「茶の本」

岡倉天心著/ソーントン不破直子訳

エキスパンドブック 426KB/テキストファイル 71KB

400円

岡倉天心は明治の美術批評家。日本美術学校(今の東京芸術大学)を創立して初代の校長になった。のちには横山大観らと日本美術院を設立して、日本美術の発展と海外への紹介に力をつくした。そうしたなかで彼が英文で書き、アメリカの出版社から出した日本美術論、東洋美術論がこの「茶の本」であり、芸術に取り組もうとする真摯な気迫が行間から伝わってきます。訳文はあくまでも「わかりやすさ」を念頭に周到になされた苦心の翻訳です。
立ち読みフロア
 世に傑作と呼ばれるものは、私たちの裡(うち)にある最も妙なる心の琴線に合わせて奏でられた交響楽なのであります。真の芸術は伯牙(はくが)であり、私たちは竜門の琴であるといえます(伯牙は中国の琴の名人、誰の手にもおえなかった竜門の琴をみごとに鳴らして見せた)。美の魔法の指先が触れると、私たちの心中に睡っていた絃が呼び醒まされ、それに応えて、私たちの総身(そうみ)が鳴動し、打ち震えます。心から心へ語りかけられるのです。この時、私たちは声なきものに耳を傾け、姿なきものを見るのです。
 つまり名人は、私たちの意識にない調べを呼び醒ましてくれるのです。長い間忘れていた追憶が、ことごとく新らたな意味を帯びて、私たちのもとに還ってくるのです。恐怖にいじけた希望が、ずっと忘れていた憧憬が、新しい輝きに包まれて前面に現われてくるのです。
 私たちの心は、画家が色彩を置くカンバス……私たちの情感が絵の具なら、明暗は喜びの明るさ、悲しみの暗さとなりましょう。こうして、傑作が私たちに命を与えてくれると同様に、私たち自身傑作の源となっているのです。

 芸術鑑賞に欠くことのできない心と心の通い合いは、互いに譲り合う精神にもとづいております。芸術家は、己れの言わんとするところを伝える術を知っていなければなりませんが、観る者の側では、それを受けとるにふさわしい態度を養っておかねばなりません。
 宗匠小堀遠州(こぼりえんしゅう)は、自身大名でありながら、次のような忘れがたい言葉を残しております……「偉大な絵画に接すること、王侯に接するごとくせよ」傑作を理解するには、その前に身を低くし、息を殺して、その語るところを細大もらさず聴きとろうと待ち構えていなくてはなりません。宋代のある有名な批評家は、こんな興味あることを告白しております。いわく「若い頃の私は、私の好きな絵を描いた名人を賞賛していた。しかし、鑑賞力が円熟してくるにしたがって、私が好むようにと名人が描いてくれたその作品を好むことのできる自分自身を賞賛した」
 このごろでは、名人の気持を、苦労して徹底的に研究しようとする者が大変少なくなってしまいました。無智を頑固におし通してしまう、これは、悲しいことです。研究してみようという、この単純きわまりない名人に対する礼儀を守らないのです。ですから、すぐ眼前にならんでいる豊かな美の饗応さえも、しばしば見落してしまうのです。名人は、いつも何か美味(うま)いものをご馳走してあげようとしております。ところが、私たちの方で味わう力がないために、いつも空腹をかこっているのです。

傑作と心が通いあうと、あたかもその作品がその場に生きていて、友だちになってしまったような気がするものです。彼らが創りだした愛も恐怖も、私たちの中によみがえり生き続けるのですから、名人は不老不死である、といえましょう。私たちの心に訴えるものは、手よりも魂……技術よりもその人そのものなのです。その呼びかける声が人間的であればあるほど、私たちの答える声も感深いものになります。
……《芸術の鑑賞》より


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