「宇宙船ビーグル号の冒険」

A・E・ヴァン・ヴォクト/能島武文訳

ドットブック版 253KB/テキストファイル 224KB

600円

ダーウィンが進化論の仮説を深めるきっかけになった「ビーグル号」による南半球の航海は有名。本書はこの航海にちなむ宇宙航海アドベンチャーで、銀河系のかなたを旅する超光速宇宙船「ビーグル号」の「未知の生き物」との遭遇を描く4編からなる。次元を超越する不気味で不可思議な存在と必死に戦うグローヴナーら科学者たち。

A・E・ヴァン・ヴォクト(1912〜2000)カナダのウィニペグ生まれ。20世紀半ばを代表するSF作家のひとり。39年、「アスタウンディング・サイエンス・フィクション」誌に処女作「黒い破壊者」を発表してSF界にデビュー。「宇宙船ビーグル号の冒険」の巻頭を飾る「キアル」がそれで、以後50年代まで活躍した。代表作「スラン」「イシャーの武器店」「非Aの世界」など冒険的要素の濃い作品が多い。

立ち読みフロア
 キアルは、餌《えさ》をあさって、うろうろと、いつまでもいつまでもさまよいつづけた。墨を流したようにまっ黒な、月もなければ、星さえもほとんどない夜が、しぶしぶと、ひと足ひと足後じさるように消えてゆくと、その後から、無気味に赤味を帯びた暁の光が、キアルの左手の方から、しだいに忍び寄ってきた。夜明けとともにもたらされる暖かさなど感じられない光だった。光は、悪夢にも似た風景を、徐々に浮かびあがらせた。
 鋸《のこぎり》の歯のようにぎざぎざの、黒々とした岩と、同じように黒味を帯びた死そのもののような荒野が、キアルのまわりに浮かびあがった。奇怪な地平線の上に、色あせた赤い太陽が顔をのぞかせた。光が指先でさぐるかのように、物の陰の間にまで射しこんだ。しかし、キアルがもう百日近くも跡を嗅《か》ぎまわってきた原形質《イド》生物の群れの影も形も、どこにもなかった。
 その現実に、身も凍るような悪寒《おかん》をおぼえて、ついにキアルは立ちどまった。大きな前肢《まえあし》が身震いでもするような動作とともにゆがみ、かみそりの刃のように鋭い爪《つめ》の一本一本が、弓なりにむき出しになった。両の肩からはえた太い触手が、ぴんと緊張して波のように揺れた。大きな猫《ねこ》に似た顔を左右にねじ動かすと、キアルは、耳のかわりをしている毛のような巻きひげを、気でも狂ったようにふるわせて、おりおりに吹き起こる微風の一つ一つ、大気の震動の一つ一つを、けんめいにさぐってみた。
 反応はなかった。自分の複雑な神経組織をさっと走るはずのうずきさえも、かれには、いささかも感じられなかった。この荒れはてた惑星の上に、かれのただ一つの餌のもととなるイド生物が、どこかにいると感じさせるような気配はどこにもなかった。がっかりしてキアルはうずくまった。どす暗い赤味を帯びた地平線を背景にして、影絵のように浮かんだ巨大な猫のようなキアルの姿は、あたかも影の世界に住む黒い虎《とら》を、歪んだ筆で描いた銅版画のようだった。このようにかれにがっかり気をおとさせているのは、自分の勘が鈍ってしまったという事実だった。正常な状態なら、何マイルも離れた遠くの細胞原形質《イド》を嗅ぎつけることのできる感覚器官を、かれは持っていた。その自分が、もはや正常ではなくなっているのだと、かれは気がついた。夜通し彷徨《ほうこう》しても相手とぶつかることができなかったということは、肉体の衰えを物語っていた。これが、これまでにもよく聞かされた死病というやつだ。過去百年の間に七回も、かれは、弱りはてて動けなくなった仲間たちに出くわしたものだ。それらの仲間も、飢えのために不死身のはずの体が衰えはて、ただ死期が来るのを待っていた。それらの仲間を見つけたとたん、無我夢中で、かれは、抵抗する気力さえもなくなった仲間たちに襲いかかり、かれらの体を叩きつぶし、消えかかるかれらの生命をつなぎとめていた、わずかばかりのイドをむさぼり食ったのだった。
 それらの味を思い出し、キアルは、強い興奮をおぼえて、ぶるっと全身を震わせた。つづいて、かれは、声を張りあげて吠《ほ》えた。強い戦いを挑むような声が、空気を震わせ、岩にこだまし、こだまはふたたび岩々の間を返って来て、かれの神経に揺り返してきた。生きようとするかれの意志の、本能的な表現だったのだ。
 そのとたん、突然、かれは、全身をこわばらせた。
 遠い地平線のはるか上空に、かれは、一つの小さな白く光る点を見つけた。それは、だんだん近づいて来た。その光の点は、見る見る大きくなり、巨大な金属の球となったと思う間に、やがて、とてつもなく大きな球状の船となった。磨き上げた銀のように光る大きな球状のものは、キアルの頭上を風を切って通過したが、減速していることがはっきりわかった。けれど、右手の黒い丘の上に達すると、一瞬ほとんど動かなくなったと思うと、やがて、下降してその姿は見えなくなった。
 驚いて身動き一つしないでいたキアルは、突然跳ねあがると、虎のようなすばやいスピードで、岩の間を駆け降りた。まん丸な黒い目が、必死の欲望に燃えていた。飢えから精力は衰えていたにもかかわらず、耳の触毛が、電気の震動波を受けたように、イドの存在を知らせてきたのだ。しかも、飢餓の苦痛のために、全身に悪寒をおぼえるほどの、おびただしいイドの群れなのだった。

……「キアル」より


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