「ダーバビル家のテス」

トマス・ハーディ/小林清一訳

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900円

美しく豊満な体をもつ少女テスは無法な男のために私生児を生むが、その後、真実の愛をささげてくれると信じた青年と恋におち、結婚する。だが、過去の告白は処女性を重視する夫の激怒を生み、うち棄てられる。テスの一家が生きていくためには、最初の男の手にすがらざるをえなくなる……隷属的な境遇に暮らすテスのまえに、異郷で病身となった前夫が戻ってきたとき、テスは盲目的な意志に導かれて最初の男を刺し殺す。「アンナ・カレーニナ」「ボヴァリー夫人」とならぶ世界文学の傑作。

トマス・ハーディ(1840〜1928)イギリスの作家、詩人。ドーセット州出身。ロンドンに出て建築事務所につとめ、かたわら詩作に励んだが、健康を害して故郷に戻り、小説書きに専念した。1874年に発表した「狂乱の群れをよそに」で好評を博し、以後「ウェセックス小説」として知られる、故郷ウェセックスを舞台にした多くの傑作を次々と生み出した。最晩年に書き上げた叙事詩劇「覇王ら」は「イギリスの国民叙事詩」とされる。死去にあたっては国葬が行われた。自然との合体のこまやかさ、開発で衰微していく自然への嘆き、人間の誠実さの凝視、「環境」の不正の告発、戦争における狂態への深刻な反省…こうした要素が一体となって、あらためて世界中で愛読される作家となっている。他の代表作に「帰郷」「キャスターブリッジの市長」「日陰者ジュード」などがある。

立ち読みフロア

  五月も末のある夕方、中年の男がシャストンから接するブレイクモア、別名ブラックムア盆地にあるマーロットの村へと歩いて帰っていた。彼を運ぶ両脚はよろよろしていて、歩き方には一直線からいくぶん左へ傾くくせがあった。特に何を考えているというのでもなかったが、ときどき何かの意見を肯定するかのようにパッとうなずいた。片腕には空の鶏卵籠(たまごかご)がぶらさがり、帽子のラシャはけば立ち、その縁(ふち)の、脱ぐときに親指の触れる部分はすっかりすり切れていた。やがて、葦毛(あしげ)の馬にまたがり、とりとめもない鼻歌をうたいながらやってくる中老の教区司祭に出会った。
「今晩は」と籠をさげた男が言った。
「今晩は、サー・ジョン」と司祭が言った。
 歩いている男は、一、二歩行ってから、立ち止まり、ふり返った。
「もし、司祭さま、失礼でごぜえますが、この前の市(いち)の日にも、今時分に、この道でお会いしまして、あっしが『今晩は』と申しますと、あなた様は、今みたいに、『今晩は、サー・ジョン』とおっしゃいましたな」
「そうだよ」
「それに、その前にも、一度――ひと月近く前に」
「そうだったかもしれないな」
「それじゃ、こんなに何度も『サー・ジョン』と呼びなさるのは、どういうわけでごぜえますか、あっしはただの、行商人ジャック・ダービフィールドでごぜえますのに?」
 司祭は一、二歩馬を近づけた。
「わしのほんの気まぐれだよ」と彼は言った。それからちょっとためらった後で、「じつはな、ついこのあいだ、新しく州史を作ろうと思って、系図をいろいろ漁(あさ)っていたときに、一つの発見をしたからなんだよ。わしはスタッグフット・レーンの教区司祭トリンガムで好古家なんじゃ。ダービフィールド、おまえさんは本当に知らんのかね? 自分があの古い騎士の血筋を引いたダーバビル家の直系だということを。その家はな、バトル寺院の文書〔サセックス州バトル寺院に保管されている文書〕によると、征服王ウィリアムに従ってノルマンディから渡ってきたあの有名な騎士、サー・ペイガン・ダーバビルから出ているんだよ」
「そりゃ、初耳ですなあ、司祭さま!」
「ところが本当なんだよ。ちょっとあごを突き出してごらん、横顔がもっとよく見えるようにな。そうだ、まさしくダーバビル家の鼻とあごじゃ――多少くずれているが。おまえさんの祖先はノルマンディーのエストレマビラ卿がグラモガンシア〔南ウェールズの州〕を征服したとき、卿を助けた十二人の騎士の一人なんだ。おまえさんの一族はイングランドのこのあたり一帯に荘園を持っていた。その名前はスティーブン王時代の大蔵年報にはずらりと出ている。ジョン王の御代(みよ)には、ある分家などは、ホスピタル騎士団へ荘園を寄付するほど富んでいたし、エドワード二世の頃には、おまえさんの先祖のブライアンはウェストミンスターに招かれて、そこで開かれた大評定に列席している。オリバー・クロムウェルの時代には、少し下り坂になったが、それもたいしたことはなく、チャールズ二世の御代になると、忠誠によって「王家の樫(オーク)の騎士」に叙せられた。さよう、おまえさんの一家には何代にもわたって、サー・ジョンがいたんだよ、だから勲爵士が准男爵のように世襲だったら――昔は実際その通りで、父から子に受け継がれたものだが――おまえさんも今頃はサー・ジョンになっているだろうに」
「まさか!」
「つまりだね」司祭は、鞭(むち)で自分の足をピシャリと打って、言葉を結んだ。「イングランドにはまあ、またとない家柄だよ」
「へえ、そうですかい?」とダービフィールドは言った。「だのにあっしはまるでこの教区中で一番つまらない男みたいに、毎年毎年あちこちとうろつきまわってたんですぜ……そいで、トリンガム司祭さま、あっしのこの話はいつ頃から知れてたんですかい?」
 司祭は、自分の知っている限りでは、このことはすっかり忘れられてしまって、知っている者はほとんどないと説明した。彼自身調査を始めたのが去年の春のある日のことで、ダーバビル家の盛衰の跡をたどっていたら、ジョンの荷馬車についているダービフィールドという名が目にとまり、そこでジョンの父親や祖父を調べてみることになり、その結果、このことについては疑いがなくなったのである。
「はじめは、こんなくだらぬことを聞かせて、おまえさんの心を乱すことはすまいと決めていたのだ」と彼は言った。「ところが、衝動というものは、時として、分別を負かしてしまうことがあるものでな、このことについてはおまえさんもこれまでに多少は知っているかも知れないと思ったんだよ」
「そりゃあ、あっしもほんとに一度や二度は聞いたこたぁありますがな。あっしの一家はブラックムアへ来る前にゃ暮らしがよかったんだとな。だけどそれはべつに気にもとめませなんだ。つまり、今は一頭しかいねえ馬が昔は二頭いたぐれえのことだろうと思ったもんで。家にゃ、古い銀の匙(さじ)や、古い彫り物をした印形もありやす。でもいったい、匙や印形が何になりやしょう?……ところが、あっしとその高貴なダーバビル家がずっと同じ血すじであったと思うとどうも! なんでもあっしの曽祖父にゃ秘密があって、自分がどこの出身か言いたがらなかったということですが……そいで、司祭さま、ぶしつけでござんすが、あっしらの一族ダーバビルはどこに住んでおりますんで?」
「どこにも住んでいないんだよ。絶えてしまったんだ、――州の旧家としてはな」
「そいつはまずいですな」
「そうだな――いい加減な家系図の言う、いわゆる男系消滅なんだ――つまり零落(れいらく)したんだ――没落したんだ」
「それじゃ、わっしらの一族はどこに眠っておりますんで?」
「キングズビア・サブ・グリーンヒルだよ。一門の地下納骨堂に、パーベック〔ドーセット沿岸の半島〕産の大理石の天蓋(てんがい)の下の立像といっしょに、何列もずらりと並んでな」
「じゃあ、わしら一族の家屋敷はどこにあるんで?」
「そんなものはないよ」
「へえ? 地所もねえんですかい?」
「ないね。さっきも言ったとおり、昔はたくさんあったんだ、なにしろ、分家が多かったからな。この州でも、キングズビアにも、シャートンにも、ミルポンドにも、ラルステッドにも、ウェルブリッジにも一つずつ、一門の地所があったものだよ」
「それで、わっしらは、また元どおりになることがありやしょうか?」
「さあ――それはわからないな」
「すると、あっしはこのことで、どうしたらいいんでがしょう?」とダービフィールドはちょっと間を置いてから尋ねた。
「そうだな――打つ手はなんにもないよ、なんにも。ただ『ああ、勇士(ますらお)は倒れたるかな』〔聖書「サミュエル記」からの引用〕と思って悟ることだな、地方の歴史家や系図学者が多少の興味を持つだけのこと、それだけのことじゃ。この州の百姓の中にも、ほとんど同じくらいの名家がいくつかはあるでな。じゃあごめん」
「でも、トリンガム司祭さま、これをご縁に、ちょっと後戻りされて、ビールを一杯いかがで? 清酒亭のビールはなかなかいけますだ――もっともロリバー軒ほどでないこたぁ確かでがすがね」
「いや、ありがたいが――今晩はよしておこう。ダービフィールド、おまえさん、もうじゅうぶんきこしめしてるじゃないか」こう言い残して、司祭は馬を進ませた。こんな好奇心をそそる故事を受け売りした自分は思慮が足りなかったのではないかと思いながら。
 司祭が行ってしまうと、ダービフィールドはもの思いに沈んで二、三歩歩き、それから籠を自分の前において、路傍の草の土手に腰をおろした。数分たつと、一人の若者が遠方に姿を現わし、ダービフィールドが歩いてきたのと同じ道をこちらへ歩いてきた。若者を見てダービフィールドが手をあげると、彼は歩調を早めて近づいた。
「若えの、その籠を持ちな! 一つ、使いに行ってもらいてえんだ」
 やせっぽちの若者は顔をしかめた。「おや、ジョン・ダービフィールド、あんたは何さまなんだい、おいらに用なんぞ言いつけて、『若えの』呼ばわりするなんて? おいらの名前は知ってるはずだぜ、おいらがあんたの名前を知っとるようにな!」

……冒頭より


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