「皇帝の密使(上・下)

ジュール・ヴェルヌ/江口清訳

(上)エキスパンドブック 884KB/ドットブック版 198KB//テキストファイル 134KB
(下)エキスパンドブック 1074KB/ドットブック版 189KB//テキストファイル 125KB

各400円

ロシアの東方進出はウズベック族の抵抗を受け、東方の拠点イルクーツクの町が危ない。皇帝は直ちに危難の到来を知らせる親書をもたせて密使ストロゴフを派遣する。単身、身分を隠し、途中で知りあったけなげな娘ナージャをともない、怪しげなジプシーたち、皇帝に恨みをいだくオガリョフの影におびえながら、敵中をいくこと8500キロ……ヴェルヌ得意の地理風俗描写は当時のシベリアを生き生きとよみがえらせる。エキスパンドブック版には20点以上の挿絵を挿入してある。
立ち読みフロア
「陛下、電報でございます」
「どこからだ?」
「トムスクからです」
「トムスクから先は、電線が切られたのか?」
「昨日から切断されました」
「将軍、ひきつづいてトムスクに電報を打って、情報を知らせるようにするように」
「かしこまりました。陛下」と、キソフ将軍は答えた。
 このような会話は、新しい宮殿で催された宴たけなわの午前二時にかわされたのだった。
 夜会のあいだじゅう、プレオブラジェンスキー連隊とポーロースキー連隊の軍楽隊がひっきりなしに、その演奏リストのなかでもっともすぐれた曲であるポルカや、マズルカや、スコットランド舞踏曲や、ワルツを演奏していた。踊る男女のパートナーがこの豪華な宮殿内のサロンのなかに、ぞくぞく集まってきた。この新しい宮殿は、かつて多くの恐ろしい悲劇が行なわれた〈石づくりの旧宮殿〉から数歩のところに建てられてあったので、旧宮殿は今夜、カドリールの主題を大きくこだまして響かせていた。
 宮内大臣はまずそのむずかしい役割を果たすにあたって、多くの人びとの援助を受けていた。大公やその副官や、侍従や近習たちが、ダンスの組み合わせを引き受けていた。ダイヤモンドでおおわれた大公妃たちや、礼装で着飾った皇妃の化粧係りの侍女たちが、〈白い石でつくられた古い大都会〉の文武高官連の夫人たちに、けなげにもお手本を示していたのだった。そこで〈ポロネーズ〉の楽の音(ね)が響きわたり、列をつくった招待客たちが、一種の荘重きわまりない国民的なダンスという重大な要素をもっているこのリズミカルな踊りの輪のなかに加わると、レースでひだどった裾(すそ)の長い衣裳と、勲章で飾られた軍服とが入りみだれて、鏡の照り返しで光が十倍にもなっているその数百にもおよぶシャンデリアのもとで、筆紙にも尽くしがたい光景を呈していたのだった。
 それはまさに、まばゆいばかりだった。
 なかでも、この新しい宮殿にある多くのサロンのうちでもっとも美しい大サロンは、高位高官の貴族や、きらびやかに着飾ったその夫人たちの行列で、まさにその豪華さにふさわしい背景をつくっていた。その大きな円天井は、塗られた黄金が古色蒼然としてすでに光はうすらいでいたものの、まるで星をちりばめたように輝いていた。窓や扉の錦地(にしきじ)のカーテンは、ゆったりしたひだをつくり、あたたかい色調で深紅にもえ映(は)え、そのずっしりした布地の四隅は、色が急にうすらいでいた。
 サロンじゅうにひろがった光は、半円アーチの大きなまるい張り出し窓を通して、外のうすい霧に濾(こ)され、外から見るとまるで火事を反映しているかのように思われ、ずっと数時間にわたってこの光り輝いている夜と、くっきり明暗をきわだたせていた。それゆえこの対照は、ダンスに加わらない客人たちの注意をひいていた。窓辺に身を寄せた彼らは、闇のあちこちに大きな影絵をぼんやりと浮かびださせている鐘楼のいくつかを見たのだった。彫刻のあるバルコニーの下には、たくさんの歩哨が銃を垂直に肩にかついで、もくもくと歩いていたが、その先のとがった彼らの軍帽は上から差してくるあかりをまともに受けて、まるで炎の羽飾りでもつけているかのように光っていた。また、舗石の上を歩く歩哨の足音も聞こえた。それらはおそらく、大広間の嵌木(はめき)の床を踏み鳴らす踊り手たちの足並よりも正確だったであろう。ときどき哨所から哨所へと歩哨の叫び声が伝達され、ときにはラッパの響きが、オーケストラの調べにまじって、その穏やかな調べのなかで、一段と高くひびきわたった。
 はるか下のほうの建物の正面の前には、黒い大きな塊が、新宮殿の窓から投射された大きな円錐形の光のなかに、くっきりと浮かび出ていた。それは川を下っていく船の群れで、川の流れが標識灯のゆらめく光を受けて、テラスの台下をひたしていた。
 この夜会を主催し、その舞踏会の中心人物であり、キソフ将軍がうやうやしく敬意を表したところの人物は、たんに近衛猟騎兵の士官の制服を着ているだけであった。この服装はけっして気どりではなくて、派手な飾りが好きでない人間の習慣でしかなかった。そこで皇帝の服装は、周囲にむらがっているはなばなしい服装と、いい対照をなしていた。皇帝はだいたいいつもこの服装で、コーカサスのきらきらした派手な制服で身を飾った護衛兵のグルジア族や、コサック族や、レスギア族に囲まれていたのである。
 背が高くて、いかにも愛想のよいこの人物は、額をくもらせながらも落ち着きはらった様子を見せて、一つの群れから他の群れへと歩きまわっていた。だが、ほとんど口をきかず、若い連中の陽気な話にも、また高官たちや、彼の側近くにいるヨーロッパの重立った国ぐにを代表している外交官たちの生(き)まじめな話にも、まるで注意を払っていないかのようだった。人相見を職業としていると言っていい洞察力のするどい二、三の見識のある政治家が、皇帝の顔に何か不安の色があるのを見てとった。だがその原因は彼らにはわからなかったし、もちろん誰もそのようなことを皇帝にたずねることはできなかった。いずれにしても、この近衛猟騎兵の士官の服装をした人物の意図するところは、この夜会の空気をなんとしても乱さないことにあったのであって、彼はほとんどすべての人びとから心服されている類(たぐ)い稀(まれ)なる君主として、舞踏会の楽しみは一瞬たりともゆるがせにしてはならぬと考えていた。
 そうしているうちにもキソフ将軍は、トムスクからの電報を受け取った皇帝から引きさがってもよろしいと言われるのをいまかいまかと待ちうけていたのだが、士官服のその人はじっとだまったままだった。彼は電報を手にして、それを読んだが、その額はいよいよくもっていった。その手はひとりでに剣の柄(つか)のほうにのびたが、それは眼の上にもっていかれて、瞬間そこでかざされた。それはあたかも光線がまばゆくて、考えをまとめるために暗闇を求めているとでもいったかのようだった。
「つまり」と、皇帝はキソフ将軍を窓辺に連れていって、やっと言った。「きのうからずっと、弟の大公とは連絡がつかないんだね?」
「連絡がございません、陛下。このようすでは、まもなく電報はシベリアの国境を越せなくなるのではないかと心配でございます」
「しかし、アムール地方とヤクーツク地方の軍隊は、トランスバイカル地方の軍隊同様、ただちにイルクーツクに進撃するようにと命令を受けたのではないか?」
「その命令は、バイカル湖から遠方に送ることができた最後の電報によって与えられたものでございます」
「エニセイスク、オムスク、セミパラチンスク、トボリスクの当局とは、侵入の当初からずっと直接に連絡がとれているのであろうが?」
「はい、陛下。当方の電報は届いております。ただいままでのところ、タタール族〔クリミア、コーカサス、ヴォルガ、シベリアにかけて分布する蒙古系、トルコ系諸民族の総称で、ダッタン族とも呼ばれる〕が、イルトイシ川やオビ川までは進撃していないことは確実でございます」
「ところで、反逆者イヴァン・オガリョフの消息は、何もわからんかね?」
「それが、さっぱりわかりませんでして」と、キソフ将軍は答えた。

……「一 新宮殿における宴会」冒頭

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