「友よ、背を向けるな」 

生島治郎著

ドットブック版 240KB/テキストファイル 166KB

600円

元刑事の私立探偵志田司郎は、70過ぎと思われる婆さんからブラジルで行方不明の養子の探索を頼まれる。勇躍サンパウロに飛んだ志田はたちまち危地に……ブラジルのサンパウロを舞台にした生島ハードボイルドの雄編。

生島治郎(いくしまじろう、1933〜2003) 日本のハードボイルドの生みの親、第一人者。上海生まれ、引き上げ後、金沢に住む。早大英文科を出、知人の紹介で早川書房に入社。26歳のとき都筑道夫のあとをうけ『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集長。1963年、退社し、『傷痕の街』で作家としてデビューした。1967年には『追いつめる』で直木賞。以後、「傷跡」「黄土」「志田司郎」「兇悪」など多くのシリーズを手がけ人気作家となった。大沢在昌は生島治郎の作品を読んで作家をめざしたという。

立ち読みフロア
 それは、まるで梅雨みたいに、毎日じとじとと雨ばかり降りつづいている夏のある日のことだった。私自身の内心も、その気候にふさわしく、一向にパッとせず、爽快とはほど遠い気分だった。
 もっとも気候のせいにするわけにはいかなかった。私がうっとうしさをもてあましているのは、自分自身のせいだった。
 ようやく手に入れたわずかばかりの調査料を、つい調子に乗って、一晩のうちに呑みつくしてしまったのだ。
 おかげで、私は相変らずとぼしい預金通帳と、宿酔(ふつかよ)いに悩まされながら、事務所のデスクにすわったきり、雨の降りしきる窓外をぼんやり眺めていた。
 デスクの上には、本日、五杯目のコーヒーと、二十三本目の吸いかけの煙草が置いてあった。カフェインとニコチンで宿酔いを追っ払ってやろうと企(たくら)んだのだが、その企みもはかない望みに終りそうだった。
 コーヒーは胃の中をますますムカムカさせ、煙草の烟(けむり)は口中をネバネバさせるだけだった。
 それでも、残ったコーヒーを呑み干し、吸いかけの煙草をくゆらせた。誰も認めてはくれないだろうが、私はきわめて良心的で几帳面な私立探偵なのである。
 いったん、こうと決めたら、最後まで決着をつけずにはいられないタフでストイックな性格の持主のプロフェッショナルである。
 たとえ、胃潰瘍になろうと、肺ガンにかかる怖れがあろうとも、自分で呑むと決めたコーヒーは残してはならないし、吸いかけの煙草をそのままにしておくわけにはいかない。
 とはいうもののコーヒーを呑み干し、煙草を吸い終ったとたんに、吐き気がこみあげてきた。
 私はあわてて立ち上り、事務所の裏手にある小さなキッチンの中に走りこんで、流しの中に、思い切り吐いた。
 流しの上に吐きだしたものはコーヒーとアルコールの混ったひどい臭いのする液体ばかりだった。考えてみると、昨夜から今日にかけて、なにも食べていない。
 呑むときには、私はなにも食べない習慣だし、今朝からは宿酔いで、なにかを食べられるような状態ではなかった。
 私は何度も吐きつづけ、しまいには、胃液らしい黄色いものが出てくるだけだった。
 すべて胃の中のものを吐きだしてしまうと、いくらか気分がすっきりした。
(妙にイキがるのはやめようじゃないか)
 と私は自分自身に云いきかせた。
(なにが几帳面で良心的だ。なにがタフでストイックなプロフェッショナルだ。それより、ちっとは自分の身体をいたわるがいい。四十を過ぎたら、若いときみたいな無茶はきかないんだぜ)
 流しの上にかかっている、ふちの欠けた鏡をのぞきこんでみたら、蒼白い顔をした生気のない中年男の顔がうつっていた。
 私は口の端をタオルでふき、事務所へもどった。
 事務所へもどってみると、いつの間にか、一人の老婆がデスクの前に立っていた。少なくとも、七十歳は越しているだろうと思われるが、腰はピンと張り、眼はキラキラと輝いていて、あと十年以上はあの世に行きそうもなかった。
 身にまとっているのは、夏にもかかわらずグリーンのジャージーのワンピースに、黒いオーヴァーである。その両方とも、かなりの年代もので、袖口や襟(えり)のあたりがほつれていた。
 顔色は真黒に陽灼けして、皺(しわ)だらけだった。真黒に陽灼けした顔色と対照的に、髪は真白で、それをきつくひっつめてうしろでまとめている。髪をきつくひっつめているせいで、けわしく強情そうな眼が、つりあがり、いっそう鋭くみえた。
 大きな茶色のバッグを胸もとあたりに抱きしめていて、その両手は永年野良仕事に従事してきたかのように、節くれだち、頑丈そうだった。
「あんたが、この事務所の所長さんかね」そう訊ねた声は、男みたいに野太かった。
「そうです」
 と私は答えた。
「わたしが、この事務所の所長の志田司郎(しだしろう)です」
「ふん」鼻を鳴らし、老婆は事務所中をじろじろ見まわした。
「ここは、あまり景気がよさそうじゃないね。あんた、私立探偵として、腕のいい方ではないんじゃないかの」
「腕はいい方なんですが、なにしろ、仕事を選びますんでね。気に入らない仕事はひき受けないことにしているんです」
 と私は胸を張った。まんざら、虚栄心を満足させるための言辞(ことば)ではなかった。
 実際、私はどんな仕事にでもとびつくつもりはない。離婚の調査とか、スキャンダラスな事件の調査をして、恐喝者の手先になるような仕事は一切ごめんこうむっている。
「つまり、良心的な仕事をしているから、貧乏をしている。そう云いたいんかの?」
 老婆は皮肉な口調で云った。
「良心的な仕事もけっこうだが、酒を呑みすぎるのは感心でけん。さっき、ここまで、ガアガア、鵞鳥が鳴くみたいな声が聞えてきたが、あれはあんたの声じゃろう。宿酔いで吐いとったのとちがうのか? こうしていても、まだ、酒くさい臭いがぷんぷんするぞ」
 老婆はなにか妙ななまりのある声でしゃべりながら、低い鼻をひくつかせ、皺だらけの顔をしかめてみせた。
「どうやら、あなたの方が、わたしより観察力が鋭いらしい。私立探偵をやとうより、自分で私立探偵を開業した方が、成功しそうですな。いったい、なんのご用で、この事務所へいらしたんです?」
「もちろん、調査してもらいたいことがあったからじゃ」
 老婆は茶色いバッグをデスクの上に無造作に置いた。
「ところで、あんたの調査料というのは、どれくらいかの?」
「調査の種類にもよりますがね。ふつうは、一日に三万円。かかった経費は別にちょうだいすることになっております」
「一日に三万円かい。とすると、約三千クルゼーロになるわな。それは、高すぎる」
 老婆は、私にはなんだか意味不明のことをつぶやいた。
「おまけに、旅費その他の経費を加えると、えらい出費じゃな」
「いったい、どういう調査で、どこまで出張しろとおっしゃるんです?」
 と私が訊くと、意外な返事がかえってきた。
「ブラジルのサンパウロまで行ってほしいんじゃ」
 老婆はこともなげに云ってのけた。
「そして、わしの息子の行方を探してほしい。経費の方は、まあ、仕方がないじゃろう。思い切って奮発することにしよう」
 茶色いバッグを、老婆が開くと、そのなかには、一万円札の束がぎっしりとつめこまれてあった。
「ちょっと待って下さい」
 老婆がバッグの中から一万円札をつかみだそうとすると、私はあわてて制止した。
「いきなり、サンパウロへ行けといわれても、わたしにだって都合がある」
「どういう都合があるんじゃ?」
 老婆の眼がじろりと私をにらんだ。
「ひまをもてあましているくせに、ぜいたくなことを云うんじゃない。どうせ、日本にいたところで、ろくな仕事にありつけるわけじゃなかろうが。それより、仕事をしながら、海外旅行ができる方がよっぽどよかろう。もし、息子の行方をつきとめてくれたら、調査料の他に五十万円のボーナスを出してやろう」
「たしかに、けっこうなお話ですがね、もう少し、事情をうけたまわらないと、なんともご返事の申しあげようがありませんな」
 さすがの私も、この老婆の強引さには、いささか手を焼いた。

……巻頭より


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