アイリッシュ短編集

「私が死んだ夜」

ウィリアム・アイリッシュ/稲葉明雄訳

ドットブック版 348KB/テキストファイル 157KB

500円

早引けして内縁の妻エセルを訪ねたベンは、見知らぬ男がいて、なんと保険金目当てにベンを殺す相談をしているのを盗み聞きした。ベンは突進して男と渡り合い、男の拳銃で相手を射殺してしまう。とエセルは言った「この死人はあなたよ、あなたは自殺して死んだのよ」…偽装工作は果たして成功するのか? この表題作のほか、中編傑作「靴」など全5編をおさめる。

ウィリアム・アイリッシュ(1903〜68) ニューヨーク生まれ。コロンビア大学でジャーナリズムを専攻したが、在学中から小説を書き始め、大学は中退。34年からミステリ短編を雑誌に書き始め、42年の長編「幻の女」で一躍サスペンス・ミステリの人気作家となった。哀愁味あふれる美しい文体から「サスペンスの詩人」と呼ばれたりする。本名コーネル・ウールリッチ名義で書いた作品も多い。

立ち読みフロア
 私の場合はことさらに事情がちがっていた。物心ついてこのかた、ずっと法律の垣根の内にとどまっていた私が、突然、その垣根を踏みだしてしまったのだった。一夜あけぬうちに──いや一時間をいでぬうちにといってもいい──文字どおり魂も心も、垣根の外側へころがりでてしまったのだ。
 世のたいがいの場合は、徐々にそうなっていくというのが普通だろう。私にかぎって、そうではなかった。それどころか、それまでは小切手一枚盗んだこともなく、公衆電話に偽コインを落としこんだ覚えすらなかった。むしろ正直のあたまに馬鹿がつくほうで、返された釣り銭のすくないときは黙ってひっこむが、反対に多くもらったときは、その場にとどまって大声で店員の注意を促すような男だった。
 人様の頭に手をあげるなどということは──他の男はいざしらず、このベン・クックには思いも及ばないことだった。が、そうした烈しい気性(きしょう)の芽は、この私の内部にも昔からあったに相違なく、ただそれが爆発の機会を待っていたにすぎなかったのだ。そして私の場合、ボイラーの中の蒸気のように調節弁もなく、永年のあいだ内部に鬱積していたのが、かえってよくなかったといえるかもしれない。
 私はここ何年間かのあいだ、このケイ・シティの一デパートの紳士服売場につとめて、他人の背広の心配をしながら、三十ドルなにがしかの安週給であくせく日を送っていた。どんなとんまな相手であろうが、「はい、かしこまりました」を連発しながら、襟のしわを伸ばし、ぽんと背中をたたいて送りかえす。そして夜になると、自分もそんな男の一人となって家路を急ぐのだった。実直で、野心のかけらも駐車チケットの呵責(かしゃく)もなく、毒にも薬にもならない男として……だがそんなある夜、店をでてわずか五分後に、私の両手に思わぬ殺人がころがりこんできたのだった。
 この私の潜んでいた気質を呼びさましたのは、だれよりもセルマの罪ではなかったかと思う。もし彼女さえあんな女でなかったら、それはずっと潜伏したままであったにちがいない。この先をずっと読んでいただけば判ってもらえると思うが、彼女はそうした自分の振る舞いを、のちのち大いに悔まねばならぬことになった。自分で悪魔を呼びだしておいて、追い払いたくても追いはらえなくなったと同様だった。
 セルマは私の内縁の妻だった。最初の妻だったフローレンスは、私の甲斐性のなさに愛想をつかして、五年前にイギリスへ渡ってしまった。私たちはおたがいに友達のような気持ちでわかれた。彼女が私にむかって──あなたのことは好きだし、将来性もあると見込んでいるけれど、ただそう長くは待っていられないの、わたしには既製品の旦那さまが必要なのよ──といった言葉はいまだに覚えている。のちになってイギリスの彼女から、離婚書類を受け取ったという通知のついでに、近いうちにあちらの大酒造会社の社長と結婚するつもりだと知らせてきた。
 その後セルマと再婚しようと思えばできないでもなかったのだが、なんとなくずるずるべったりに内縁関係を続けていた。内縁の夫婦というのも、また捨てがたい味のあるものだった。よく世間で性質の相反する者同士が、かえって惹き合うというようなことをいうけれど、私とセルマの関係もそれだったのだろうと思う。彼女はなにからなにまで私と正反対だった。野心家ではあるし、釘のあたまのように頑固で、欲しいものを手にいれるためには、良心の呵責など存在しなかった。
「たとえ悪いことでも、捕まりさえしなければ、やってもいいじゃないの!」というのが、彼女のお気に入りの台詞(せりふ)だった。
 たとえば私が、ひとつ背広を新調したいが、その余裕がないといったときなど、彼女はこう答えたものだった。
「なにいってるの、あんたはデパートの紳士服部に勤めてるんでしょ! 在庫品から一着くすねてきたら?──だれも気がつきゃしないわよ」
 私はいつも冗談として聞き流すことにしていた。

……「私が死んだ夜」冒頭より


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