「青列車殺人事件」

アガサ・クリスティ/松本恵子訳

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500円

ロンドンのビクトリア駅発パリ・マルセーユ経由ニース行きの特急「青列車」。その中で米国の富豪の娘ルスが殺害され、「火焔の心臓」と名づけられたルビーの宝石が奪われた。この宝石はもとロシアの女帝の胸をかざり、苦悩、絶望、嫉妬など、その通ってきた道に、悲劇や暴力の数々を残してきたいわくつきの宝石だった。ふたたびその持ち主を不幸が襲ったのだ。たまたま同じ列車に乗り合わせたポワロは「私は、エルキュル・ポワロでございます」と言いながら取り調べをする警察署長の前に姿をあらわした……。
立ち読みフロア
 その男がパリのコンコルド広場を横ぎったのは、真夜中に近いころであった。やせたからだは立派な毛皮のオーバーに包まれているにもかかわらず、なんとなく弱々しくつまらない人間のように見えた。
 それは小柄で、鼠(ねずみ)のような顔つきの男であった。彼のことを目立つような役割を演ずるとか、あるいはまたどんな階級においても表面に浮かび上がるような人物ではないと、評する者があるかもしれないが、実は世界の運命を左右するような大きな役割を演じている諜報界の大物である。
 現にある大使館では彼の帰館を待っていた。しかし彼はまず大使館では公式に認めていないある仕事を片づけてしまわなければならなかった。彼の顔は月光をうけて白くけわしく光っていた。
 彼はセーヌ河を越えて、パリでもあまり香しくない区域の一つへ入って、とある荒れはてた高い建物の四階へ上がって行った。彼がまだ戸をノックしないうちに、彼の到着を待ち構えていたらしい女が戸をあけた。彼女は別に挨拶もしなかったが、彼がオーバーを脱ぐ手伝いをして、けばけばしく装飾した居間へ導いた。電燈にうすよごれたピンクの花ぐさりの笠(かさ)がかけてあって、光線をやわらげていたが、それでもその娘の毒々しい化粧をごまかすことはできなかった。
「オルガや、万事うまくいっているかね?」
「うまくいっているわよ、クラスニンさん」
「尾行(つけ)られたとは思わんが……」
 と彼は窓に近づき、カーテンを少しひいて注意深く外をのぞくと、ぎょっとして後へさがった。
「向こう側の歩道に……男が二人いる……私(わし)にはどうも」
 彼は心配するときの癖で爪(つめ)をかみはじめた。
「あの人たち、あんたの来る前からいたわよ」
 とロシア娘のオルガは、慰めるようにいった。
「同じことさ、私にはあの連中がこの家を見張っているような気がするのだ」
「それがどうしたっていうの? あの人たちが知っていたとしたって、ここから出て尾行(つけ)られるのは、あんたじゃないのにさ」
 彼のくちびるに残忍な薄笑いが浮かんだ。
「その通りだね……あのアメリカ人は、ほかの連中と同じように、自分のことは自分で気をつけるさ」
「そうだわね」
 彼は再び窓ぎわへ行った。
「厄介なお客さんだな。警察に感づかれているんじゃあるまいな。とにかく暴力団のあんちゃんが、いい猟をしてくれるように祈るよ」
 オルガは頭をふった。
「もしそのアメリカ人が、皆のいうような人間だとすると、へたな暴力団なんか、三、四人も束になってかからなくっちゃ勝てっこないわよ」
 彼女はちょっと言葉を切って、
「あたし思うのにね……」といいかけると、
「それで?」
「何でもないの、ただ今日の夕方、男が二度もこの前を通ったのよ、髪の毛の真っ白な男が」
「それがどうしたというのだね?」
「こうなのよ。その男が二人の前を通りしなに手袋の片方を落としたの。すると二人のうちの一人が、それを拾って渡したわ。まずい手口ね」
「白髪(しらが)の男が二人の雇主だというのかね?」
「そんなところだわね」
 ロシア娘は驚きと不安を示した。
「ところで、包みは安全かね? いじくりまわされたりしないだろうね。だいぶ噂にのぼっているらしいから……」
 彼は再び爪をかみはじめた。
「あんた自分で判断したらいいじゃないの」
 彼女はストーブの前に身をかがめ、石炭をうごかして、その下に積んであった焚きつけ用のまるめた紙くずの中から、古新聞にくるんだ長方形の小包を取りだして男に渡した。
「うまい思いつきだね!」
 彼は気に入ったらしくうなずいた。
「このアパートは二回も家探しされたのよ。あたしの寝台の藁蒲団が、かきさいてあったわ」
「私のいった通りだ、噂がひろがりすぎている。値段をねぎったりしているから悪いんだ」
 彼は新聞紙を解いた。中には小さなハトロン紙包みが入っていた。彼はその紙をあけて中身を改めると、急いで包んでしまった。ちょうどその時、ベルがけたたましく鳴った。
「アメリカ人は時間が正確だわね」
 オルガは時計をちらと見ていった。
 彼女は部屋を出て行って、まもなく一見してアメリカ人と、うなずける肩幅の広い大柄な紳士をともなって来た。彼の鋭い視線は彼女から彼へうつった。
「クラスニンさんですね」
「私がクラスニンでございます。こんな不便な場所でお目にかかる手はずにいたしましたことを、お詫び申し上げます。しかし、どうしても秘密を要しますので……私はこの取り引きに関係していることを知られたくないものでございますから……」
「なるほど」
「あなたはこの商取引に関してはいっさい公にしないで欲しいと希望されましたな。実はそれが、この取り引きの条件の一つになっておりますんですね」
「その点はすでにお互いに、了解ずみです。では、ひとつ品物を出していただきましょう」
「金をお持ちになられましたか? 紙幣で」
「持って来ました」とアメリカ人は答えた。
 しかし彼はそれを取りだす様子は見せなかった。クラスニンはいくらかためらってから、テーブルの上の小包を指さした。
 アメリカ人は、それを取りあげて包みを解いた。彼は中身を出すと、スタンドのそばへ持って行って丹念に検(しら)べた。そして、満足すると、ポケットから分厚の紙入れを出し、その中から紙幣束(さつたば)を抜きだして、ロシア人に渡した。彼はそれを注意深く数えた。
「よろしいですね」
「ありがとうございます。間違いなくございます」
 アメリカ人はハトロン紙包みを無造作にポケットにすべりこませると、オルガ嬢に向かって頭をさげ、背後の戸を閉めて部屋を出て行った。後に残った二人の視線が出あった。男はかわいた唇を舌でぬらした。
「あの人は、無事にホテルへ帰りつくかね……」
 いいながら、二人は窓へ寄った。そしてちょうどアメリカ人が下の往来へ出て行くところを見た。彼は左へ向かって、ふり返ろうともしないで、まっすぐに、すたすた歩いて行った。二つの人影が戸口から忍び出て、音もなくその後をつけて行った。やがて追われる者も追う者も夜の闇の中に吸いこまれてしまった。

……巻頭「白髪の男」より

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