「殺意の運河サンマルタン」

レオ・マレ/長島良三訳

ドットブック版 202KB/テキストファイル 142KB

500円

ファンの黄色い歓声に沸き立つサンマルタンの劇場街、典型的な下町のその裏小路には芸能界の暗部が幅をきかす。私立探偵ビュルマは、プラチナブロンドをなびかせ、細身を黒いスーツに身を包んだ芸能プロダクションの女社長に頼まれ、なにかにおびえる人気アイドル歌手の身辺を洗う。

レオ・マレ(1909〜96)南フランスのモンペリエ生まれ。パリに出てシュールレアリストのグループに参加し、42年、ハードボイルド・ミステリー作家としてデビュー。61編もの長編を書いた。なかでも最も有名なのが「ブラックユーモア大賞」を受けた「新編パリの秘密」というシリーズで、「殺意の運河サンマルタン」「ミラボー橋に消えた男」はどちらもこの中に含まれる。

立ち読みフロア
一 役者登場

 その十月の昼下がり、フィアット・リュクス探偵社(探偵調査、家出人捜索、尾行)の事務所に入ってきた男は、六十に手が届きそう、なんていうもんじゃない。六十になっているどころか、もう、とっくに六十の坂を越しているようだった。中背で、くたびれたトレンチコートの下に、仕立てはいいのだけれど、よれよれで膝の出たグレーの背広を着た男だった。サーベルでばっさり切られたみたいな口は、蝦蟇(ガマ)の口みたいにぐにゃっとしていた。先のとがった黒い靴は、横のほうが所どころひびわれていたけれど、その貧乏たらしい様子は、流行おくれのスパッツで少しは隠されていた。いまどき、スパッツなんていうものにお目にかかれるのは、洋装店の使いばしりの女の子が行き来するような、古い屋敷町にかぎられている。もっとも、使いばしりというのも、パリの街から姿を消しつつある種族だけれど。
 それでも、その男はかなり小ざっぱりした感じの老人、ロマンスグレー気味の爺さんで、きれいに髭(ひげ)をそり、うっすらとパウダーなどはたいていた。きっと、いつもきれいに髭をそっているんだろう。一日に何度も念入りに髭をそっているにちがいない。その平凡な顔には、まるで人工的につけたようなこまかい皺(しわ)が一面により、焼きざましの子牛肉みたいな色の皮膚が、パウダーの下にすけて見えた。長年、しょっちゅうドーランを使っている人に特有の肌の色だ。その男は、本物の使用人ではなさそうだったが、下男の役を演じたらぴったりだったろう。要するに、電信柱みたいに舞台に突っ立っていればいいような役とか、かぼちゃみたいに無表情でもつとまる役なら、なんでも演じられような男だったのだ。ただ、こう髭が濃くては、女形(おやま)は無理だろう。
「お初にお目にかかります」と男はもったいぶった調子で言い、帽子をとり、最敬礼した。おかげで私は、いまだかつて見たこともないほど、見事な、つるつるとした蝿(はえ)の滑走路を拝ませてもらうことができた。男は頭をあげ、私と視線があうと、ずるそうな小さな目で、さぐるように私の目を見つめた。背広とシャツの色にマッチした灰色の瞳だった。
「私はコランと申す者です……」と言って、男はちょっと口をつぐんだ。その苗字が私の頭にちゃんと刻みこまれるよう、わざと間をおいたのだ。コラン? 妙な苗字だが、まあいいだろう。私がとやかく言う筋合いのことではない。戸籍簿には、ずいぶんいろいろな名前がのっていることだろうて。
 男は言葉を続けた。「オーギュスト・コラン、通称ニコルスです。ニコルスのスはS二つ、省略記号はついておりません」
 その朗々と響く荘重な声は、フォームラバーのおっぱいとおなじくらい自然な感じだった。歯抜けの爺さんのくせに、いやに気取って、一字一字区切ってとはいかぬまでも、一言一言区切ってしゃべる。いまの爺さんの口上には、どこにも省略記号などついていなかった。省略記号をつける必要があるときは、どうやってそれを聞き手にわからせるのか知らないが、きっと、この男には独特のこつがあるんだろう。
 私は笑顔を見せて口を開いた。
「失礼ですが、コランさん、ここは芸能プロダクションじゃないんですが……」
「ああ、私の職業がおわかりになったようですね?」と言って、男は胸をそらし、蝶ネクタイの結び目に手をやり、鏡はないか、とあたりを見まわした。「ひょっとすると、私の名前を聞いたことがおありになるのかもしれない……ニコルスですよ!……もしかすると私が『リヨン便り』に出演したのをごらんになったのではありませんか? それとも『二人の孤児』かな?……私は歌も歌っていたのです。ベラールの歌が得意でした……」
 男は私の答えを待たずに、力なく肩をすくめた。
「いや、ごらんになっているはずはない。なにしろ、遠い昔の話ですからねえ!」男は溜息をついた。――
「私は映画しか観(み)ないんですよ」と言ったので、私の株はさがってしまったようだ。男は、軽蔑したように下唇を突きだした。
「映画なんて、こう言ってはなんですが、くだらないものですよ。映画界というのは、真の才能を利用する術(すべ)を知らない、愚か者の寄りあつまりです。なにしろ、この私にちょい役しかくれないのですからね。このニコルスにですよ!……」
 男はそっくりかえり、白くてしみのある手を胸にあてた。
「……この私は……」男はもう一度溜息をつき、そんなことはどうでもいい。と言うかわりに、思い出や未練を払いのけるような仕種(しぐさ)をした。
「……いや……昔の話をするのはやめましょう……」
 ああ、そうしよう! しかし、だからといって、昔のことを忘れるわけにゃいかないんだろう。私は、こういう類のおいぼれ役者をよく知っている。年がら年じゅう、飯の種になるような役はないかときょろきょろしているくせに、いざ役がもらえるとなると、いかにも軽蔑したような顔をして、きまって、その昔、昔も昔、大昔のことだが、へどろが浦海岸のカジノの付属劇場で大あたりをとった話を持ちだすような手合いだ。ちょっと相手にするなら、いい退屈しのぎだが、延々と芝居を見せられたらたまらない。
「昔の話はやめましょう」と往年の名優は重ねて言った。「それに、私がここへ来たのは、仕事の話をするためではありません。いや、まったく仕事と関係ないというわけでもないが……」
 男は舞台装置を眺めるように、部屋のなかをぐるりと見まわした。
「実は、シャトランさんにお目にかかりたいのです。エレーヌ・シャトランさんに」
「ごらんのとおり、今はいませんよ。買物をしに出かけていますが、じきに戻るでしょう。どんな御用件で?」
 男は片手をあげて、「ちょっと個人的な用事がありましてね」と答えた。
 その様子は、大デュマの悲劇「ネール塔」のなかで、地獄の居酒屋の主人オルシーニが「今宵は、ネール塔で乱痴気騒ぎをやるのに、うってつけの晩だ」という有名なせりふを口にするときのように、思い入れたっぷりだった。
「個人的な用です。私は、エレーヌさんの亡くなったお父上の友人なのです」
 男は、それ以上、私に事情を説明する必要はないと言わんばかりに、口をつぐんだ。
「しばらくお待ちになったらいかがです?」と私は提案した。
「いや、結構です」と男は丁重にことわった。「また、のちほどお邪魔しましょう。ちょっと、そこいらへんをひと回りしてきます。天気はいいし、散歩というのは理想的な全身運動ですからね。われわれ俳優は、いつも体調を整えておかなければならんのです。では、これで失礼……」
 男はおごそかに一礼した。帽子に羽根飾りがついていたら、それで床を掃いていただろう、と思われるような馬鹿丁寧なおじぎをして、帽子をまた薬罐(やかん)頭にのせ、ぐるりと回れ右をして出ていった。
 役者は舞台後方から退場した。

 しばらくのち、エレーヌがウィンドーショッピングから戻ってきた。私は老優の訪問の話をして、「フーテンとつきあうことにかけちゃ、おれは人にひけをとらないつもりだが、あんたもさすがにおれの秘書だけあって、ずいぶんいかれた友達がいるようだな」と言ってやった。
「あら! コランさんがここへ来たの?」エレーヌは私の感想を無視して言った。「父の友達だった人なんです。いままでに二度くらいしか会っていないし、最後に会ったのは十年以上も前なのよ。最近、その人が何度も電話をかけてきたものだから、あたし根(こん)負けして、ここで会うって約束したんだけど……」
「それで、さっき留守にしたのかい?」
「ええ。まず、あなたに会っていただきたかったの」
「やっこさんを信用していないんだね?」
「探偵事務所なんかに勤めてるせいで、人を見たら……というくせがついちゃったのね、きっと。それに、いままで、ほとんど会ったことのない人なんですもの。で、やっぱり信用しないほうがよさそうかしら?」
「いや、そうでもない」
「どんな感じの人?」
「そうだな……なにしろ、役者というのはいろんなのがいるから、ああいう連中とつきあうには、清濁(せいだく)あわせ呑む、というくらいの度量が必要だよ。やつらは、いつも食うだけで精一杯だから、きれいごとだけじゃ間にあわないんだろう」
「そう」エレーヌは美しい頭をふりながら言った。「つまり、あなたは、この男に好感をいだいていない、ていうわけね?」
「だからといって、反感をいだいているわけでもない。ただ、世の中には、ちょっと感じのいいやつもいる、っていうことさ」
「そう……」
 エレーヌはハンドバックのなかから大判の黄ばんだ写真を取り出して、私に渡した。
「父の遺品のなかに、こんなものがあったのよ。同一人物かしら?」
 私は写真を取り、芸能人特有の書体で、エレーヌの亡父に対する献呈の辞がしたためてあるブロマイドを眺めた。
「何年か若返らせれば、たしかに同一人物だ。いまじゃ、とてもこんなに魅惑的じゃないし、フランスパンの皮なんかにかぶりついた拍子に、歯とおさらばしてしまったらしいし、頭はユル・ブリンナーそっくりだ。ただし、ユル・ブリンナーほどの名優とは思えないがね」
 私は写真を秘書に返した。エレーヌはそれをまたバッグに突っこみ、じっと考えこむような目つきになった。
「あたしになんの用があるのかしら?」エレーヌは私のほうを見てたずねた。「あの男、なにか言ってなかった?」
 私は、コランがやったように、片手をあげてみせた。
「ただ、個人的な用だ、と言っただけだ。それが幕のおりる前の最後のせりふのようだったので、おれはそれ以上なにもきかずにおいたよ」

……冒頭より


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