「相撲の話」

三田村鳶魚著

ドットブック版 1085KB/テキストファイル 126KB

600円

江戸時代を通して、たんなる力自慢の見世物的相撲がだんだんと技を競う相撲に変化し、興行として成り立つまでにいたる紆余曲折を詳しく叙述したもの。幕府の禁制や興行方法の変化、相撲取りの髪型の移り変わりと女相撲の実態、有名な相撲取りの逸話なども加えた「鳶魚江戸ワールド」の一作。

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)(1870〜1952)東京生まれ。本名、玄龍。新聞記者として日清戦争に従軍。寛永寺で得度。明治43年(1910)に『元禄快挙別録』を著して以降、考証にもとづく江戸時代の研究に従事。多くの著作をまとめ、江戸学の祖といわれる。稲垣史生氏も、鳶魚の薫陶をうけた一人である。

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 力の外(ほか)の相撲術

 一体相撲は、相撲の節会(せちえ)などということもあり、大変古い時代からあったので、その古い起源なるものは、とても私どもの調べ及ばぬところにあります。さし当りもっと近いところで、武士の間に相撲がはやりかけたのは、永禄以来のことでありますから、剣術より少し早い、槍術とほぼ時を同じゅうして起ったわけである。それがなかなか長く続きまして、戦国の半ば過ぎから寛永・正保の頃まで、相撲人というと、芸者組(げいものぐみ)として召し抱えられました。元来あれは武芸のわけで、古くから取手というものがあって、取手居合(とりていあい)と一口に申しました。だから相撲を取るというのです。組討ちの練習というようなことから取手は発達したのですが、次いで柔道が行われるようになってから、従来の取手だけでなしに、柔(やわら)の方が入り込んできまして、それが混合して一種のものが出来た。新しい相撲術というのはこれであります。
 諸大名が武芸の達者な者を召し抱える。大名のところにはこういう士(さむらい)が大勢おりますが、すべて家来として統轄しますから、風俗の方は心配がない。一方、戦争はなくなったけれども、強い強いの先生は、大分残っているので、名を弘めるために、町人どもまで相撲を抱える。勧進相撲が公許されてからは、営業的にも相撲を大勢抱えるようになって、町人抱えというものが多くなる。けれども、町人抱えではとても統轄出来ませんから、幕府が法令を出して禁じなければならぬことになったのです。この大名抱え・町人抱えのことは、別にまた申しましょう。
 相撲風俗のことは後へ回して、技術の方から申しますと、相撲人が武芸者として扱われた元禄以前にあっては、無論相撲の術などというものはない。あくまでも体力本位、腕ずくのわけですが、この風は元禄頃まで残っておりまして、米二俵持つのが、相撲取の一番低い資格であったそうです。従って、相撲の勝負でも、身体の大きい、力の強いやつなら必ず勝つ。技術ではないのですから、番狂わせだの、おもしろい勝負だのというものはない。それが、取手、柔(やわら)の手が入るようになってから、小男が大男を取って投げる、投げないまでも、負かすというふうになった。技術でゆくから、案外な勝負が出来るのです。土俵が出来たのは天正以来だといいますが、だんだん技術的になってまいりますと、相撲の勝負もいろいろな形式に現われてくる。いわゆる千変万化で、予想することが出来ない。これは、誰がはじめた、誰がどうしたということでなく、その頃起った柔道の手を取入れた結果でありますが、その中で一番著名なのが、紀州の抱え相撲であった鏡山沖之右衛門(かがみやまおきのえもん)であります。


 立合から一声の手合

 この鏡山は元禄頃の力士で、吉宗将軍のお父さんである光貞時代のお抱えだったらしい。紀州の関口流を習って、それをよく渾和した独特の相撲で、鏡山の相撲術は、当時においても名高いものでありました。紀州一般の相撲も、みな鏡山の流儀になって、紀州相撲というものが尊重されるようになりましたが、丁度その時分、堺に八角楯右衛門(はっかくたてえもん)という力士がありまして、わざわざ紀州まで行って、紀州流の相撲術を学んだ。そうして気の練りということを発明した。気の練りなどというと、何だか禅問答みたいなことになってしまうのですが、この紀州流の相撲は下にいて仕切ります。今の相撲が仕切りの時に手を下におろすのは、紀州流の形であります。この新相撲術に対して、相撲の節会以来の形式を古風とすれば、ここにはじめて新古という名称が出てくる。古い相撲の作法といいますか、取口といいますか、これと新しい相撲の作法ないし取口とが立ち別れることになるのです。
 それでは古い相撲の仕方はどうかといいますと、この方には手合ということがある。この型は今の相撲にも多少残っております。塵手水(ちりちょうず)を使うとか、四股を踏むとかいう、あれがそうです。
 古い手合は三段の手合といって、両手を高く上げて指が頭上にあるのが上段、両手の指が両眼の通りにあるを中段、両手を屈して臂(ひじ)が脾腹の辺にあるを下段、奇相の手合というのは、手を垂れて膝の辺にあるをいう。
 陰陽の手合は、片手を曲げて頭上に、片手を伸べて前へ出す等をいう。それからヤアという大きな声をかけて、相撲を取る勢いを示す。両方それが出合うと、行司が団扇(うちわ)を引いて組合うことになるのです。この時分のは、腰を卸さずに、立ったままで取るので、そこで相撲を立合(たちあい)という。今のはしゃがみ合ですが、そんなところに古風な言葉が残っているのです。
 貞享頃になりますと、こういう手合がやみまして、一声の手合というものが起った。一方がヤアッと声をかけると、相手がオオッと言って立つので、行司はいささかてれるわけです。そこで行司がその声を聞いて団扇を引く、というふうになって、行司の様子も前とは違ってまいりました。この一声の手合は、大体享保頃まで続きまして、やはり下に手をおろすことはなかった。鏡山一流の力士は、手を下へおろしましたが、一般の相撲は、立つか、あるいは中腰になっておった。手を両脇につけて構えるから中腰になるので、立眼相(たちがんぞう)・居眼相(いがんぞう)というような言葉がありました。立眼相はその名の通り立っているので、居眼相は中腰に構えるのです。

 鏡山以来の紀州流

 そういうふうでありましたが、享保には鏡山一流の紀州の御流儀が成熟して、立派に新しい技術を完成しました。相撲の書類というものは、享保期にそっくり出ております。続いて宝暦期にもまた出ましたが、多くは享保期でありまして、元禄期に起った鏡山一流の技術が、享保に至って完成したことがわかるのであります。享保期に出た書物を見ますと、四十八手とか、八十八手とかいうふうに、一々名を挙げて書いてある。万治・寛文の間に出た金平(きんぴら)浄瑠璃には、いろいろ相撲のことがあり、手の名前も出てきますが、どうしても二十以上数えることは出来ません。それが享保期には、四十八手、八十八手、合せて百四十いくつというものが、一々名を挙げてあるのですから、相撲の手もこまかくなったわけであります。
 紀州流の流行によって、一声の手合が破れる。一声の手合が破れなければ、相撲全体が下にいて仕切るようになりませんし、紀州流が徹底したともいえない。この一声の手合が破れたのはいつ頃かと言いますと、前に鏡山のところへ修行に行った八角楯右衛門、※(び)之助(※は格の「口」に代えて「田」)ともいったようですが、これが谷風市郎右衛門を破った時の話です。いくら谷風がヤアッと言って立っても、八角は「待った」と言う。「待ったの八角」と言われたくらいで、「待った」をはじめたのは八角だ、ということになっておりますが、何遍声をかけても、「待った」でやり直す。だから一声の立合が成り立たない。
 この八角については、随分悪口を書いたものがありますが、自分はかなり年を取っているし、谷風は盛りの時分ですから、正面から抵抗は出来ない。それを上方の金持手合が連合して、是非八角に勝てと言う。八角が言うには、私は弱いから、とても谷風の敵でない、これこそ相撲の術でゆくより仕方がない、ということで、しばしば土俵に上ると「待った」ばかりしている。幾度も幾度も仕切直しをしているうちに、片方は度々立つからくたびれるけれども、こちらは立つ気でなしに相手をしているのだから、一向くたびれない。さすがの谷風も気疲れがして、ひょろひょろになってきた。ここが気の練りということのつかまえどころで、一方は次第に気が餒(う)えてしまう。ついに谷風がせき込んで、ヤアッと声をかけたのを、諸声(もろごえ)で立つが早いか、直ぐ捻(ひね)って倒した。さあ割れッ返るような騒ぎです。誰も勝てない谷風が、しかも老い込みかけている八角に負けてしまった。これは穢(きたな)い相撲の行止りですが、それがために、後には化粧立ちをするようになった。立つ気もないのに、ヤアッという声だけかける。穢い上塗りのようだけれども、それは一声の立合が破れた結果として起ったのです。

……「相撲の話」より


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