「トーニオ・クレーガー」

トーマス・マン作・植田敏郎訳

ドットブック版 104KB/テキストファイル 72KB

300円

詩的世界に興味をいだく多感な少年トーニオは美少年ハンスにあこがれ、ブロンドのインゲに淡い恋心を抱くが報われない。トーニオは町を棄てて自立したあと、ふたたび二人の姿を目にするが……マンの自伝的青春の書。
立ち読みフロア
  冬の日は、厚い雲におおわれて、ミルク色にぼやけたまま、せまい町の上にかすかな明かりを投げていた。破風(はふ)造りの家々のたちならんだ小路は、じめじめして、風が吹きつけ、ときどき氷とも雪ともつかないやわらかいみぞれのようなものが降ってきた。
  学校がひけた。解放された生徒たちは、石を敷きつめた中庭をよこぎって格子門の外へなだれ出ると、右に左に、わかれわかれになって、急ぎ足で帰っていった。上級の生徒たちは偉そうに本の包みを左手で高々と肩におしつけるように抱え、右腕で風にさからってかじをとりながら、昼食をめざしていった。下級の生徒たちはうれしそうにかけだしたので、氷まじりの泥がまわりにはね返り、あざらしのランドセルの中で勉強の七つ道具ががちゃがちゃいった。けれども、ときどき落ち着いた足どりで歩いていく古参の先生の、ヴォータンのような帽子とユピテルのようなひげに出会うと、みんな神妙なまなざしで、帽子をぬいだ……
  「やっときたねえ、ハンス。」
と、もう長いこと車道で待っていたトーニオ・クレーガーはいって、ほおえみながら友人の方へよっていった。相手はほかの友人たちと話し合いながら門を出て、もう仲間といっしょに帰りかけていた……
  「え、どうして?」
と、友人は聞いてトーニオを見つめた……。「うん、そうだな。さあ、もう少しいっしょに歩こう。」
  トーニオは口をつぐんだ。目は曇った。今日の昼、いっしょに少し散歩しようと約束したのをハンスは忘れてしまい、今になってまた思い出したのだろうか?それなのに、ぼく自身は約束してからというもの、ほとんど忘れる間もなく楽しみに待っていた!
  「じゃ、みんな、さよなら。」
と、ハンス・ハンゼンは友人たちにいった。
  「それではぼく、これからもう少しクレーガーと散歩するからな。」
  こうしてふたりは、他の連中はぶらぶらと右の方へ歩いていったのに、左手に向かった。     
  ハンスとトーニオは、どっちも四時にやっと昼食をとる家庭の子どもだったので、放課後に散歩をするひまがあった。ふたりの父親は大商人で、かずかずの公職にもあるこの町の有力者だった。ハンゼン家はもう何代も前から下の川のほとりに広い材木置場をいくつも持っていて、大きな機械鋸(のこ)がぶんぶんしゅっしゅっと音をたてて木の幹を切り刻んでいた。ところがトーニオはクレーガー領事の息子で、肉太で黒いクレーガー商会の印をつけた穀物袋が通りを馬車で運ばれていくのが毎日のように見られた。クレーガー家代々の大きな古い邸宅は、町中でいちばん豪奢(ごうしゃ)なものだった。……知り合いの多いふたりは、ひっきりなしに帽子をぬがなければならなかった。それどころか、十四歳の少年たちが先におじぎされることもめずらしくなかった……

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