「掏りかえられた顔」

E・S・ガードナー/砧一郎訳

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600円

デラとともに船のデッキに立ち、ハワイの灯影に名残りを惜しんでいたメイスンのまえに、思わぬ依頼人が現れる。夫のカール、娘のベルの三人でハワイの休日を楽しんで帰国するところだったニューベリ夫人である。夫人は、突然大金を手に入れたらしい夫を調べてほしいという。帳簿係の職を急にやめ、逃げるように引越し、その後は身分不相応なハワイ旅行。どうやってその金を手に入れたか、夫はけっしてしゃべろうとしないというのである。そのうち、夫人の耳に、夫がやめた会社で使いこみがあり、追及がはじまっているという噂がはいってきた。しかもその朝、荷物のなかに入っていたベルの写真が、彼女そっくりの女優の写真にすりかえられていた。船内の誰かが、ー家の身元を調べている疑いがあった。興味を持ったメイスンは、調査の準備にとりかかった。だがその矢先、嵐の晩に、複雑怪奇な殺人事件が突発した……。シリーズ初期の名作。

アール・スタンリー・ガードナー(米、1889〜1970)鉱山技師の息子に生まれ、正統な教育は受けなかったが、のち法律に志し、21歳で弁護士事務所をカリフォルニアに開いた。22年間の刑事弁護士生活の経験を生かしてペリイ・メイスンものの処女作「ビロードの爪」を発表、見せ場の法廷場面とハードボイルド・タッチで一躍人気作家に。メイスンものだけでも80作にのぼる。レイモンド・バー主演のテレビのメイスン・シリーズは有名。

立ち読みフロア
 ペリイ・メイスンは、手すりにもたれかかっていた。船と岸壁とにはさまれた、インクのように青黒い水のリボンの幅が、だんだんひろがって行った。桟橋にむらがった見物人たちは、手に手に帽子やハンカチーフを振って、わかれを惜しんだ。しゃがれたような汽笛が騒々しく吠え立てた。スクリューが海水をかきまわして、一面に白い泡を立てた。それも、やがて静まった。
 急に黙ってしまった船客たちの耳に、島の女がやわらかな声でうたうアロハ・オエの調べがとどいた。
 メイスンは、街のともし火のきらめきの中に、次第に小さくなって行くアロハの塔をジッと見まもった。陸地のざわめきが、船尾のかなたに遠くなるにつれて、黒々とした山々の静かな影絵が、星空目がけてせり上がって来た。船の横腹をこすって、うしろへ流れる水の音も、きこえるほどになった。
 秘書のデラ・ストリートが、メイスンの力強い指を、手すりにのせた手の甲のほうから、まるごとグッとにぎりしめた。「わたし、決して忘れなくてよ。雄大で、静寂で、厳粛だわ」
 メイスンは、自分のくびにかかった、赤と白と紫のリボンで結ばれたレイ(花輪)をいじりながらうなずいた。
「もっと残りたかった?」
「いいえ――でも、なんだか忘れられないのよ」
「まったく、すばらしい骨休めだったね」メイスンの声には、ジッとしていられない気性が、あらわれていた。「しかし、ぼくは、そろそろひと暴れしてやりたいよ。あそこらには――」と、ワイキキ海岸(ビーチ)の見当に、大きく手を振って見せて――「文明というやつに、喰いものにされはしたものの、まだすっかり亡びてしまっていないものがあるね。みんな親切だし、気候はおだやかであたたかだし、気のつかないうちにドンドン時間が経ってしまう。ぼくは、いま、そんな土地をあとにして、都会の咆哮(ほうこう)のまっただ中にもどって行こうとしているんだ。……ジャンジャンと鳴る電話、ガナリ立てる車の警笛、金属的なひびきのやかましい交通信号器のベル、自分では出まかせをいいながら、ぼくのほうのことは、自分にどこまでも忠実につくしてくれるのが当然と思っている依頼人――ああ、帰り着くのが、待ち切れないよ」
「わかるわ」デラの声には、思いやりがこもっていた。
 機関の振動が大きな船体をビリビリと震わせ、船足は速まった。二人のくびのまわりのレイの花びらを、熱帯の微風がそよがせた。メイスンは、黒い海岸線を縁どる燈火の列を見ていた視線を、船の胴ばらに沿って、うしろに流れる泡立った海水に落した。
 下の甲板から、レイがひとつヒョイととび出し、まっ黒な海面をバックに、あざやかな色彩の輪となって、しばらく宙にたゆたったかと見る間もなく、たちまちバランスを失って、そのまま矢のように、船尾のほうへ落ちて行った。むかしながらのハワイの習慣に従おうとする船客の投げたレイだった。
「あの連中は、新参もの、つまりハワイ語でいえば、マリヒニスだよ」メイスンの口調には、長年、人間の本性を既成事実としてうけ入れることになじんだ人に見られる寛容がうかがわれた。「ああいうレイは、まっ直ぐに港に流れもどってしまうんだ。ダイヤモンド岬(ヘッド)をまわるまで待つのがほんとうだよ」
 二人は手すりに両肘をのせて、下の甲板の手すりにもたれている人たちの頭や肩を見おろした。
「そこんとこに、ゆうべ中華料理店で見かけた二人連れがいるね」
 デラ・ストリートは、メイスンの眼の方向をたどった。「ああ、あの女のひとのほう、わたしと部屋が一緒なのよ。荷物をはこびこんだときに船室にいたわ」
「どういうひと?」
「ベル・ニューベリというのよ。父さんと母さんが、三二一号室にいるわ」
「かれ氏のほうは?」
「ロイ・アンボイ・ハンガフォード……でも、べつに、かれ氏ってわけでもないのよ」
「冗談じゃない……ゆうべあの娘と踊っていたときの眼つきは、ただごとじゃなかったぜ」
「熱帯地方では、男の人が眼にものをいわせるぐらい、びっくりするほどあたり前のことだわ」デラ・ストリートは、声を出して笑った。「ほら、気がついたでしょう? まっ白なシャークスキンのドレスを着て、押しつぶされるほどレイをどっさりかけていた。眼の青い、荼いろの髪をした、背の高い女の子よ――そら、あそこのところに、父さんとならんで立っていた……」
「うん、気がついたよ……で、その女の子が?」
「それが、ハンガフォードとわけのある仲らしいわ。セリンダ・デイルといって、C・ウィットモア・デイルの娘なんだって。その父さんがどんな人なのか知らないけど、お大尽(だいじん)ぶって、A甲板の大きな特別室(スイーツ)を占領してるのよ」
「なるほど」メイスンは、微笑をうかべた。「君も、ずいぶんほうぼう歩きまわったもんだね……どうだい、ぼくたちもレイを投げようか?」
 デラ・ストリートはうなずいた。「わたし、船長晩餐会のときに使うのをひとつだけとっとくわ。部屋の給仕さんに頼んで、冷蔵庫に入れといてもらうの」
 二人はとどこおりなくレイを暗い海に葬る儀式をすませた。メイスンの最後のレイが、くらやみの中に消えて行くと、デラ・ストリートがたずねた。「ねえ、本国のほうでは、誰もが迷信としか思わないこんなことが、どうしてここではいかにももっともらしく思えるのかしら?」
「それだけ大勢の人たちが信じているからだよ。大勢が信じれば、迷信も迷信でなくなって、具体的な精神力をもつようになるんだ。島の信仰に背いて、災難に見舞われた人たちの物語が権威をもって語りつがれていることに注意してごらん。タブーをおかしたらどんな目に会うか、それを身にしみて知っている連中がいく千人となくいるんだ。そんなムチャをやろうものなら、きっとなにかの災いがふりかかって来るということを、ずいぶん大勢の人たちが心から信じこんでいるんだからね」
「催眠術にかかったように?」
「そういっていいかもしれない」
「あら、ベルの父さんと母さんが来るわ。きっと近づきになりたいのよ」
 メイスンがふりかえると、額の高い、灰いろの突きさすような鋭い眼をした、五十五、六の、やせた小がらな男に、眼がとまった。連れの女のほうは、ずっと若く見えた。まだほっそりと優雅な姿態が失われず、足のはこびも大きく軽(かろ)やかだった。女の濃い茶いろの眼が、メイスンの顔を興味をひかれたようにジロジロとさぐり、それからヒョイとデラ・ストリートの顔にうつった。と、軽く会釈(えしゃく)をして、ほほ笑んだ。帽子なしの男のほうは、眼を向けもしなかった。
 メイスンは、二人が通りすぎるのを見まもった。男は、思いをこらしたように、船のかなたのまっ暗な夜のとばりをみつめていた。女のほうは、船客たちをあけすけな眼で値ぶみするようにながめまわしていた。
「今の女の人には会ったことがあるの?」
「あるわ。しばらくだったけど、あの人たち、わたしの船室に来ていたのよ」
 メイスンは、また下の甲板の二人連れを見おろした。
「あんなのを見ると、セリンダ・デイルも大急ぎで自分の立場をはっきりさせたほうがよさそうだね。さもないと、いつの間にかかれ氏を横どりされてしまうよ……はてな、あの女の子、どこで見たんだっけな? どっかでお目にかかったことがあるんだがなあ」
 デラ・ストリートは笑い出した。「ゆうべもそれをおっしゃったわね。そういわれてみると、わたしも前にあの人を見たことがあるような気がしたわ。だから、わたし、さっきそのことを直(じ)かにきいて見たのよ」
「ぼくの事務所に来たことかあるのかな? それとも、ぼくの事件の陪審の中にいたのかな?」
「いいえ。他人のソラ似ってだけのことなのよ。ソラ――」
「わかった。ウィニ・ジョイスだ、映画女優の!」メイスンは、大きな声を出した。
 デラ・ストリートはうなずいた。「もともと似ているところに、ミス・ニューベリったら、髪の形までまねて、ことさらそれを強調しているのよ。身のこなしもちっとは意識して、ウィニ・ジョイスをまねしているようだわ。少しハリウッドにうつつを抜かしているのね」
「うつつを抜かしているのは誰もかれもさ。ハリウッドそのものまでがね」メイスンは、ニヤリとして見せた。
「じゃあ、わたし、給仕さんをさがして、レイを冷蔵庫にいれといてもらうことにするわ……また明日(あした)の朝ね」
 デラ・ストリートは、急ぎ足で立ち去った。残されたメイスンは、手すりぎわに立ったまま、熱帯の生ぬるい夜気のかおりを吸いこみながら、ときをおいてはピカッと光る燈台の閃光をみつめていた。島での最後の一日の活躍や、夜の出帆のゴタゴタや、別離の緊張のためにくたびれはてた船客たちが、めいめいの船室に引っこんでしまったあとの甲板は、ヒッソリと静まりかえり、人かげも見えなかった。
 メイスンは、ふと自分の名を口にした女の声に、クルッと振りかえった。
「ミスタ・メイスン、わたくし、ミセス・ニューベリでございます。娘が秘書のかたとご一緒の船室なので、先生のことはよく存じ上げておりますの。さっきも、ここの手すりによっていらっしゃるのを、通りがかりにお見かけいたしましたわ――わたくし――実は、わたくし、ご相談申し上げたいことがあるんでございますけど」
「仕事のほうのことですか?」
 ミセス・ニューベリはうなずいた。
 メイスンは、冷静な眼で、詮索(せんさく)するように相手を見た。「どんなことです?」
「娘のベルのことなんでございます」
 メイスンは微笑をうかべた。「ミセス・ニューベリ、失礼ですが、勘違いしておいでじゃありませんか? ぼくは、普通の法律業務は扱っていないんです。ぼくの専門は法廷の仕事で、それもほとんどが殺人事件なんですがね。ベルさんがそんな、ぼくのお手つだいしなきゃならんようなことをなすったとおっしゃるのではありますまい」
「どうか、お断りにならないで……」すがりつくような言い方だった。「先生なら、きっと助けていただけるような気がするんでございます。決して、お手間をおとらせするようなことはないと存じますし、ベルにとっては、生活をまるで変えてしまうかもしれないようなことでございますから」

……
冒頭より

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