「スペイン岬の裸死事件」

エラリー・クイーン/石川年訳

ドットブック版 236KB/テキストファイル 236KB

600円

北大西洋に突き出る小さな岬にある富豪の館。ある夜、そこのテラスでスペイン系の美男の女たらしが殺された。オペラ・マントを着てステッキをもち、椅子に腰掛けた状態で死んでいたが、その下には何も身に着けていなかった! 国名シリーズ掉尾を飾る1冊。

エラリー・クイーン
エラリー・クイーンは、従兄どうしのアメリカ人作家フレデリック・ダネイ(1905〜82)とマンフレッド・B・リー(1905〜71)の共同のペンネーム。二人は同年、ブルックリンに生まれ、典型的なニューヨーカーだった。1929年、クイーン警視の息子エラリー・クイーンが登場する『ローマ劇場毒殺事件』でデビュー、その後、全10巻からなる「国名シリーズ」、『X』『Y』『Z』『最後の悲劇』からなる4部作の「悲劇シリーズ」など、最高の傑作を生み、アメリカ・ミステリー界を代表する作家となった。のちには「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」(EQMM)を創刊し、編集者・アンソロジストとしても活躍した。

立ち読みフロア

まえがき

 スペイン岬は、グレート・ノース・ツー・サウス航空の空路の真下の、大西洋岸にあるから、私は、その場所を、よく知っている。それに、私の貧弱なモーター・ボートの舷から、見飽きるほど見ているし、少なくとも、三度は、空から見下ろしている。
 海から眺めると、その岬はまるで、世界的に有名なアルプス山脈の主峰のひとつの、あの風雪にさらされた巨大な岩塊を削りとってきたようである。側面を手荒く切りとって、脚部を大西洋の大波に浸すために、その山のある場所から、何千マイルも引っぱって来て、海に投げ込んだもののようだ。岬にぐっと近づいてみると――岬の脚部を取り囲んでいる峨々(がが)たる岩塊に近づけるだけ近づくと――岬は、すばらしく巨大な、圧倒的な、難攻不落な花崗岩(かこうがん)の城塞(じょうさい)で、まるで、ジブラルタルのようである。
 海から見るスペイン岬は、荒々しく、身の毛もよだつようなものと、想像していただいてよい。
 しかし空から見ると、ほとんど詩のように美しく、まるでちがう印象を受けられるだろう。目の下はるかに、濃緑色の神秘的な、珍しい形のエメロードが、紺碧(こんぺき)に波立つ木理(もくめ)に埋めこまれているように横たわっているのだ。岬には深い林が茂り、下草が生い茂り、機上からは、岬を覆(おお)いつくす緑の中に、たった三つの空地が浮き上がって見えるだけである。
 そのひとつは、入江の白い小さな砂浜で、砂丘が少し盛り上がっている(けれど、その入江がおちこんでいる周囲の断崖の高さより、はるかに低い)。もうひとつは邸宅(やかた)で、だだっ広く、何か幻想的な恰好(かっこう)の白壁の建物と、広々とした農園があり、中庭と、スペイン風の赤い屋根瓦が見える。醜いわけではないが、空から見ると、アメリカ式の現代建築であるガソリン・スタンドが、その館(やかた)に非常に接近して見えるので、ちょっと目につく調子をつくっている。しかし、そのスタンドは実際には決してスペイン岬にあるのではなくて、ハイウェイの反対側に建っているのである。
 残るひとつの浮き彫りされた空地は、緑一色の岬を斬(き)りさくナイフのような細道で、ハイウェイから、まっすぐなインディアンの矢のように伸びて、岬を本土とつなぐ岩のくびれを通り、岬のまん中を、入江まで切りさいている。その細道は、空から見ると白い。私は、まだ足を踏み入れたことは一度もないが、コンクリートの道だと思っている。夜でも、月光にほの白く光っている。
 この沿岸一帯の物知り人種と同様に、私はこのすばらしい岩層が――それは、もちろん、数百万年に及ぶ、絶え間ない海の侵蝕(しんしょく)作用の結果であるが――ウォルター・ゴッドフリーの所有地だということを知っている。これ以上詳(くわ)しいことを知っている者はほとんどいない、というのも、ゴッドフリーは、常に富豪の特権を使って、世間から身を隠しているからである。
 私は、この劇的な事件が岬をゆすぶり――その持ち主をゆすぶって――彼らの伝統的な孤立状態から押し出すまで――実際に、このゴッドフリーの夏別荘にすぎないスペイン岬を訪問した人物には、だれひとりとして会ったことはない。しかも、その時になっても、この岬への侵入者が、わが友、エラリー・クイーンになるとは、もちろん思いがけなかった――クイーンは、妙な運命につきまとわれているようである。
 運命との闘いの大部分がそうであったように、エラリーは絶えず、兇悪な犯罪に先行されるか、追いかけられている。その結果、われわれの共通の友人がある時、冗談めかして、私に言ったことがある。「エラリーを、一晩泊りか、週末休暇にぼくの家へ誘い出そうとするたびに、かたずをのむよ。エラリーときたら、いつも人殺しを引き寄せる――冗談を許してもらえば――犬がのみをひきつけるみたいにね」
 まさにそのとおりだし、スペイン岬では、実際、その言葉どおりだった。
 裸死事件――エラリーが自らそう呼ぶ――その事件には、人をひきつけずにはおかないような、いらだたしい、まったく不可解なことがたくさんあった。現実生活には、このような特種な犯罪が、このような特別壮大な背景のもとで、おこるということは本当に稀である。人違いの誘拐(ゆうかい)によっておこったジョン・マルコ殺しと、この上なく不気味なマルコの裸の死体は、完全な謎を生んだ。そして、またしても、推理を駆使して成功するクイーン好みのこの事件は、第一級の好読物を、もう一冊つくらしめるに過ぎなかったのだ。
 例によって、私はこの兇悪な過誤(かご)による惨劇のさきぶれをする特権を得たことを心から喜ぶと同時に、わが友の許しを得て、永遠にうち勝ちがたきものと見えたものに対する、彼のすばらしい頭脳的な勝利の道に、花をまくものである。
 J・J・マック
 イサンプトンにて


一章 キャプテン・キッドの大失策

 実際、それはお話しにならない大失策だった。犯罪者というものは、たいてい、せっかちだったり、不注意だったり、頭脳的な近視眼のせいで、まず過(あやま)ちを犯し、それが命とりになるものだ。そして、終いには、せいぜい、鉄格子の中で、自分の過ちを思い起こし、長い年月のわびしい回想にふけるようになるものだ。しかし、これからの話は、特筆すべき失策なのだ。
 キャプテン・キッド〔イギリス海賊船長。十八世紀初頭、死刑になる〕などという大それたあだ名の持ち主は、いろいろ良いところもあったが、どうも、頭脳だけは明晰(めいせき)だとは言えないらしい。信じられないほどの大男だったが、彼に特大の体を与え給うた気まぐれな神も、そのかわりに、脳味噌(のうみそ)のほうを少し減らしておいたようである。キャプテン・キッドがしでかした失策の手始めは、明らかに、彼の知能不足の結果なのだった。
 気の毒なことに、その失策というのは、犯罪的なものだったが、事件に直接責任のある悪漢はもとより、間抜けな大男をあやつった蔭の人物には、なおさら、明らかになんらの痛痒(つうよう)をも与えなかったようだ。あとで明らかになるように、すべての結果が、犠牲者の頭上にふりかかったのである。
 さて、事件が起こったとき、キャプテン・キッドなる間抜けな人物が、どんな風の吹きまわしで、気の毒なデーヴィッド・カマーを犠牲者に選んでしまったのかという点で、(エラリー・クイーン氏も含めて)皆の意見が一致したところは、その解答がヴェールに包まれている宇宙論的な問題の一つだということだった。一同はデーヴィッドの姉のステラが、ヒステリックに泣き悲しむのを、やりきれない気持ちで、じっと聞いて頷(うなず)くより仕方がなかったのだ。「だってデーヴィッドは、いつも、とてもおとなしい子だったのよ。思い出すわ……私たちが子供のころ、町に来たジプシーの女が、デーヴィッドの手相をみたことがあって、そのとき《暗い運勢》があると言ったわ。おお、デーヴィッド」
 ところでこの事件は、あっさりとは話せぬ長い物語であり、エラリー・クイーン氏が、どうしてこれに捲きこまれたかも、これまたこみ入った事情によるのである。実験室で人間心理の珍現象を覗(のぞ)きこむ顕微鏡学者としてのエラリー・クイーン氏も、たしかに、最後には、キャプテン・キッドの奇怪な失策に感謝するようになったのだった。というのも、波瀾万丈(はらんばんじょう)の日々のあとで、解決の曙光(しょこう)がさしてきたとき、この大男の船長の失策が、事件解決にとって、いかに重要だったかということが、実際に、心にしみて、はっきり分かったからである。ある意味では、エラリーの推理の全機構が、それに依存することになった。しかも、最初は、その失策は、ただ紛糾(ふんきゅう)のもとにすぎなかったのだ。
 一方デーヴィッド・カマーの人ごみ嫌いがなかったら、おそらく、その失策は決して起こらなかったろう――デーヴィッドの人ごみ嫌いは、病的なものではなくて、むしろ個人的な嫌悪だった――それにまた、彼の姪(めい)、ローザに対する愛情がなかったら、やはり失策は起こらなかったろう。ところが、この二つはデーヴィッドの特質だった。カマーは人のことはいっさいかまわなかったし、人々のほうでも彼をうるさがらせたり、いら立たせたりはしなかった。しかも、人好きのいい世捨て人として、人々に尊敬され、好かれてさえいた。
 その頃、カマーは三十台も半ばすぎて、背が高く、がっしりして、大柄な男だった。自分の生き方は梃子(てこ)でも変えず、有名な義兄ウォルター・ゴッドフリーと同様に、独立独歩だった。一年のほとんどを、カマーはマレー・ヒルの独身住宅に住み、夏を、スペイン岬で、ゴッドフリー一家と過ごした。辛辣な皮肉屋の義兄は、カマーを岬に惹(ひ)きつけるものは、姉や姪への親近感ではなくて、岬そのもののすばらしい美しさではないかと、しばしば疑っていた――これは、いささか不当な疑いである。しかし、二人には何か共通するところがあった。つまり、二人とも孤独で、もの静かで、自分の生き方を堂々と守っているのだ。
 時々、カマーは長靴ばきで猟に出て、一週間も姿を隠したり、ゴッドフリーの帆船や大型ランチで沿岸を巡航して歩いたりした。スペイン岬の西側にあるナイン・ホールのゴルフ・コースの、起伏のはげしい地勢には、ずっと以前からおなじみだったがほとんどコースに出ることもなく、ゴルフは《老人の遊び》と言っていた。適当な相手となら、テニスを数セットやることもあったが、たいていはひとり遊びのスポーツを楽しんでいた。むろん、独立の収入を持っていた。そして、少し筆の立つほうだったが、主に戸外の題材を書いていた。
 カマーはロマンチックではなかった。そして、人生はかなり厳(きび)しい教訓を与えてくれたと、好んで口にし、現実を固く信じていた。生まれつきの行動人で、常に《事実に直面する》ほうだった。彼の生活は性の問題で乱されることはなかった。姉のステラと、その娘のローザを除いては、女はいっさい問題外だった。ゴッドフリー夫人の仲間うちでは、カマーは二十台の初めに不幸な恋愛事件があったとか言われていたが、ゴッドフリー家のものは決してそれを口にしないし、もちろん、彼も永遠に沈黙を守っていた。
 キャプテン・キッドによって、忘却の彼方(かなた)に追いやられた犠牲者、背が高く、浅黒いスポーツマン、デーヴィッド・カマーは、ざっとそんな男である。
 ローザ・ゴッドフリーは、カマー系で、家系型の黒く長い眉と、がっしりしてまっすぐな鼻を持ち、水平な目と、しなやかで強い体をしていた。並べてみると、ローザと母親のステラは姉妹のように見え、カマーが二人の兄のようだった。ローザは、知的には、叔父と同じように、もの静かで、母のステラのような、神経の鋭さや、社交的な気ぜわしさや、本質的な狭量さは、何も持っていなかった。もちろん、ローザと、背の高い叔父との間には、何もなかった――悪い意味での何事も。二人の愛情は血のつながりを重んじていた。二人とも、それ以外のことを暗示されたら、怒り出すだろう。それに二人の年は二十の上も離れているのだ。しかも、ローザが困難にぶつかったとき、すがりつくのは、母でもないし、また自分ひとりで静かに暮らし、放っておかれるのが何よりも幸せとしている父でもなく、結局、カマーだった。それはローザがまだお下げ髪のころからだった。ウォルター・ゴッドフリー以外の父親だったら、このような父親の感情的特権を横領するカマーに腹を立てただろう。
 だが、ウォルター・ゴッドフリーは、家族にとっては得体のしれぬ人物だった。ちょうど、メーメー鳴く羊どもにとって、彼らの毛を刈って大財産を蓄めこんだウォルターのような人間が、得体の知れぬもののように。

 館は人でいっぱいだった。少なくともカマーにとっては、そう思えた。カマーが土曜日の午後、黙り屋の義兄にこぼしたように、姉のステラが社交的な権力好きなので、つまらん客をかきあつめることになってしまったのだ。

……巻頭より

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