「響きと怒り」

ウィリアム・フォークナー/大橋健三郎訳

ドットブック版 494KB/テキストファイル 288KB

1200円

フォークナーは全く予備知識を与えぬまま読者を白痴ベンジーの意識のなかに連れこむ。そしてその錯乱の意識を通りぬけた読者は第二部で再び意識の流れの激しい屈折に戸惑う。しかし第三部、第四部では次第にこの作品の主題と意味が明らかにされてゆく。この作品は現在と過去との交錯がいちじるしい。とくに一部、二部はそうであり、たとえば第一部ではベンジーの意識が現在の知覚から過去へ移るときにはたいていイタリック体で書き表わされているが〔訳文では【 】で囲った〕、同じ技法が第二部でも用いられている。そしてこれら錯綜する時間と映像の下に、登場人物の心にとって意味の深い出来事が埋められているのである。米国南部社会 特有の醜悪で陰惨な人間心理を描写し、『響きと怒り』は二十世紀の傑出した小説のひとつと評価される。

フォークナー(1897〜1962)アメリカ南部ミシシッピ州生まれ。南部を舞台に醜悪で陰惨な人間心理を克明に書き綴った「ヨクナパトウファ神話(サーガ)」と総称される膨大な作品群で知られる。代表作「響きと怒り」「サンクチュアリ」 「八月の光」「アブサロム・アブサロム!」「征服されざる人々」などはすべてこの中に含まれる。

立ち読みフロア
 いったん売女(ばいた)に生れついたやつは一生涯売女だ、っておれは言うんだ。あいつが学校をずるけて遊びまわってるってことだけが心配の種なのなら、お母さんは運がいいっていうものですぜ、とおれは言う。今の今だってあいつはあの台所に降りてきていてしかるべきですぜ、自分の部屋にあがって顔におしろいをぬたくったり、パンと肉をいっぱい入れた鍋(なべ)をかかえてからだの平均がとれるようにならないうちは、椅子から立ちあがることもできないような六人の黒ンぼどもが、朝飯の仕度をしてくれるのを待っていたりなどしないでね、っておれは言うんだ。するとおふくろが言うのには、
「でも、あたしにあの子を監督する力がないなんて学校の人たちに思われたら、あたしに力がなくって――」
「だって」とおれは言ってやる、「お母さんにはほんとうにその力がないじゃありませんか? 一度だってあいつをなんとかしようとしたことはないんですからね」と言ってやるんだ、「いったいこんなにおそくから何が始められますかね、もう十七にもなっているんですぜ?」
 彼女はちょっとそのことを考えめぐらした。
「でも、あの人たちにそんなふうに思われたら……あたしはあの子が成績表をもってるってことさえ知らなかったのよ。去年の秋にあの子が、今年は成績表なんか使わないことになったって言ったんだものね。それなのに、今になってから、ジャンキン先生があたしを電話で呼びだして、もう一度欠席したら退学しなくちゃならん、なんておっしゃるんだもの。いったいあの子はどんなふうにやってるのかしら? あの子はどこへ出かけるのかしら? おまえは一日じゅう町に出ているんだから、もし町をうろついているのなら、きっとあの子を見かけるはずじゃないの」
「そうですとも」とおれは言う、「もし町をうろついているんならね。あいつがただ人前でできるようなことを何かやらかすためだけに、学校をずるけるなどと、ぼくは思いませんがね」とおれは言う。
「それはどういう意味なの?」と彼女が言う。
「なんの意味もありませんさ」と、おれ。「ぼくはただお母さんの質問に答えただけでさ」すると、彼女はまた泣きだして、自分の血肉を分けたものが立ちあがって自分を呪(のろ)うのだとかなんとかいうゴタクをならべたてた。
「お母さんがぼくにきいたんじゃありませんか」とおれは言う。
「おまえのことを言ってるんじゃないのよ」と彼女は言う、「おまえだけは、あたしの顔に泥をぬらないたった一人の子供なんだものね」
「そうですとも」とおれは言ってやる、「ぼくにはそんな暇は一度もありませんでしたからね。クウェンティンみたいにハーヴァードへいく暇も、お父さんみたいに酒を飲んで墓場に入ってしまう暇も、ついぞなかったし。働かなきゃならなかったんだから。でも、もちろん、もしぼくに、あいつのあとをつけまわして、何をやらかしているか見てほしいとおっしゃるんなら、ぼくは店をやめて、夜働ける仕事をめっけることもできますぜ。そうすりゃ、昼間はぼくがあいつの見張りをして、夜には交替にベンにやらせりゃいいってもんでさね」
「あたしがただおまえには厄介者で、重荷になってるだけだってことは、わかってるのよ」枕(まくら)の上で泣きながら、彼女が言う。
「ぼくにも当然わかってるはずですよ」とおれは言う。「三十年間もそのことをお母さんに聞かされてきたんですからね。ベンにだって、もうわかってるにちがいありませんぜ。さっきのことで、あの娘(こ)に何か言ってほしいんですか?」
「言って何かの役にたつとおまえは思うかい?」と彼女が言う。
「ぼくがちょうどやりはじめたところへ降りてきて、邪魔をしたりなんかしちゃァ、そりゃァだめですよ」とおれは言う。「ぼくにあいつをおさえつけてほしいと思うんなら、はっきりそう言って、お節介をしないでください。いつでもぼくがやりはじめようとすると、お母さんが首をつっこむものだから、あいつはぼくたち二人を笑いものにするんですよ」
「あの娘(こ)がおまえの血肉を分けた娘(こ)だってことを忘れないでね」と彼女が言う。
「忘れませんとも」おれは言う、「まったくそのことを考えているんですからね――肉のことをね。それに、ぼくなりにやらしてもらえれば、ちっとばかりの血のこともね。人間が黒ンぼみたいにふるまうときには、それがだれであれ、するべきことはただ一つ、そいつを黒ンぼなみに扱ってやることですよ」
「あたしはおまえがあの娘(こ)に癇癪(かんしゃく)を起しはしないかと心配してるのよ」と彼女が言う。
「ふん」と、おれ、「お母さんのやり方であんまりうまくいったためしがないじゃありませんか。このことでいったいぼくに何かしてほしいんですか、してほしくないんですか? どっちかはっきり言ってもらいましょうや、ぼくは仕事に出かけなくちゃならんのですからね」
「おまえが一生あたしたちのために奴隷(どれい)みたいに働かなくちゃならないってことはわかっています」彼女は言う。「わかってくれるだろうね、もしあたしの思いどおりにできたら、おまえは自分で自分の事務所をもって、バスコムの人間にふさわしい仕事ができるはずなのよ。だっておまえは、名前こそ違うけれど、バスコムの人なんだものね。あたしにはわかってるのよ、もしおまえのお父さんがあらかじめちゃんと予想して――」
「なァに」とおれは言う、「お父さんだって、ときには推測を誤る権利はもってたでしょうさ、だれとも同じように、いや、スミスとかジョーンズとかいうそこいらの人間と同じようにね」彼女は泣きはじめた。
「おまえが亡(な)くなったお父さんのことをひどく言うのを聞くなんて」と彼女は言う。
「わかった」とおれは言う、「わかりましたよ。お母さんの好きなようになさるがいい。でも、ぼくは事務所なんかもっていないんだから、いまありついている仕事場へ出かけなくちゃなりませんて。あいつに何か言ってほしいんですか?」
「おまえがあの子に癇癪を起しやしないかって、あたしは心配なのよ」と彼女が言う。
「わかりましたよ」と、おれ、「じゃァ、なんにも言わないことにしましょう」
「でも、なんとかしなくちゃならないわ」と、彼女。「あの子が学校をずるけて町をうろつきまわってるのをこのあたしが許しているなんて、あるいはあの子にそれをやめさせる力がこのあたしにないなんて、他人(ひと)に思われたら。……ジェイスン、ジェイスン」と彼女は言う、「どうしてあなたは。どうしてあなたはこんな重荷をあたしに残したりなどなすったの?」
「まあ、まあ」とおれは言う、「自分で病気になってしまいますぜ。あいつを一日じゅう閉じこめておきでもするか、それともすっかりぼくに任せてあいつのことで心配などするのはやめたらどうなんです?」
「あたしの血肉を分けた娘(こ)よ」彼女は泣きながら、言う。そこでおれは、
「わかりましたよ。ぼくがあいつの面倒をみてやりますよ。もう泣くのはおやめなさい」
「癇癪を起さないでね」と彼女が言う。「あの娘(こ)はほんの子供なんだからね、それを忘れないでおくれ」
「ええ」おれは言う、「癇癪なんか起しやしませんよ」おれはドアを閉めて外に出た。
「ジェイスン」と彼女が言う。おれは答えなかった。廊下を歩いていった。「ジェイスン」ドアの向うで彼女が言う。おれはどんどん階段を降りていった。食堂にはだれもいなかったが、そのとき台所であいつの声が聞えた。ディルシーにもう一杯コーヒーを入れさせようとしているところだった。おれはなかに入っていった。
「それはおまえの学校行きの服なんだろうな、ええ?」とおれは言う。「それともひょっとして今日は休日なのかい?」
「ほんの半分でいいのよ、ディルシー」あいつは言う。「お願いだから」
「ンにゃ、だめですだ」とディルシーが言う、「おらァ、入れちゃあげねえだ。まだ十七の娘っこだちゅうに、一杯(いっぺえ)以上はいりやしねえだよ、それにミス・カーラインの言いつけもあるだしな。さあ、さっさと学校へゆく服に着がえてきなせえ、ジェイスンの車に乗って町へいけるように。おめえさまはまた遅刻するつもりでおるだな」
「いいや、そうはさせんさ」とおれは言う。「そういうことはたった今おれと二人で始末をつけるんだから」あいつはコーヒー茶碗を手にもったまま、おれを見た。肩からキモノをずりおちそうにしながら、顔に垂れかかった髪の毛をかきあげる。「その茶碗をおいて、ちょっとこっちへこい」とおれは言う。
「なんのために?」とあいつは言う。
「さあ」おれは言う。「その茶碗を流しに入れて、こっちへくるんだ」
「まあ、いったい何をしようというだね、ジェイスン?」とディルシーが言う。
「おまえは、おばあちゃんやほかのみんなと同じように、このおれまでもなめてかかれるものと思ってるかもしれんが」とおれは言う、「しかし、そううまくはいかんぜ。十秒間余裕を与えてやるから、おれが言ったようにその茶碗をおくがいい」
 あいつはおれを見るのをやめた。ディルシーに目をやると、「今何時、ディルシー?」と言う。「十秒たったら口笛を吹いてちょうだいね。ほんの半分だけでいいんだから。ディルシー、お願い――」
 おれはあいつの腕をつかんだ。茶碗が落ちた。それは床にぶつかってこわれ、あいつはぼくを見ながらぐいと腕をひいたが、おれはその腕を押えた。ディルシーが椅子から立ちあがった。
「これ、ジェイスン」と彼女が言う。
「放してよ」とクウェンティンが言う、「ひっぱたくわよ」「へえ、やる気かい?」おれは言う、「へえ、やる気かい?」あいつはおれをひっぱたこうとした。おれはその手もつかまえて、まるで山猫かなんぞのようにあいつを押えた。「へえ、やる気かい?」とおれは言う。「やろうと思ってんのかい?」
「これ、ジェイスン!」ディルシーが言う。おれはあいつを食堂に引きずりこんだ。キモノの前がはだけて、からだのまわりにひらめいた、すんでのところで裸だ。ディルシーがびっこをひきひきやってきた。おれはふりむきざま足で蹴(け)って、その面前にぴしゃんとドアを閉めた。
「おまえはここへは入ってくるな」とおれは言う。
 クウェンティンはテーブルによりかかって、キモノの前をとめていた。おれはやつを見た。
「ところで」とおれは言う、「おれは知りたいんだがな、おまえは学校をずるけたり、おばあちゃんに嘘(うそ)をついたり、成績表におばあちゃんの筆跡で署名したり、病気になるほどおばあちゃんを心配させたりして、いったいどういうつもりなんだ。ええ、いったいどういうつもりなんだい?」
 あいつは何も言わなかった。キモノをぴったりからだに引きよせて、あごの下までホックをとめながら、おれを見ている。まだおしろいを塗るひまはなかったので、顔はまるで銃を磨く布きれで磨きあげたみたいだ。おれはそばにいって腕首をつかんだ。「どういうつもりなんだい?」おれは言う。
「ふん、あんたの知ったこっちゃないわよ」とあいつは言う。「放してちょうだい」

……
第三部 「一九二八年 四月六日」冒頭

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