「最後の悲劇」

エラリー・クイーン作/田村隆一訳

ドットブック版 237KB/テキストファイル 239KB

500円

『X』『Y』『Z』に続くドルリー・レーン四部作のフィナーレ。シェイクスピアにからむ稀覯書の奇妙な盗難事件は謎の古文書をめぐる怪異な事件へと展開。だがドルリー・レーン最後の決死のがんばりが事件を解決に。大構想四部作の最後を飾る感動にみちた名編。ある詩人いわく、「私はミステリーを愛好する一詩人にすぎないが、もし傑作ミステリーを問われたら、ちゅうちょなく答えるだろう……それは『X』でもなければ『Y』でもない、クイーンの四大悲劇をあつかった四部作であると、そして、なかんずく、『最後の悲劇』をあげるだろう」
立ち読みフロア
  じつに奇妙な顎(あご)ひげだった。風変りで滑稽(こっけい)なと言ってもいいくらいだった。ちょうど、フランス人の使う鋤(すき)みたいな形で、ふさふさと顎(あご)も襟(えり)もかくし、全体がなんともはや妙な具合に波うって垂れ下り、先へ行くと二つに分かれてピンととがっている。クルクルときれいに巻いたまき毛の行列は、まるでゼウスのいかめしい彫像のひげのように、どこかあどけなく、しかも威厳がある。だが、人目をそばだてるものは、じつのところ、そのするどい二叉(ふたまた)の美でも回転のリズムでもなかった、その色彩こそ、驚異中の驚異だったのだ。
 まさしくそれは、ヨセフのひげ。まだら色でだんだら模様、おまけに縞(しま)がついていて、どう見ても旧約のヨセフの、あの『いろどれる衣』そっくりの色具合。黒いかと思うと青く、とたんに緑色にかわり、突然思いがけない色に映(は)えて美しかった。いたずら者の日光の仕業(しわざ)で、かくも変色したのだろうか。それとも、なにかはかり知れぬ目的で、その持ち主が実験台に身を横たえ、見事な顎ひげを薬品の壺につけたのであろうか。ともあれ、オリンポスの神々にも似つかわしいこのひげには、そんな由来があったところで、いささかも不思議ではない。これは歴史的なひげだ、とだれだって思うにちがいない、博物館に保存して、後世の人を感嘆させるだけの値打ちのあるひげだ、と。
 ところでサム警部は、さきごろ、ニューヨーク警察本部を定年退職し、第一線から離れたというものの、もともとジッとしていられない性分、いち早く開業した私立探偵で、はやる血潮をなんとか抑えているといった状態だったが、なにせ四十年も警察で過ごしたものだから、およそ人類の驚異などというものには無感覚になっていたのである。ところが、そのサムが、こともあろうに、このおだやかな五月の月曜日の朝、訪ねて来た客の顎からモッソリと垂れさがっている異様なひげを目にしたとき、まずギョッとさせられ、それからうっとりと見とれてしまった、という次第なのだ。警部の経験のどこを探しても、かくも色とりどりの、繊毛(せんもう)の不思議なコレクションは見あたらなかった。いつまでもいつまでも、見つめて見あきるということがない。
「おかけなさい」やっと力のぬけた声で言いながら、サム警部は、卓上のカレンダーにチラッと目をやり、ひょっとしたら、物忘れの術にでもかかって、今日が四月馬鹿だということを忘れていたのじゃあるまいか、などと考えたほどだった。それからサムは、椅子にどっかと大きな腰をおろし、ひげ剃りのあとも青々しい角ばった自分の顎をさすりながら、驚嘆と畏敬のまなざしで、客を見つめた。
 虹ひげの男は、落着きはらって腰をおろした。長身痩躯(そうく)、とサム警部は観察したが、それから先はどうもうまくいかない。というのは、この男の他の部分は、顎と同様、神秘のヴェールにつつまれていたからなのだ。えらく着ぶくれしていたが、厚い布を何枚も何枚も巻きつけているような感じだった。さすがに警部の熟練した眼は、手袋の口もとからちょっとのぞいた手頸の痩せ具合や、脚の細さから、客が痩せているというまぎれもない徴候をよみとっていた。だが、男が青色の眼鏡をかけているために、その眼をのぞきこむことはできなかった。それに、客がサムの部屋に入るとき、あざやかな無頓着(むとんちゃく)ぶりで脱ぐのを忘れている、なんとも形容のつかぬ中折帽(フェドラ)のおかげで、男の頭のかっこうも、髪の毛の色も、うまい具合にすっぽりとおおい隠されているのだ。
 おまけに男は、まるでゼウスのように、超然と沈黙を守っているのである。
 サムは咳ばらいした。「で、ご用は?」彼は誘うように言った。
 顎ひげが面白がっているようにゆれた。
「いったい、ご用件はどんなことなんです?」

……《プロローグ ヨセフのひげ》より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***