「テレーズ・デスケルウ」

モーリアック/遠藤周作訳

ドットブック 133KB/テキストファイル 103KB

400円

テレーズの夫毒殺未遂事件は、家の体面をなによりも大事に考える家族の、いつわりの供述書によって免訴になるが……帰宅したテレーズはいわば幽閉状態を強いられて、絶望的な孤独をかみしめる。はたして私はほんとうに「殺し」を意図したのだろうか? 均整美をそなえたフランス20世紀文学の代表的古典。

モーリアック(1885〜1970) ボルドー生まれのフランスの作家。ボルドー大卒業後パリに出て、コクトー、バレスなどと交友し、詩で認められる。第一次大戦には看護兵として従軍、戦後発表した小説「癩者への接吻」で注目され、「火の河」「愛の砂漠」「テレーズ・デスケルウ」など、ボルドー地方を舞台とした作品で「神なき人間の苦悩」を描くカトリック作家の代表としての地位を築いた。他の代表作に「蝮のからみあい」「夜の終わり」「黒い天使」などがある。

立ち読みフロア


 弁護士が扉をひらいた。テレーズ・デスケルウは、裁判所の暗い裏廊下で顔に霧を感じ深々と息をついた。待ちかまえている人たちがいるかと気おくれして、彼女は外へ出るのをためらっていた。高いカラーをつけた一人の男が、プラタナスの木から身体をはなした。父である。「免訴です」と弁護士はテレーズをふりかえり、
「出ても大丈夫ですよ。だれもいませんから」
 湿った階段を降りた。弁護士のいうとおり小さな広場には人影がないようである。父は彼女に接吻もせず一瞥《いちべつ》も与えぬ。そして弁護士に何かをたずね、弁護士は声を低めて返事をしている。まるでだれかにみられてでもいるようだ。だが二人の話は、こちらには途切れ途切れにしか聞こえない。
「明日、公式の免訴《めんそ》通告をもらうことになっています」
「もう思いがけないことが起こったりはせんな」
「万事めでたしですよ」
「婿《むこ》の供述が終わったあと、決まっていたことだが」
「きまったようなもの……そりゃわかりません」
「しかし婿自身の話によると、薬の滴数を数えなかったというが」
「いやラロックさん、この種の事件では被害者の証言というものは……」
「被害者なんていなかったんです」
 とテレーズはいった。
「いや、奥さん、わたしの言いたかったのは、自分の不注意の犠牲者という意味ですよ」
 二人の男たちは、一瞬、マントに身を包んで身じろぎもせぬ若い人妻の顔をみつめた。その顔は蒼白く無表情である。彼女はどこに馬車をおいたのとたずねた。父親は、みんなの注意をそらすため、町はずれのビュドース街道に車を待たせておいたのだった。
 三人は広場を横切った。雨に濡れてプラタナスの葉がベンチにへばりついている。幸いにも、日足が短くなっていた。そのうえ、ビュドース街道に出るには、郡役場の建物のなかでもっとも人通りのない路を通って行けばよい。テレーズは自分の目のあたりしか丈のない二人の男にはさまれて歩いた。彼らも、まるで彼女がいないかのように議論しつづけている。時どき、二人のあいだに割りこむテレーズのからだが邪魔になるのか、両側から肘で押してくる。だから彼女は一歩うしろに引きさがり少し遅れて、左手の手袋をぬぐと、通りすぎた古い石壁の苔をむしった。自転車に乗った若い労働者や二輪馬車が二、三度、彼女を追い越していくその泥がはねるので、テレーズは壁に身を寄せねばならなかった。夕闇がその顔を見分けつかせぬほどあたりを包み、パンを焼く匂いや霧の匂いが漂ってきた。テレーズはその中にこの小さな町の夕暮れの匂いだけではなく、ついにわが手にもどった自分の生の匂いを感じた。目をとじ静かな、草深い湿った地面のいぶきを嗅ぐ。そして一度も自分をふりかえらぬ、がに股の足の短い小男の声を聞くまいとした。たとえ彼女が道の端にうずくまったとしても、父親も弁護士のデュロースもそれに気がつくまい。二人はもう平気で声高に、
「デスケルウさんの供述はまったく立派でしたよ。しかしだ。あの処方箋のことがありましたからね。けっきょく、問題になるのは虚偽の供述です。それに告訴したのがペドメ医師だったんですから……」
「いやいや医者は告訴をとりさげたよ」
「でも奥さんがなさったあの説明によると、処方箋を見知らぬ男から預かったというんですからね」
 こうした言葉は何週間も前から頭が痛くなるほどきかされたのだ。テレーズは疲労のためではなくそんな会話から離れたいため歩調をゆるめたが、だめだった。父親の甲高い声はどうしても聞こえてくる。
「いやそのことについては娘に充分にいってやったがね。『困ったやつだな、もっと別の説明を考えてみろ……違った説明ができるだろう』」
 事実父親はそのことは何度もいっていた。そしてそのたびに自分を正しいと考えていた。それならまだ何を騒ぎたてることがあろう。父が家名と呼んでいるものはなにも傷つかぬはずだ。今から上院議員の選挙までもうだれもこのことを思いだしはしない。二人の男に追いつきたくないテレーズはそう考える。しかし議論に熱中し始めた二人は道の真ん中で足をとめ、身振りまでして、
「ラロックさん、正面攻撃だよ。間違いありませんな。日曜日の『種蒔く人』の紙上で攻勢に出てください。それともよかったらわたしがやりましょうか。題は『卑劣なるゴシップ』とでもしたらいい」
「そりゃいかん。それになんといって答えればいいんだね。予審がいい加減だったことはあまりにも明瞭だし、筆蹟鑑定さえ依頼しとらん。とにかく、沈黙だ、もみ消すんだ。それ以外に方法はない。わしは活動するよ。活動が大事だと思うよ。しかし家族のためにこうしたことは包み隠さねばいかん、なにもかも包み隠さねばね」
 二人は大股で歩き始めたので、デュロースの返事はテレーズには届かなかった。彼女はまた一雨降りそうな夜の空気を息のつまった人のように深く吸いこんだ。そのとき突然ジュリー・ベラードの顔が心に甦った。自分はその祖母に会ったことはない。ラロック家やデスケルウ家ではこの女の肖像画も写真もみあたらない。だれも彼女のことについて知らない。わかっているのは、彼女はある日どこかに消えてしまったということである。テレーズは自分もまたこの女と同じように消え去ることができ、そしてやがて自分の娘の幼いマリも、生みの母親の姿をアルバムにさえみつけることができなくなるかもしれない、そんなことを想像してみた。マリはこの時刻、もうアルジュルーズの寝室で眠っていることだろう。自分は今晩あの部屋に、闇の中で子供の寝息を耳にするだろう。身をかがめ、水を求めるように眠りこんだ生命をさがし求めるだろう。
 溝のふちに、幌をたたんで四輪馬車の光が馬の痩せた二つの尻を照らしていた。むこう、街道の左右に陰気な森がひろがっている。一方の斜面からもう一つの斜面にかけて道ぎわの松がつながり、この弧の下で道が茫漠とつづく。空が網目のように交錯した枝の上で河床をきりひらいていた。御者はむさぼるような目でテレーズをながめた。馬車が終着列車に間に合うようにニザンの駅につくかとたずねると、御者は大丈夫ですと答えた。とはいえ遅れないにこしたことはなかった。
「ガルデール、面倒なことを頼むのもこれが最後よ」
「奥様はこちらにもうご用はおありじゃないんで」
 首を振るテレーズを彼は相変わらずじろじろとみつめている。生涯自分はこのように人からみつめられねばならないのだろうか。
「どうだい。うれしいかい」
 やっと父親は娘が傍にいることに気がついたようだった。テレーズは胆汁色によごれたこの顔をちらっとみつめた。頬には薄黄色のかたい毛が生えている。その毛が馬車のランプに照らされて一本一本はっきりみえる。声を低めて彼女はいった、「しんまで疲れてしまったわ。あんまり苦しんだのですもの」それから口を噤《つぐ》んだ。話したところでなんの役にたとう、第一父親は聞いてもいない。自分をみようともしない。自分が苦しんだとて父親にはなんの関係もないのだ。彼にとって大事なことはただ一つ、上院議員になる望みがこの娘のために絶たれることだった、(女はばかでなければみんなヒステリーだ)ありがたいことには娘はラロック姓ではない。デスケルウ家に嫁《とつ》いでいる。裁判はさけられたのだからもう安心だ。敵が傷口に触れるのをどう防いだらいいのだろう。明日からはさっそく知事に会いにいこう。そのうえ、『ランド保守派』紙の社長は抱きこんである。今度の事件もせいぜい小娘たちのスキャンダルでおわるだろう……。
 彼はテレーズの腕をとり、
「はやくお乗り、時間だよ」
 弁護士はおそらく意地悪い気持ちからか、あるいはテレーズが自分に何もいわずに去っていかないようにか、今晩夫の家にもどるのかとたずねた。「ええ、主人が待っているでしょうから」と答えながらテレーズは、判事と別れてからはじめて、あと数時間で自分が、まだ健康をとりもどしていない夫の寝室に入るのだと気がついた。その部屋で昼となく夜となく今後あの男の傍で生きつづけねばならぬのだ。
 予審がはじまってから、この小都市に近い父親の家に移って、彼女は今からたどる道を何度往復したかわからぬ。あのときは夫に正確に情報を伝えることしか考えていなかった。彼女が馬車に乗る前にデュロース氏はいつも夫があらためて訊問された場合に、どう返事をしたらいいかということを教えてくれたのである。当時、まだ健康をとりもどしていない夫と向き合っても、テレーズはなんの苦痛も感じなかった。気づまりもおぼえなかった。
 そのとき二人のあいだには、現実にやったことではなくて何をいってはいけないかということだけが問題だった。
 家族の名誉を守るということでこの夫婦二人があのときほど心を合わせたことはなかった。一つの生命のために二人は結ばれたのだ。彼らは一人娘のマリを守るという気持ちから結ばれたのである。予審判事むきに理路整然とした、そして理屈っぽいあの男を満足させるような話を新しくこしらえたのである。馬車も今の馬車と同じだが、そのときは早くこの夜の旅を終えたいとのぞんだものだ。しかし今は違う。いつまでも旅がつづけばいいと思う。あのときは車に乗るやいなやアルジュルーズの部屋にたどりつきたいと思い、夫のベルナール・デスケルウが待っている正確な情報を反芻したことを憶えている。(ある夜、一人の見知らぬ男がテレーズに処方箋をわたした。なぜなら彼は薬局に借金があるので自分ではとてもいけなかったからだ――ベルナール・デスケルウは、以上のような話を妻からきいたと断言するつもりだった。しかし弁護士のデュロースがベルナールがそんな無思慮なことで妻を非難した記憶があると口にださぬほうがいいといった)

 悪夢がすぎ去った今夜、ベルナールとテレーズは何について話すだろう。テレーズは夫が自分を待っているあの曠野の中の一軒家を心に浮かべた。板瓦を敷いた寝室の真ん中にベッドがある。テーブルの上に低いランプがあってそのまわりに新聞や薬びんが散らばっている。馬車の音で目をさました番犬がひとしきり吠え、そして吠えるのをやめる。するとまた新しく重い沈黙があたりを支配する。その沈黙はベルナールが激しい吐き気にとらわれ、彼女がそれをじっとみつめていたあの夜と同じようにあたりを包んでいる。テレーズはまもなく自分と彼がとりかわす最初のまなざしを心に浮かべようとした。それからそのあとの夜のことも、翌日のことも、そしてその次の日のことも、アルジュルーズの家の中でいとなまれる毎週のことも、自分たちが生きたあの悲劇をも心に思い浮かべようとした。もう二人のあいだには現実にあったこと以外、何ものもないのだ。だが現実にあったこととはなんだろう。不安な衝動にかられテレーズは弁護士のほうをふりむいてつぶやいた。
(しかし実は老父に向かっていったのだった)
「夫の傍には四、五日いるつもりですが、経過が良好になれば父の家に帰るつもりです」
「ああそりゃいかん」
 御者のガルデールが席で身を動かしたので、ラロック氏は声を低めて、
「馬鹿じゃないか。今、夫の傍を離れるのはとんでもない。いいかね、おまえたちは二本の指のようにいつもいっしょにいなければならん。死ぬまでな」
「そうね、どうかしていたわ。じゃお父さんがアルジュルーズにきてくださるの」
「いやテレーズ、前のように市のたつ木曜日、家でおまえたちを待つようにしよう。おまえのほうからいつものようにこっちにきなさい」
 娘には生活の習慣《しきたり》をちょっとでも破ることが一家の破滅をもたらすということがどうしてこんなにわからないのだろう。いったい、やつにはほんとうにわしの言葉がのみこめたのか。やつを信用していいものだろうか。もうこれまで家族にいい加減迷惑をかけたというのに。
「とにかく、おまえの主人が言いつけたことをみなすればいいんだ。それ以上うまくはいえない」それから彼は娘を車の中に押しこんだ。
 テレーズは弁護士が自分に手を差しだすのをみた。その爪はかたそうで黒かった。「終わりよければすべてよし、ですな」と彼はいった。それは正直な言葉だった。事件が自然な発展をとげていたならば、彼はほとんど利益をものにできなかっただろうから。テレーズの家族はボルドー弁護士組合のぺールカーヴ氏に依頼していただろう。たしかに万事はうまくいったのだ。

……巻頭より


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