「影なき男」

ダシール・ハメット/砧一郎訳

ドットブック版 220KB/テキストファイル 143KB

500円

探偵商売の足を洗い、妻のノラと愛犬アスタとともに地味な仕事についていたニックは、あるとき元の顧客で発明家のクライド・ワイナントの秘書が殺されるという事件に遭遇、いやおうなく探偵として乗り出さざるをえなくなる。……ユーモアも光るハードボイルド第一人者ハメットの秀作。

ダシール・ハメット(1894〜1961) 13歳で学校を離れ多くの下積みの職を転々としたあと、サンフランシスコのピンカートン探偵社にはいる。その経験をいかしてパルプ・マガジンに次々と短編を発表、「赤い収穫」「デイン家の呪い」でデビューし、「マルタの鷹」で最高のハードボイルド探偵小説作家としての地位を不動のものにした。

立ち読みフロア
 そのとき、ぼくは五十二丁目のある酒場のカウンターにもたれて、クリスマスの買物をすませてくる妻ノラを待っていた。そこへ、一人の女が、三人のつれと一しょのテーブルをはなれて、こっちへ近づいてきた。粉っぽい青色のスポーツ着をきた、小柄な金髪の女だったが、その顔をちらッと見て、ぼくは、おやと思った。どこかで見おぼえのある顔だ。はたして女はぼくに話しかけてきた。
「ニック・チャールズさんじゃなくて?」
「ええ、そうですが……」とぼくが答えると、女は手をさしだして、
「ドロシー・ワイナントですの。わたしのこと、おぼえてはいらっしゃらないでしょうけど、父のクライド・ワイナントはご存じですわね」
「知っていますとも。そういえば、君のことも思いだした。でも、あのころは、ほんの十一か二のちびっ子だったのじゃないかな」
「ええ、八年にもなるんですもの。ほら、あのころずいぶんいろんなお話をして下すったわね。みんなほんとうのことでしたの?」
「さあ、どうだったかね……時に父さんはどうしておられるかな」
 女は笑った。「それは、こちらからうかがいたいのよ。そら、父さんはママと別れたでしょう。それっきり音さたなしなのよ――たまに、仕事のことで新聞にでるのを見ますけど、お会いにならなくて?」
 ぼくのグラスは、空《から》になっていた。ドロシーにたずねると、ウイスキーにソーダ水がいいというので、それを二つ注文した。
「会わないよ、ぼくはサンフランシスコに住んでいるんでね」
「会いたいわ。ママに知れたら大さわぎでしょうけど、それでも会いたいのよ」
「それで?」
「むかしわたしたちの住んでいたリヴァサイド・ドライヴにはいないのよ。電話帳にものっていないわ」
「父さんの弁護士に当ってみたら?」
「ああ、そうね」と彼女は顔を明かるめて、「なんという方?」
「マックなんとかいったっけ――そうそう、ハーバート・マコーリーという人だ。シンガー・ビルディングにいたが……」
 彼女は、すぐ電話をかけにゆき、やがて、にこにこ顔で戻ってきた。「わかってよ、すぐそこの五番街だわ」
「父さんが?」
「いいえ、弁護士よ。父さんは、よそに行っているんですって。でも、もうすぐ会えるわ。親子の再会ってわけね」と、グラスを上げてみせたが、そのとき突然、彼女には見なれぬ犬がぼくにとびかかってきたので、「あらあらッ」と声をあげた。ノラが愛犬アスタをつれてもどってきたのだ。
「アスタったら、すばらしいご機嫌だったわ」とノラがいった。「おもちゃ屋では、陳列台を引っくりかえすし、サックスでは、ふとった小母《おば》さんの足をなめて、悲鳴をあげさせるし、三人ものお巡《まわ》りさんに頭をなでてもらうし――」
 ぼくは、女どうしを引きあわせた。
「これ、ぼくの女房ですよ。こちらは、ドロシー・ワイナントさん、この人が、これぐらいの背だったころ、父さんがぼくのおとくいだったんだ。いい人だったが、少し変っていたね」
「わたし、ニックさんが大好きでしたのよ、本ものの探偵さんでしたもの。しょっちゅう追っかけまわして、お話をせがみましたわ。でたらめばかりおっしゃったけど、わたし、本気で信じてましたのよ」
 ドロシー・ワイナントは、自分のテーブルにもどらなければ、といって、ノラと手をにぎり合った。
 ぼくたちもテーブルを見つけた。
「かわいらしい女の子じゃないの」
「あんなのが好きな人にはね」
「あなたはどう?」ノラはにやりとした。
「ぼくの好きなのは、君だけさ。いじの悪そうなあごをした、やせっぽちのブルネット女の君だけさ」
「じゃあ、ゆうべクィンのところで羽目をはずしていたあの赤髪さんは、どうなの?」
「ばからしい。あの女は、フランスのエッチングをぼくにみせようとしていただけじゃないか」

 ……冒頭より

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