「疑惑・アリババの呪文」

ドロシー・セイヤーズ/河野一郎訳

ドットブック版 81KB/テキストファイル 47KB

300円

セイヤーズの作風を知る好個の短編2つ。「疑惑」は、妻に毒を盛られているのではないかという夫の疑惑をテーマに、ぞっとする結末の鮮やかなクライム・ストーリーの傑作。「アリババの呪文」はピーター・ウィムジー卿ものの短編。卿が盗賊一味にくわわり、一杯食わせるという趣向のもので、「開け、ゴマ!」の呪文に声紋判定の設定がみられるのが面白い。

ドロシー・セイヤーズ(1893〜1957)英国を代表する女流ミステリ作家で、黄金時代にはクリスティと人気を二分した。東部イングランドの沼沢地で育ち、オックスフォード大学では中世文学を専攻した。卒業後の数年間はロンドンの広告会社でコピーライターをしていたが、23年に「ピーター卿乗り出す」でミステリ作家としてデビュー。以後、この処女作に登場するピーター・ウィムジー卿を主人公にして、ほとんどの長篇と短篇を書いた。代表作「ナイン・テイラーズ」「毒」「死体を探せ」「大学祭の夜」など。しかし1940年にはミステリから手を引き、ダンテの「神曲」の翻訳に従事したが、「地獄編」「煉獄編」と完成し、「天国編」を途中まで完成した時点で心臓麻痺で死亡した。きわめて優れた、ミステリのアンソロジー編者としても知られている。

立ち読みフロア

 列車内の空気が煙草のけむりに濁ってくるにつれ、ママリー氏は食べてきた朝食が、どうも胃にもたれているのに気づき始めた。
 別に悪いものを食べた覚えはない。モーニング・スター紙の健康欄ですすめている、ビタミンたっぷりという黒パンに、おいしくカリカリに揚げたベーコンと、ほどよい固さの半熟卵、それに、サットンさんならではの、うまくいれたコーヒー――とそれだけだ。それにしてもあのサットンさんという家政婦は、まったくの見つけものだった。ありがたいことだ。妻のエセルは、この夏神経衰弱にかかってからというもの、来たと思うとすぐに暇をとってゆく不慣れな若い女中に、がまんしきれなくなっていた。かわいそうに、近ごろではちょっとしたことでも身体にさわるらしい。次第につのってくる胸のむかつきをなんとか忘れようとしながら、ママリー氏はせめて自分だけは、病気になりたくないと考えていた。病気にでもなれば、事務所の方が困るのはともかく、エセルがひどく心配するだろう。ママリー氏としては、妻のエセルに心配をかけるくらいなら、自分の大して面白くもない人生など、喜んで捨ててしまってもいい気持だった。
 ママリー氏は消化剤を一錠口に入れ――このところ、いつも二、三錠を持ち歩くことにしていたのだ――そして新聞をひろげた。別に大したニュースもなさそうだった。下院で、政府の使うタイプライターについての質問があった……皇太子殿下、にこやかに全英履物《はきもの》展示会のテープを切らる……自由党さらに分裂の危機……警察では、リンカーンの一家毒殺事件容疑者を依然捜査中……工場焼失、少女二名焼死……銀幕スター、四度目の離婚、か。
 パラゴン駅でママリー氏は列車を降り、市電に乗りかえた。胸のむかつきは、はっきりした吐き気にかわってきかけていた。しかしさいわい、どうにも我慢のできなくなる前に、事務所にたどりつくことができた。顔は青ざめていたが、落ち着きを取り戻してデスクの前に坐ると、同僚のブルックスが元気よくはいってきた。
「やあ、お早う、ママリー君」と例によって大きな声で言ったあと、「どうだい、この寒いこと」とつけ加えた。
「まったくだね。こう冷えこむとやりきれんよ、実際」とママリー氏は答えた。
「べらぼうな寒さだ。きみんとこの球根は、もうすっかり植え終ったかい?」
「それがまだなんだ」とママリー氏。「実はこのところどうも――」
「いかんね。そいつはいかん。早い目に植えんといかんよ。ぼくんとこは、先週植えちまったぜ。これでうちのささやかな庭も、春には絵のような花園だ。ま、町なかの庭としては、の話だが。きみんとこみたいに、郊外に住んでる連中にはかなわんよ。やはり、こういう町ん中よりは住みいいだろうな、え? まあここでも、通りのはずれまで出りゃ、いい空気が吸えるがね。ところで、奥さんの工合はどうだい?」
「ありがとう、だいぶいいようだ」
「そりゃよかった、そりゃいい。ひとつこの冬には、また元気になってもらいたいもんだな。なにしろ奥さんが欠けちゃ、演劇協会はにっちもさっちも行かないんだ。まったくなあ、去年『ロマンス』で見せた奥さんの名演技が忘れられんよ。奥さんとウェルベックの伜とで、すっかり満場をわかしたからな。そう言えば、ついきのうも、ウェルベックが奥さんの容態を心配してたぜ」
「うん、ありがとう。いずれもうじき、またお仲間入りできるようになるだろう。ただ医者から、やりすぎちゃいかんと言われてるんだ。くよくよ心配がいかん、てね――心配事が一番いかんらしい。のんびりやってりゃいいんだが、飛びまわったり、仕事をやりすぎたりはいかんということだ」
「ごもっとも、ごもっとも。気苦労は一番身体に毒だからな。ぼくはもうだいぶ昔から、気苦労は一切せんことにしてるんだが、その結果、見てくれよ! もう五十の坂はとうに越えてるというのに、この通りぴんしゃんしてるだろう。ところで、そういうきみ自身、顔色がすぐれんじゃないか」
「消化不良の気味でね。大したことはないんだ。肝臓でもちっとやられたんだろう、きっと」
「そうだろう、そりゃきっと肝臓だ」ブルックス氏は、しゃれをとばす好機とばかり口を挟んだ。「人生万事、肝っ玉次第ってね。ハッハッハ! さあて、さてさてと――ちょっくら仕事とするかな。例のフェラビーの借地契約書はどこだったかね?」
 あまりお喋りをつづける気分になれなかったママリー氏は、ほっとしたような気持で仕事にとりかかり、それから三十分ばかりは、不動産業者としての事務を黙々とつづけた。しかしそのうち、またブルックス氏が話しかけてきた――
「ところで、きみんとこの奥さん、誰かいい料理女を知らんだろうかね?」
「うん、知らんだろうな。近ごろは、めったなことじゃ見つからんからな。実のところ、うちでもやっと最近、気に入ったのを見つけたばかりなんだ。どうしたんだい? まさか、昔からきみんとこにいる料理女が、暇をとるというんじゃないだろう?」
「まさかね!」ブルックス氏は朗らかに笑いとばした。「ああなったら主《ぬし》みたいなもんで、地震でも起こらんかぎり離れやせんよ。うちのじゃないんだ。フィリップソンのところで欲しがってるんだ。今いる女中が嫁に行くとかで。それが困るんだよ、若いのは。ぼくはフィリップソンに言ってやった――『気をつけてくれよ、よく身元のわかってるのを雇わんと、そのうち例の毒殺魔を背負いこんじまうぜ――それ、アンドルーズとかいう。まだもうしばらくは、きみの葬式に花輪を届けたくないからな』ってね。奴さん笑っとったが、こりゃ笑いごとじゃないんで、はっきりそう言ってやった。まったくね、なんのために税金を払って警察を作ってあるのかわからんよ。もうまるひと月になろうってのに、まだ掴まらんらしい。そして言うことがいいじゃないか、まだこの近辺をうろついていて、『料理女として住みこむおそれもある』ってんだからね。料理女としてというんだからな! ええ、まったく、冗談じゃないよ!」
「じゃきみは、あの女が自殺したとは思わないんだね?」
「自殺だ? ご冗談でしょ!」ブルックス氏は声を荒らげてやり返した。「そんな馬鹿な話を信じちゃだめだよ、きみ。川の中から発見されたという例の上衣は、ありゃまったくのごまかしさ。やつらが自殺なんかするもんかい、ああいう連中が」
「ああいう連中というと?」
「ああいう砒素きちがいさ。やつらは自分の身を守ることにかけちゃ、大変なものなんだ。まあ言えば、いたちみたいにこすいとでも言うかな。願わくば、次の犠牲者に手を伸ばす前に、なんとか警察であげてくれることだ。フィリップソンにも言ったんだが――」
「じゃきみは、やはりアンドルーズって女の仕業《しわざ》だと思うんだね?」
「当り前さ。もちろんあの女の仕業さ。きみの顔に鼻がくっついてるくらい確かなことだ。最初、年とった自分の父親の看病をしてたところが、老父はぽっくり死んで――ちょっとした財産を残した、というんだろう。そのあと、老紳士のところへ家政婦としてはいりこむと、その紳士もまたぽっくり逝《い》っちまった。お次が今度の夫婦者だ――砒素中毒で亭主は死に、細君の方は重態だという。そして、その家の料理女が姿を消している。それなのにまだきみは、あの女がやったのかと聞くのかい? 賭けたっていいぜ、その死んだ親父と老紳士を掘り出して調べてみりゃ、きっと口までたっぷり砒素がつまってるだろう。ああいう毒殺魔は、一度やり出すと、やめられなくなっちまうんだ。油をそそがれる、とでも言うんかな」
「かも知れんね」ママリー氏はもう一度新聞を取り上げ、失踪中の女の写真をとっくりと眺めた。「虫も殺さんような顔だがね。気のいい、母親らしいタイプの女じゃないか」
「いや、口元がいかん」とブルックス氏。人間の性格は口元に現われるというのが彼の持論なのだ。「こういう女は絶対信用できんよ」

……「疑惑」冒頭より

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