすんだら、電鉄会社事件の訴答書を作成してもらうよ」
 デラ・ストリートは電話機に向かって、事務的な口調で受付へ言った。
「ミス・ハンマーに、こういいなさい。約束の時間に十八分も遅れていますが、特別に先生はお会いになりますって」
 事務員のジャックスンは大きな書類の束をかかえて、いそいで隣の部屋へひき退(さ)がった。入れかわりにドアがひらいて、若い金髪女がはいってきた。毛糸編みのスポーツ服を着ているが、水着のように身体の輪郭が透き写しだった。ペリイ・メイスンに笑いかけ、恐ろしいほどの早口で、
「遅刻して、すみません」
 といって、弁護士と秘書とを見較べた。口もとには、まだ先ほどの微笑が残っていたが、目には真剣な光がきらめいていた。
「これは秘書のミス・ストリートです」ペリイ・メイスンはデラを紹介して、「そうじろじろ見ないでやってください。あまり感じのよいものじゃありませんからね」と付け加えてから、「秘書はお話の記録をとるためにいるので、秘密はぜったいに洩らしませんから、ご心配なく。さあ、その椅子におかけになって――ご用件は叔父さまのこととうかがっていますが」
 彼女は笑って、
「メイスン先生。先生は世間の噂どおり、度肝を抜く名人ですわね」
「そんな気持ちでいったのではありませんよ。まあ、お話をうかがいましょう」
 彼女は頭をちょっと傾(かし)げて、目をかるく閉じた。そして、さも感嘆したように、大袈裟な身振りを混じえていった。
「先生はたしか獅子宮(レオ)ですわ」
「レオ?」
「ええ、生まれ月日を当ててみましょうか。七月二十四日から八月二十四日のあいだでしょう? 生まれ月日が人間の星を定めるものなの。で、いまいった月日に生まれたひとの星が獅子宮(レオ)で、この星のひとは、火のように情熱的で、しかも実行力がともなっている。力強い星ですわ。守護神は太陽。だから先生も、精悍な肉体に恵まれていて、つねに危険を怖れずに突き進む。だけど、弱点としては……」
「もう結構です。そのへんでやめてもらいましょう。自分の欠点を聞いて時間をつぶすには、ぼくはちょっと忙しすぎる。お嬢さんはきょうの午後いっぱい、ここにいらっしゃるおつもりかもしれませんが……」
「欠点どころじゃなくてよ。最上の運勢なの、それは」
 メイスンは回転椅子に腰を落として、
「お名前はたしか、エドナ・ハンマーでしたね。お年齢(とし)は?」
「二十歳――二十三歳」
「ということは、二十三か二十五」
 彼女はちょっと眉をひそめて、
「二十四なのよ。正確なことがお望みなら」
「万事正確にいきましょう。で、ご用件は伯父さまのことで?」
「ええ、そうなの」
「伯父さまの名は?」
「ピーター・B・ケント」
「おいくつですか?」
「五十六歳」
「ごいっしょにお住まいですか?」
「ええ、そうなの」
「あなたのご両親はお亡くなりになった?」
「ええ。伯父は母の兄に当たりますの」
「何年くらいごいっしょにお住まいです?」
「三年間」
「で、ご不安の原因は?」
「申しあげるわ。じつをいうと、伯父は夢遊病に悩んでいて――」
 メイスンはデスクの上のシガレット・ケースから煙草を抜きとって、親指の爪で叩きながら、エドナ・ハンマーの顔をみつめ、
「一本、いかがです?」
 と訊き、彼女が首をふって辞退すると、デスクのかどでマッチの火をつけていった。
「そこのところを、もう少し詳しく話してもらえませんか」
「どこから話しだしたら、いいのかしら?」
「はじめから話すんです。夢遊病が始まったのは?」
「一年ちょっと前でした」
「どこで?」
「シカゴよ」
「どんなふうに?」
 彼女は回転椅子のなかで身体をもじもじさせて、
「先生とお話していると、何かこう急(せ)き立てられているみたいで、言葉がうまく出てきませんわ。わたしの話しいいように喋らせていただけないかしら」
「いいですとも。ご自由に話してください」
 彼女は、スポーツ服の短い裾が、ほんの膝あたりを蔽(おお)うだけなのを気にしながら、あらためて喋りだした。
「叔父のピートは、気質(きだて)のいたって優しい人なんですけど、たいへんな一刻(いっこく)者で……」
「かまいませんよ。どんなことでも、遠慮なしに話していただきます」
「これから、話が伯父の妻のことに移りますのよ」
「ほ、ほう。すると伯父さまは結婚しておられるのですか」
「ええ。そうなの。とんでもないあばずれ女と」
「同棲しておられる?」
「いいえ。いま、離婚訴訟が進行中なの。それが最近、女のほうの気持ちが変わって――」
「というと?」
「女はいま、サンタ・バーバラの別荘に住んでいるの。シカゴで、伯父の夢遊病が始まったとき、女のほうから離婚の訴訟を提起したのよ。その理由は、伯父に殺される危険があるというのだったわ。ところが、どうしたわけなのか、その訴訟の取り下げ手続きを始めようとしていますの」
「その理由は?」
「それがはっきりしないのよ。とにかく頭の鋭い女で、もともと別居手当が目的の結婚なんですけど――」
 

……冒頭より


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