「三匹の盲目のねずみ」

アガサ・クリスティ/各務三郎訳

ドットブック版 128KB/テキストファイル 49KB

400円

田舎の古い屋敷を遺産として受けついだ若夫婦は、慣れない下宿屋を開業した。予約した4人の客は大雪のなか、なんとか宿にたどりつく。その翌朝だった、警察から電話があって、殺人狂がまぎれこんだ可能性が高いという。やがて若い刑事がスキーでやってきた。だが、「三匹の盲目のねずみ」のマザーグースの歌とともに、殺人はやはり起きた。1952年にロンドンで初演されて以来、2012年11月に60周年をむかえ 、世界一のロングラン記録を樹立した戯曲「ねずみとり」の原作!

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア
 とても寒い日だった。空は暗く、いまにも雪が降りそうだった。一人の男がカルヴァー通りを歩いている。黒いオーバー姿、マフラーで顔をかくすようにして、帽子をまぶかにかぶっている。男は、七四番地のステップをあがって、呼び鈴(りん)を鳴らした。ベルは、地下室で鳴った。
 台所でいそがしく働いていたケーシー夫人は、腹を立てた。
「うるさい呼び鈴だよ。ろくに仕事もさせてくれないんだから」
 ぜいぜいいいながら、地下室の階段を苦労してあがると、玄関ドアをあけた。
「ライアン夫人は?」
 男は、ささやくような声でたずねた。雲がたれこめる空をバックにした男はシルエットになっていた。
「三階だよ。あがっていったらいいよ。ライアン夫人は、あなたの来るのを知ってるんだろうね?」
 男は、首をふってみせただけだった。
「おやおや、まあ、部屋をノックすればいいよ」
 男は、すり切れたカーペットが敷かれた階段をあがっていった。彼女は、その後ろ姿をみつめていた――あとになって、彼女はこういった。
「なんだか妙な感じの男だったね」
 しかし、そのとき彼女は、
「ひどいかぜをひいてるから、あんな声しか出ないんだね」
 としか思わなかった――天気が天気だから、そう思うのも無理はなかった。
 階段をあがりきったとき、男の唇から、しずかに口笛がもれはじめた。マザーグースの「三匹の盲目(めくら)のねずみ」
 のメロディだった。

 モリー・デーヴィスは、道路に出て、門にかかげた新しい看板を見あげた。
〈下宿(ゲストハウス) モンクスウェル荘〉彼女は、満足そうにうなずいた。職人に頼んだような出来ばえ。〈下宿〉の宿の字がすこしゆがんでいるし、〈モンクスウェル荘〉の終りのあたりの字間がつまりすぎてはいる――しかし、全体として、ジャイルズは立派な看板をつくってくれたわ。
 ジャイルズって、ほんとうに器用ね。彼なら、ほかにもいろいろ出来そうだわ――モリーは、夫のことで新発見ばかりしてきた。
 夫のジャイルズは、過去をほとんど口にしなかった。彼にいろいろな才能があることを、モリーは、すこしずつ発見してきた。海軍出身の男は器用――彼女は、世間の人たちの言葉を思い出した。
 ジャイルズなら、今後の新しい仕事にうってつけだわ。モリーもジャイルズも、下宿屋のことは、まるっきり知らなかった。それだけに楽しみもある。若い夫婦の住宅問題まで解決してくれるのだ。
 いいだしたのは、モリーだった。キャサリーン伯母が亡くなり、弁護士からの手紙で、モンクスウェル荘が遺産として贈られると知ったとき、若い夫婦は、まず売ることが頭に浮かんだ。
「どんな家だい?」
 とジャイルズがきいたとき、
「あら、古くて、ただ広いだけの家よ。ヴィクトリア朝時代のごつい旧式の家具がいっぱいあるの。庭はすてきよ。でも、戦争後〔第二次世界大戦〕は、草ぼうぼう。だって、年寄りの庭師が一人しかいなかったんだもの」
 そんなわけで、二人は、屋敷を売ることに決めた。彼らが住むはずの小さな家かアパートに家具の一部は売らずにおくことにした。ところが、やっかいな問題が二つも持ちあがった。まず、小さな家どころかアパートさえも見つからなかった。おまけに、モンクスウェル荘の家具はとても大きなものだったのである。
「これじゃ、家も家具もぜんぶ売ることになるわね。きっと売れるわ」
 モリーは、そういった。事務弁護士は、こんな時代だから、買い手はいくらでも現われる、と二人にうけあってみせた。
「買い手は、ホテルか下宿にするでしょうね。あれだけの家具がそろっているんですから。あの屋敷は、とても手入れがよろしい。亡くなられたミス・エモリーは、戦争がはじまるすこし前に、大修理なさっています。今風にね。じつに立派なお屋敷ですよ」
 モリーが下宿屋をすることを思いついたのは、そのときだった。
 はじめ、ジャイルズは笑うだけだったが、モリーは、ひきさがらなかった。
「はじめは二、三人だけでいいの。あの家ならだいじょうぶよ――どの部屋にもお湯と水が出るようになっているし、セントラル・ヒーティングも通っている、ガス調理台もあるわ。それに、ニワトリやアヒルを飼えば、卵も手に入るし、野菜だって――」
「その仕事は誰がやるんだい――使用人だって、みつからないだろうしね?」
「わたしたちがやるのよ。どこに住もうと、そのくらいはやることになるわ。だから、すこしくらい人が増えても同じ手間がかかるだけ。しばらくすれば、通いのお手伝いだって見つかるでしょうし。五人おくとして、一人当り週に五ギニーの下宿代なら――」
 モリーは、楽しそうに暗算をはじめた。やがて、こう話をしめくくった。
「それにね、ジャイルズ、なによりも、わたしたちの家に住めるのよ。このままだと、ちゃんとした家が、いつ見つかるか、わからないわ」
 たしかに、その通りだった。ジャイルズもうなずくしがなかった。知り合ってすぐに結婚したために、二人は、落ちつける家を心から欲しがっていたのである。
 そんなわけで、下宿屋をはじめることになった。地方新聞とロンドン・タイムズに広告を出すと、たくさんの申し込みがあった。
 今日は、一人目の下宿人がくる日だった。ジャイルズは、朝早く、自動車で出かけていた。遠くの町で陸軍が払いさげた金網が売り出されると聞いたのである。モリーは、村まで歩いていき、最後の買物をしておく必要があった。
 気になるのは天気のことだった。この二日ほど冷えこみがきつく、今日になって雪が降りはじめていた。村からもどるころには、防水肩かけやカールした明るい髪は雪にぬれていた。天気予報は、大雪になると報じていた。
 水道管が凍りつかなきゃいいけど、とモリーは思った。開業したばかりなのに、やっかいなことが起きるのはたまらない。時計を見ると、お茶の時間は過ぎている。ジャィルズは帰っているかしら? わたしがまだ帰ってこない、と心配しているんじゃないかしら?
「買い忘れたものがあって、また村までいかなくちゃならなかったの」
 そう言うつもりだった。
「まだカンづめを買いこむつもりかい?」
 と、ジャイルズは笑うだろう。
 カンづめは、二人のあいだのジョークだった。彼ら夫婦は、カンづめがなくならないように、いつも気をつけていた。万一の場合を考えて、食料部屋はカンづめでいっぱいになっているのである。
 モリーは、うんざりした顔で空を見あげた。その万一の場合が、いまにもやってきそうな空だった。
 家には誰もいなかった。モリーは台所へ入っていった。それから二階へあがって、新しく準備した寝室を見てまわった。ボイル夫人は、南側の部屋――マホガニーの家具と四柱(しちゅう)ベッドがある。メトカーフ少佐はオークの家具のある青の部屋。レン氏には、張り出し窓のある東側の部屋に住んでもらう予定だった。
 どの部屋もきちんとしているーキャサリーン伯母さんが、たくさんのリンネルをととのえておいてくれたおかげね。モリーは、ベッドカバーをきちんと直して、階下へおりていった。
 もう、夕方になっていた。いきなり、家じゅうがひっそりして、がらんとしていることに気がついた。村からは二マイルも離れた一軒家――どの家からも二マイルもあるんだわ。と彼女は思った。それまでにも、家に一人きりでいることは何度もあった――しかし、今ほど、ひとりきりであることを感じたことはなかった。
 かすかな音を立てて窓に雪が吹きつけられている。不安をかき立てる、ささやくような音。ジャイルズが帰れなくなってしまったら――雪がはげしくて自動車が動けなくなってしまったら? わたし一人だけで、何日も家に閉じこめられたら、どうしよう?
 モリーは、広い台所を見まわした。ここにふさわしいのは、大柄(おおがら)で人のよさそうな女料理人だわ――台所のテーブルでロック・ケーキ〔表面がざらざらした甘いパン〕をゆっくりと食べながら紅茶を飲むんだわ。中年の小間使いとぷっくりしたバラ色の頬のメードが左右に腰かけている。テーブルのはじには台所の下働き。彼女は、先輩たちをおどおどしながら、みつめている。
 しかし、今、そこにいるのは、モリー・デーヴィス一人だけ。まだ慣れない女主人役を演じているのだった。モリーは、ふと、これまでの人生が幻想のように思えた――夫のジャイルズも幻のように思えた。彼女は、自分が芝居の登場人物になっているように感じた。
 窓に影が映った――モリーはびっくりしてとびあがった――見知らぬ男の影が雪のなかを近づいてくる。家の横のドアががたがたと音を立てた。ドアが開くと、そこには雪を払い落とす見知らぬ男が立っている。その見知らぬ男は、誰もいない家に入ってきて……。
 いきなり、幻想が消えた。彼女は叫んだ。
「まあ、ジャイルズ。よく帰ってこられたわね!」
「やあ、モリー。外はひどい雪だよ、もう、凍(こご)えるかと思ったな」
 ジャイルズは足踏みして雪を落とすと、両手に息を吹きかけた。
 モリーは、いつものように、オークのたんすに投げかけられたコートを取りあげると、ハンガーにかけた。ポケットにつっこまれたマフラーや新聞、朝に配達された郵便物などを取り出して、食器戸棚の台にならべた。それから、やかんをかけて、ガスに火をつけた。
「金網は買えた? 帰るのがずいぶん遅かったのね」
「役に立ちそうもなかったので買うのはやめた。ほかに軍の放出物資も見てみたが、だめだった。きみのほうは、何をしていたんだい? 下宿人はまだ来なかったろう?」
「ボイル夫人なら、予定は明日だわ」
「メトカーフ少佐とレンさんは、今日、やってくるはずだがね」
「メトカーフ少佐は、明日来ると葉書に書いてきたわ」
「そうなると、今夜の食事はレンさんとぼくたちの三人だけか。レンさんはどんな人かなあ。退職した役人のような気がするよ」
「わたしは、芸術家だと思うわ」
「とにかく、ぼくらが素人だと感づかれたくないよ」
「ボイル夫人なら、すぐに見抜くわ。そんな女なのよ」
「どうして知っているんだい。会ったことがないんだろう?」
 モリーは顔をそむけた。テーブルに新聞をひろげると、その上でチーズを削りはじめた。
「どんな料理をつくるんだい?」
 ウェルシュ・ラビット〔パン、クラッカーにチーズなどをのせてトーストしたもの〕よ。耳を切り落したパンにマッシュ・ポテト、それにちょっぴりのチーズの粉……それが材料よ」
「料理人としてやっていけるかい?」
「さあ。わたしは、いっぺんにたくさんの料理ができないの。だから、朝食のときはたいへんだわ」
「どうして?」
「卵にベーコン、ミルクをわかして、コーヒーを入れて、トーストもつくらなくちゃならないわ。ミルクは吹きこぼれるし、トーストは焦げる。べーコンはかりかりに焦げるし、卵は固ゆでになってしまうわ。火傷(やけど)した猫みたいに、あちこちとびはねることになるのよ」
「明日の朝、火傷した猫のようすをこっそり見ていようかな」
「お湯がわいてるわ。書斎でラジオを聞きながら、お茶を飲みましょうか。そろそろ、ニュースの時間よ」
「これからは、この台所で一日の大半をすごすことになりそうだ。もう一つラジオを買って、ここに置くことになりそうだね」
「そうね、この台所はすてきですもの。わたし、この台所が好きよ。この家でいちばん好きな場所になりそう。調理台がついている食器戸棚もお皿のたぐいも好きだわ。こんなに大きな調理かまどはぜいたくな感じがして好き――でも、それを使わなくてすむからほっとしているわ」
「その調理かまどを使ったら、一年分の配給燃料が一日でなくなりそうだな」
「ほんとにそうね。でも、むかしは、それで大きな肉のかたまりを焼いていたんだわ――牛のサーロイン、羊の鞍下(くらした)肉などをね、何ポンドもの砂糖を使ってつくったホームメードのイチゴのジャム。それが入る大きな銅の貯蔵用平鍋(ひらなべ)がいくつもある。ヴィクトリア朝って、楽しくてすてきな時代だったのね。二階の家具がそうでしょう。装飾がうるさい感じだけど、大きくて、がっしりしているんですもの――でも、ほんとうに感じがいいわ。服だってたっぷり入るし、引出しだって、ぎくしゃくしないの。
 わたしたちが借りていたアパートを覚えてる? 現代ふうだけれど、ひどい引出しだったわ――ろくに動きゃしなかった。ドアだって、力いっぱい押さなければ閉まらなかった。そのくせ、閉めたら、こんどはなかなか開かないの」
「ああ、あのアパートはひどかったな。うまくいかないたびに、きみはしょげていたね」
「さあ、書斎でラジオを聞きましょうよ」
 ニュースは、うんざりする天気予報、行きづまりの外交問題、議会での口さきだけの討論、それから、パディントンのカルヴァー通りでの殺人事件……と、つづいた。
 モリーはスイッチを切ってしまった。
「暗いニュースばかりね。燃料節約の訴えなどききたくないわ。じっとして凍え死にさせるつもりかしら? こんな冬に下宿屋をはじめたのがいけなかったのね。春になるまで待つべきだったわ――それにしても、殺されたのは、どんな女の人だったのかしら?」
「ライアン夫人とかいってたね?」
「あら、そうだった? いったい、なぜ殺したんでしょうね?」
「きっと床下に金でも隠していたのさ」
「警察は、現場付近で目撃された人物を探しているようね。その男が犯人なのかしら?」
「まあ、そうだろうね」
 けたたましく呼び鈴が鳴った。二人はぎょっとした。

……巻頭より

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