「捕物の話(二)」
――火付盗賊改・八州取締出役

三田村鳶魚著

ドットブック版 493KB/テキストファイル 89KB

400円

江戸学の祖、鳶魚が口述筆記でまとめた「捕物の話」の後編。「火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)」と「八州取締出役(はっしゅうとりしまりしゅつやく)」からなる。前者は重罪である火付け(放火)、盗賊(なかでも押し込み強盗)を取り締まった役職で、池波正太郎が、知る人ぞ知る長谷川平蔵を『鬼平犯科帳』で主人公にとりあげて、よく知られるようになった。後者は幕府の勘定奉行配下の役職で、関八州を取り締まり、俗に「泣く子も黙る」と言われるほど、恐れられた存在であった。国定忠治との関わりで締めくくられている。

三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)(1870〜1952)東京生まれ。本名、玄龍。新聞記者として日清戦争に従軍。寛永寺で得度。明治43年(1910)に『元禄快挙別録』を著して以降、考証にもとづく江戸時代の研究に従事。多くの著作をまとめ、江戸学の祖といわれる。稲垣史生氏も、鳶魚の薫陶をうけた一人である。

立ち読みフロア
 古いところはどういうふうになっていたかわかりませんが、いずれにしても、市内を巡邏(じゅんら)するのが火付盗賊改のもっぱらの仕事であったのが、天保以後になりますと、訴え所があって、詮議方(せんぎかた)という者がいる。これは与力と同心とで持っているのです。それから、召捕方があって、これは同心がもっぱらやる。町奉行所と違いまして、訴え所はありましても、民事はない。皆刑事ですから、仕事は片づきがいい。その代り、仕事の幅は広いので、江戸市中のみならず、江戸回り――その他御料のところに起った事柄は、取り扱うことになっておりました。江戸の者は、町奉行や勘定奉行は檜(ひのき)舞台、加役(火付盗賊改)は乞食芝居ということをいっておった。町奉行の白州(しらす)はもちろん、勘定奉行にも公事方(くじかた)がありまして、民事・刑事ともに白州があるのですが、その方は万事きちんとしていて、堂々たるものである。加役の方は、もっぱら刑事ばかりといううちにも、無宿者を扱うので、すべてのやり口が荒っぽくてぞんざいですから、乞食芝居と申したのであります。
 現に火付盗賊改という称えにしても、いつまでもきまらなかったくらいで、従って、役向きについてのことも、寛政七八年に定役を勤めた森山源五郎の書いたものを見ますと、古い御仕置伺帳(うかがいちょう)ただ一冊が引継ぎ書類になっているだけで、勤め方の控えもなければ、「代々記」もない、どういうふうに仕来っていたかもわからぬような有様である、ということがあるくらいで、すこぶるきまりが悪いのです。それもそのはずで、この役は、制度とか法律とかいう方の向きには出来上っていないので、綱吉将軍の時が一番火付盗賊改に名高い人が大勢いた時ですが、その人達というものは、いずれも御先手の中の腕っこきで、評判者の中から選(え)りすぐった人達である。久永(くなが)源兵衛でありますとか、中山勘解由でありますとか、久貝(くがい)忠左衛門でありますとか、特にこういう人間を擢(ぬき)んでて任命したのでありまして、この人達は荒者という評判を取った人ですが、その心持・風尚(ふうしょう)には、一種おもしろいところがある。いかにも法を三章に約すといった調子のところがあって、後々のきめのこまかい、こせこせした法文などでは、どうしても出て来ぬ味わいを持っているのです。
 久貝(くがい)のごときは、自分の組下から、当時御法度になっていた六方者(ろっぽうもの)――博奕を打ってあばれ歩く者――が出て検挙された、それを聞いて、自分は御役を勤めていながら、組下にそういう者が出ては相済まぬ、と言って、憤死してしまったというくらいの男です。そういう激烈なだけの男かと思うと、これはまたなかなかの数寄者でありまして、ふだん八畳敷の座敷におって、その居間は仕切ると長四畳になる。その仕切りの襖に、狩野養朴(かのうようぼく)に八景の図を描かせた。それもただ描かせたんじゃない。その襖をどういうふうに引っ立てても引き違えても、八景がちぎれちぎれにならぬように描かした。こういうこともするのです。またある時は、お客を大勢しましたところが、久貝(くがい)の庭には、信斎松(しんさいまつ)と申して、なかなか名高い十三蓋(がい)の松があった。この松は淀の城主でありました永井信濃守尚政(なおまさ)入道が寵愛されたもので、尚政は晩年信斎と号したところがら、信斎松と申したのでありますが、それを自分の庭へ移し植えたのです。これは当時としては容易ならぬ物好みで、久貝はそういうこともやった。さて、そのお客の一人が、有名な信斎松を眺めて、これは十三蓋あるが、もう一蓋減らしたら、さぞいい眺めになるだろう、と言って評判したのを、亭主の久貝が聞きまして、いかにも十二蓋にしたならばよく眺められましょう、と言うかと思うと、すぐに家来に言い付けて、上の一蓋を切り取ってしまった。あたかも夜中であったのに、時を移さず切らせたのです。
 中山勘解由についても、随分いろいろな話がある。酷吏であるから、かえってよくおさまりがついたのだ、といって褒められてもおりますが、この勘解由は、元来なかなかの仏者(ぶっしゃ)でありました。それが、六方男立てのあばれ者どもを鎮撫する命を受けた時分に、すぐに仏壇をぶちこわして、今日からはもう慈悲では治らない、というので、少しでも風体の変な者は、取っつかまえて、詮議もせずに斬ってしまった。それですから、例の旗本奴・町奴の検挙を二度ほどやりまして、首尾よく鎮静させることが出来たといわれております。その苛酷な、向う見ずな中山の話として、二人八左衛門という話が伝わっている。これは、六方者の中に、向溝(むこうみぞ)八左衛門という者がありましたが、大変仲間が多くて、ひどいあばれ者だというので、こいつを押えたところが、ほかに同姓同名の者がまだあるというものですから、つかまえたやつを処分せずに牢に繋いでおいて、まだつかまえない方が本物か、すでにつかまえた方が本物か、調べようとした。そうすると、一度は隠れて姿をくらましたやつが、私がお尋ねの向溝八左衛門でございます、私故に他人に牢舎の苦しみをさせるということになりましては、どうも辛抱出来ませんから、逃げて逃げられぬことはありませんけれども、他人に迷惑をかけるわけにはまいりません、と言って、自首して出て来た。そうして、この上は、すみやかに、先にお捕えになりました者を御放免を願いたい、という申立てを致しましたから、中山が両人を対質(たいしつ)させてみた。前につかまえたやつの方は、私の方がお尋ねの八左衛門に相違ございません、只今までは、何とかして、言い逃れることが出来るなら言い逃れようと思いましたので、かれこれ陳(ちん)じておりましたが、私に気の毒だと言って名乗って出る者があります上は、そういう者を罪に落して、身代りで助かるなどということは、本意でありません、と言う。二人とも、互いに自分が本物だと言って譲らない。それを勘解由がつくづくと聞いておりまして、今まで聞き込んでいるところによれば、旧悪免じ難きものがあるのであるが、只今、両人が義を立てて、堅く守っているところを見ると、それほど義の堅い者ならば、これから後、悪いことをしようとも思われない、両人とも、その心をいつまでも持っていて貰いたい、なにぶん向後を慎しんで暮すがいい、と言って、二人とも放してしまった。ろくに詮議もせずに人を斬ってしまうような勘解由が、この向溝八左衛門に対して、どっちが本物ということもきめず、二人が本当に罪を争うのを聞いて、すぐに放してしまった心持というものは、ちょっと物に喩えるのもむずかしいと思います。


……「火付盗賊改は乞食芝居」より


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