「剣の八」

ジョン・ディクスン・カー/妹尾韶夫訳

ドットブック版 415KB/テキストファイル 160KB

600円

謎の訪問者の来た夜は、あらしが吹き荒れていた。折からの停電で屋敷の中は蝋燭の光しかなく、一瞬、屋敷に落雷したかと思うほど凄まじい轟音がとどろいた。翌朝、書斎のドアから洩れる電燈の光に、不審に思った下男が窓からのぞいてみると、主人は、頭部をピストルで射抜かれて死んでいた。兇器はみあたらず、死体のそばには、一枚のカードが落ちていた。トランプに似た、八つの剣が星型に組み合わさった、死のカードだ! ギデオン・フェル教授は、殺人鬼が、まもなく次の犠牲者をねらうことを予感した……。

ジョン・ディクスン・カー(1906〜77) 米国生まれだが英国に長く住んだ。一九三十年代に「密室トリック」「不可能犯罪」ものの第一人者となり、その後は怪奇性を強調した作風の多数の作品を残した。他の代表作に「皇帝のかぎ煙草入れ」「帽子蒐集狂事件」「三つの棺」など。

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第一章 主教の奇行

 その朝、警視庁に顔をだした捜査課長のハドリーは、すばらしく上機嫌だった。それは、ひとつには、はげしい八月の酷暑が昨夜からやわらいだせいでもあった。二週間もまぶしいばかりに照りつづけて、舗道がひんまがるほど暑かったのが、昨夜、大雨がふりだしたのである。東クロイドンの自宅で暑さにあえぎながら、苦心惨憺(さんたん)、犯罪捜査の思い出を書いていた彼は、なんどもその原稿が、うぬぼれや手柄話の羅列にならねばいいがと、みずからいましめた。それが雨になったのでいくらか落着きをとりもどし、物事を正しく判断することができるようになった。
 こんど警視庁に改革がおこなわれることになったが、そんなことはすこしも心配することはないと思った。どうせ一と月たったら、自分は永久に警視庁をやめるのだ。それは一応失職ともいえようが、しかしほんとの失職ではない。彼はなにもしないではいられないたちだし、それに彼の妻だって、まだ社会的な野心をもっている。一と月たてば、原稿をスタンディッシュ・バーク出版社に渡す手はずになっているのである。
 雨のためにほっとした気分になった彼は、いつもの敏感な観察力で、その雨が十一時に降りはじめたことを知った。そして、安らかな気分で寝床にはいった。
 あくる朝は涼しいとはいえなかったが、それでもむし暑いほどではなかった。警視庁に出勤する頃の彼は、すべてのことにたいして、まず大抵なら、先方の出方にまかすといったような、イギリス人らしい明るい大らかな気持になっていた。
 デスクの上にあるものを見ると、彼は驚いたように舌打ちをした。それから慌てて受話器をとって、副総監をよびだした。
「わかっています、ハドリー君」副総監の声だった。「警視庁では取り扱う問題でないことは私も知っているんだが、君になにか妙案があるかもしれないと思ってね。私はどうしていいかわからん。ただスタンディッシュがうるさく言うので――」
「いや、私が知りたいのは、どこに問題があるかということなんですよ。デスクの上に書類がきていたので、今ちょっと目を通したのですが、なんだか主教だの音霊(ポルターガイスト)だのと書いてあって、ちっとも要領を得ないのですが――」
 副総監は当惑げにうなったあとで、
「私にもじつはよくわからんのだが、マプラムの主教さんのことらしいんですよ。偉い人なんです。それがグロスター州のスタンディッシュ大佐の別荘に滞在中、防犯運動で働きすぎたためか、気が変になったらしいのです」
「気が変になったというのは?」
「スタンディッシュは、気が変になったと見ているわけなんだ。なんでも、その主教は、階段をおりるのに手摺を滑りおりたというんですからね」
「へえ、手摺を!」くすくす笑った。
 副総監は話をつづけた。
「私はじっさいに見たんでないから、なんだかよくわからない。しかし、スタンディッシュは、主教さんが気が狂ったと言っている。しかも、それが音霊(ポルターガイスト)の騒ぎがあった日の翌日のことなので――」
 ハドリーは額の汗をふき、むつかしい顔で受話器をにらんだ。
「はじめから話してくださいませんか。坊さんが階段をすべりおりようがどうしようが、そんなことは、警視庁となんの関係もないように思うのですが」
「とにかく、坊さんから直接聞いてみてください。これから坊さんを君のほうへ行かせますから。――ざっと話すところなんですよ。田舎にあるスタンディッシュの家のある一部屋は、音霊(ポルターガイスト)に憑かれていると評判なんです。百科辞典を調べてみると、音霊(ポルターガイスト)というのはドイツ語で、皿や茶碗を投げて大きな音をさせたり、椅子を躍り上がらせたりする幽霊のようなものらしいんです。わかりますか?」
「へえ! そうですか。わかりました」
「もう何年も音霊(ポルターガイスト)はその家にあらわれなかったんだが、昨夜、近くの教区の牧師が、その家の晩餐に招かれてきて――」
「主教さんとはべつの牧師なんですな。そしたら、どうしたんです?」
「その牧師が、晩餐の後、自分のうちへ帰ろうとしたら、バスがなかったんですよ。ちょうどその日はスタンディッシュ家の運転手も休暇でいなかった。それで、みんなですすめて、その牧師をスタンディッシュの家に泊まらせたんですよ。しかも泊めた部屋が、音霊(ポルターガイスト)が出るという部屋だった。しばらく出なかったもんだから、みんな音霊(ポルターガイスト)のことなぞは、忘れていたわけなんです。
 ところが、夜中の一時頃になって、そいつが活動を開始しだした。化け物が部屋に入ってきて鍵をかけてあった二つばかりの額縁をたたき落とし、その牧師がいっしょうけんめいに祈っていたら、テーブルの上に置いてあったインキ壷が飛んできて、目に当たったというんです。牧師は痛かったので、家じゅうに響くような悲鳴をあげた。その声を聞いて、みんなが部屋にはいってきたんですよ。いちばんに駈けつけたのは、銃をもったスタンディッシュだった。インキ壷には赤インキが入っていたので、最初はみんな殺人でも行われたのかと思った。そして、みんなでガヤガヤ騒ぎながら窓から外を覗いてみたら、屋根の上にナイトガウンを着た男が立っているのが見えたと言うんです――」
「だれです?」
「主教さんです。主教さんが、ナイトガウンを着て屋根の上に立っていた。それが、月の光でよく見えたと言うのです」
 ハドリーはさりげない声で、
「そうですか。屋根の上でなにをしていたんでしょう?」
「主教さんは、怪しい人影がゼラニュームの花壇を逃げるのが屋根から見えたと言うんです」
 後ろにもたれて、ハドリーは電話機をみつめた。どうもベルチスターという人は、警視庁の副総監として、適任でないように思われる。仕事のできない人ではないが、どうかすると軽々しく物事を判断したり。話をする時だって、まわりくどく話す癖がある。ハドリーは咳ばらいをして、しばらく黙って相手の言葉を待っていたが、
「あなた、冗談をいってらっしゃるんじゃないでしょうね?」と念をおした。
「冗談じゃないよ。そんなことをいってもらっちゃ困る。君は知らんかもしらんが、もともとマプラムの主教さんは犯罪に興味をもっていて、私はよく知らんが、ずっと前からあんなことを研究しているんだよ。そんなことを書いた本も出していると聞いた。その主教さんが、ゼラニュームの畑で怪しい男を見たと言うんだから、間違いないだろう。なんでもその男は、いまデッピングという学者の住んでいるスタンディッシュ家の別館のほうへ歩いていったそうです」
「怪しい男というのは、どんな男です?」
「名前は聞かなかったが、主教さんは有名な犯罪者だといっている。主教さんは音霊(ポルターガイスト)の騒ぐ物音に目をさまして、窓から外をのぞいてみたら、月の光で、芝生の上を歩く人の姿が、はっきり見えたと言うんです。それで、窓から屋根へ這いだした――」
「どうして屋根へ這いだしたんです?」
「そりゃわからん」副総監のベルチスターは、にべもなく答えた。「とにかく、屋根へ出たんです。悪漢はすぐ見えなくなったが、主教さんはその悪漢がなにか悪い目的でやってきたものとみている。主教さんはなかなか強情な人でね、嫌がるスタンディッシュを説きふせて、無理に警視庁に電話をかけさせたらしい。ところが、スタンディッシュのほうじゃ、主教さんがどうかしていると思っている。なにしろ、その主教さんは女中さんを襲ったりしたのでね――」
「え?」思わずハドリーは大声で聞きかえした。
「スタンディッシュも見ていたし、下男やスタンディッシュの息子も見ていたんだから、間違いはあるまい」
 副総監ベルチスターは、一人で面白がっているらしい。副総監は気楽に腰かけて、電話で長話をするのが好きなたちの人らしいが、ハドリーはそれと反対に、いつも電話をもどかしがり、面とむかって話をしたがる人だった。でも、副総監は、容易に彼を電話口から離さなかった。
「こうなんですよ。その別館に住んでいるデッピングというお爺さんには、娘か姪か知らんが、いまフランスにいる身内があるんですよ。それから、スタンディッシュにも息子がある。そこで、わかるでしょう? 二人が結ばれる可能性があることが。
 最近、飛行機でパリへ飛んでいったその息子は、一人で勝手にその女と婚約してしまった。そして、図書室にいるスタンディッシュのところへ行って、どうかこの結婚を許してくれ、マプラムの主教の手で結婚したい、結婚式には女の頭にオレンジの花を飾りたい、などと言っている最中、女の悲鳴がきこえた。そこで、みんなが悲鳴のした部屋に駈けつけてみると、なんと、シルクハットにスパッツといういでたちの主教さんが、テーブルごしに女中をつかまえている――」
「しっ!」思わずハドリーは、相手を警戒させるようにいった。謹厳(きんげん)な生活をしている彼は、こんな電話をほかの者に聞かせたくなかった。
 副総監はなだめるような調子で、
「いや、なんでもない。ちょっと変てこな話というだけのことなんです。主教ともあろうものが、女の頭の髪をつかんで引っぱっていたというんだから、変てこでしょう。すくなくとも、スタンディッシュはひどく興奮して私にそう言った。私は、ことによると主教さんは女中がカツラでもかぶっていると見たのじゃないかと思う。まあ、そんなわけで、スタンディッシュが主教さんの希望で、私のところに電話をかけてきたんですよ。そして、これから主教さんみずから警視庁へ行くから、誰か会って話を聞いてやってくれと言うんです」
「主教さんがここへくるんですか?」
「そう。来たら君、面倒でもちょっと会ってやってくれませんか。会ってやったら、主教さんも気がすむだろう。スタンディッシュがそう言うんだから会ってやってください。主教さんの言うことを、善意に解しながら聞いてあげるだけなら、ちっとも差し支えないことだ。話はちがうけれどハドリー君、いま君が書いている刑事の思い出を書いた本は、たしかスタンディッシュが出資している本屋で出版するんでしょう?」
 ハドリーは、受話器をいじりながら考えていたが、
「さあ、よく知りませんよ。私が会ったのは、バークという人なんですけれど――」
「なに、そんなことはどうだっていいんです。とにかく来たら会ってやってください。さようなら」
 電話がきれた。ハドリーは腕をくみ、むつかしい顔で考えながら、二、三度「音霊(ポルターガイスト)!」とつぶやいた。そして、階段の手摺をすべりおりたり、女中の髪を引っぱったり、牧師の顔にインキ壷をぶっつけたりする馬鹿げた主教のたわごとに耳をかさねばならぬ捜査課長の役柄を、なさけなく思った。

……「冒頭」より


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