「誘惑」

サマセット・モーム/厨川圭子訳

ドットブック 294KB/テキストファイル 84KB

300円

「読ませる小説」の技術と良心をもち、人間の魂を描きつづけたイギリス文学の巨匠の短編集。「昼食」「蟻とコオロギ」「約束」「ルイーズ」「物知りさん」「察しの悪い女」の6短編と、モームの短編のなかでは最も長いものの一つ「誘惑」を収めた。

サマセット・モーム(1874〜1965) 二十世紀のイギリスを代表する作家。複雑な人間の心理に鋭いメスを加え、読者のつきせぬ興味をかきたてる精緻をきわめた描写で知られる。代表作 「人間の絆」「お菓子とビール」「剃刀の刃」のほか、数多くの多彩な短編の書き手としても有名。

立ち読みフロア
 劇場で彼女の姿を見かけ、手招(てまね)きされたので、休憩時間に出向いて行って、隣に腰をかけた。この前別れて以来、長いこと会っていない。もし傍(はた)の人から彼女の名前を教えてもらわなかったら、誰だかとうてい見分けがつかなかっただろう。彼女はいきいきとした口調で私に話しかけた。
「はじめてお会いした時から、もうずいぶんになりますわね。ほんとうに、月日の経つのは早いものですこと! お互いさま年と共に若くはなってゆきませんわね。はじめてお目にかかった時のこと、覚えていらっしゃいます? お昼食(ひる)を御馳走になりましたわ」
 覚えているかだって?
 二十年前のことだった。その頃、私はパリのラテン地区の、墓地を見晴らす小さなアパートに住んでいた。わずかの収入で、かろうじて露命をつないでいる有様だった。彼女は私の作品の一つを読んで、手紙にそのことを書いてよこした。私はお礼の返事を送った。と、間もなく、また彼女から手紙が来て、旅の途中、パリを通るから、お話がしたいと言ってきた。ただし、時間が限られていて、あいているのは次の木曜日だけです、午前中リュクサンブール公園へ行きますから、もしよろしかったら、その後で、フォワイヨの店で軽いお昼食(ひる)を御馳走していただけましょうか、というのだ。フォワイヨの店というのは、フランスの上院議員連のよく行く店で、とうてい私のごとき貧乏者には手も出せない。一度入ってみてやろうかなどと謀叛気を起こしたことさえない店だった。
 しかし、私は彼女の手紙でのぼせ上がっていたし、まだ若造で、女性に「ノウ」と言えるだけのハラもできていなかった。(序(ついで)に言っておいてもいいと思うが、女性に「ノウ」といえるハラができるのは、もはやおいぼれて、今さら何と言ったところで女性の気を引かなくなってからのことで、それ以前に「ノウ」と言える者はほとんどいまい)手許に八十フラン(金貨で)あった。これで今月一杯やって行かなくちゃならん。軽い昼食なら、せいぜい十五フランですむと、そうすればあとの二週間、コーヒーなしにすれば、なんとかうまく切りぬけられるな。
 そこで、木曜日、十二時半にフォワイヨでお待ちしております、と手紙で返事を出した。彼女は思ったほど若くはなかった。体つきは魅力よりは圧迫を感じさせるものだった。じつのところ、彼女は四十で(四十というのはなかなか魅力のある年だが、一目見て、たちまち向こう見ずな情熱をかき立てられるというような年ではない)白い大きい、きれいな歯が、不必要に多すぎるような印象を私に与えた。
 彼女はよくしゃべった。しかし、とかく私のことを話したがる様子なので、私はよい聞き役に廻ることにした。
 献立表を見せられた時は、ぎくりとした。私が心配していたより、遙かに高い値段のものばかりだった。しかし彼女は私を安心させるかのように、言った。
「私、お昼には何もいただきませんの」
「まあ、そうおっしゃいますな!」と、私はおうように出た。
「私はたった一品(ひとしな)しかいただかないことにしていますの。近頃の方はだいたい食べすぎますわ。そうですわね、お魚をほんの少しいただきましょうか。このお店、鮭がありますかしら?」
 じつは、まだ鮭の時期には早すぎる頃で、献立表にものっていなかったが、給仕に訊いてみた。はい、たいそう美事な鮭がたった今入ったばかりでございます、初物でございます、との答えだった。私は客のためにそれを注文した。給仕は、鮭の料理ができますまで、ほかに何か召し上がりますか、と彼女に訊いた。
「いいえ、私はたった一品しかいただかないことにしていますの。でも、もしほんの少しキャヴィアがあったら別ですけどね。キャヴィアなら心配ありませんわ」
 私の心は少し沈んだ。キャヴィアは高すぎて、私には手も出ないことを知っていたからだ。しかし、彼女にそんなことはとても言えない。ああ、ぜひそいつを持ってきてくれ、と給仕に言った。自分のためには、メニューの中で一番安い料理を選んだ、それは羊肉(マトン)チョップだった。
「お肉を召し上がるなんて、いいことじゃありませんわ。チョップみたいなおなかにもたれるものを召し上がったあとで、どうしてお仕事がおできになれましょう。胃に負担をおかけになりすぎるのは賛成しかねますわ」
 さて、次は飲み物だ。
「私、お昼には何も飲み物はいただかないことにしていますの」
「私もです」と私は急いで答えた。
「ただ白葡萄酒だけは別ですけどね」とまるで私が何も言わなかったかのように、言い続けた。「フランスの白葡萄酒ってほんとに軽くて、消化にはとてもいいんですの」
「何をお上がりになりますか?」私の訊き方は相変わらず愛想はよかったが、心情あふるるばかりとまではゆかなかった。
 彼女は真白な歯をのぞかせて、明るく、人なつっこい笑いを浮かべた。
「かかりつけのお医者様が、どうしてもシャンパン以外のものは飲んではいけないっておっしゃいますの」
 私の顔はその時、少し青ざめたことだろう。私は小瓶を注文した。そして、さりげなく、私のかかりつけの医者がシャンパンを絶対に飲んではいかんと言いますので、とつけ足した。
「じゃ、何をお飲みになりますの?」
「水です」
 彼女はキャヴィアを喰い、鮭を喰った。そして、快活に芸術を論じ、文学を論じ、音楽を論じた。私の方は、いったい勘定がいくらになるだろう、とそればかり考えていた。マトン・チョップが私のところへ運ばれて来ると、彼女は本気で私を諭(さと)しはじめた。
「なるほど、あなたはお昼にいつも重いお食事をなさるようですわね。それは間違っていますわ。なぜ私を見習って、ほんの一品のものだけを食べるようになさいませんの? きっとその方がずっと気分がようございましてよ」
「げんに私はたった一品しか食べないつもりです」と私が言った。そこへ給仕がまた献立表を持ってやってきた。
 彼女はいらないというように、手を軽く動かした。
「いえ、いえ、私はお昼には何もいただきません。ほんの一口だけ、それ以上はいただきませんの。その一口も、お話をはずませるためにいただくだけなんですわ。もうとてもこれ以上はいただけません――もし、あの大きなアスパラガスがありましたら、話は別ですけど。あれをいただかずにパリを去ったとあっては、残念ですわ」
 私の心は沈みこんでしまった。今までにも、方々の店で大きなアスパラガスを見かけたことがある、じつに値段の高いものだということを知っている。見ただけでも、よだれの出そうな奴だった。
「君のところに、例の大きなアスパラガスがあるかね、奥様が訊いておられるが」と給仕に言った。
 私は全精神力をふりしぼって何とかして、給仕にありませんと言わせようと努力した。だが、彼のだだっ広い、坊主のような顔には、うれしそうな笑いが拡がって、はい、それはそれは大きくて、美味しくて、柔らかな、じつに美事なアスパラガスがございます、と言った。
「ちっともお腹は空(す)いていませんけど」と客は溜息をついた。「でも、たってとおっしゃいますなら、少しいただいてもようございますわ」
 私はアスパラガスを注文した。
「あなたは召し上がりませんの?」
「ええ、アスパラガスは苦手なんです」

……「昼食」
冒頭より

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