「夜の樹」

トルーマン・カポーティ/龍口直太郎訳

ドットブック版 263KB/テキストファイル 169KB

500円

「夜の樹」は、1949年に出版されたカポーティの唯一の短編集で、「夢を売る女」「誕生日の子供たち」「最後の扉を閉めよう」「銀の酒壜」「ミリアム」「無頭の鷹」「私の言い分」「夜の樹」の8編からなる。多くは人間の深奥にひそむ欲望や夢をシュールに描いた作品であるが、「誕生日の子供たち」のような幼年期への郷愁から生れた自伝的色彩濃厚な心優しい作品も含まれている。

トルーマン・カポーティ(1924〜84)ニューオーリンズ生まれのアメリカの作家。19歳で発表した「ミリアム」でオー・ヘンリー賞を受賞、23歳で初めての長編「遠い声・遠い部屋」を出し、若き天才作家として評判になった。中編「ティファニーで朝食を」は映画化されて大ヒット、66年に発表した「冷血」は、実際に起きた一家殺人事件を題材にすることにより、ノンフィクション・ノベルという新たなジャンルを切り開いた。

立ち読みフロア
 昨日の午後、六時のバスがミス・バビットを轢(ひ)き殺した。
 その事についてどう言ったらいいか、私にはよくわからない。なんといっても、彼女はまだ十歳にすぎなかったが、それでもこの町の私たちのうち、きっとだれひとりとして、彼女のことは忘れられないだろう。ひとつには、彼女のしたことに、何ひとつとして尋常ふつうのことがなかったからであろう。一年前、私たちが彼女に会ったそもそもの初めからそうだった。ミス・バビットとその母親は、同じ六時のバスでここに到着したのだが、そのバスはモビール〔アラバマ州南西部の港町〕からずっとやってくるのだ。その日はちょうど私の従弟(いとこ)ビリー・バーブの誕生日だったので、町の子供たちはたいていこの私たちの家に集まっていた。
 私たちが表のポーチにだらしなくすわって、トゥーティ=フルーティ〔刻んだ砂糖漬けの果物を入れたアイスクリーム〕やデヴィル・ケーキ〔チョコレートを加えた暗黒色の菓子〕を食べていると、そこへバスが死人の曲がり角(デッドマンズ・カーブ)をまがり、おそろしい勢いではいってきた。それは雨が一滴も降らない夏のことで、乾ききって埃(ほこり)がすべてのものを覆っていた。ときによると、車が道路を通りすぎたあと、一時間かそれ以上の間、舞い上がった埃が静かな空中にそのままとどまっていた。エル叔母さんは、早くハイウェイの舗装をしてくれないと、海岸に引っ越してしまうと言ったが、叔母さんがそう言いはじめてから、ずいぶん時がたっていた。
 ともかく私たちはポーチにすわり、トゥーティ=フルーティが皿の上で溶けかかっていたが、そのとき、何かが起こってくれればいいがと願っていた矢先、とつぜん、何かが起こったのである。赤い道路〔アメリカ南部の土は赤褐色のところが多い〕の埃(ほこり)の中から、ミス・バビットが現れたからである。糊(のり)のよくきいた、レモン色のパーティ・ドレスを着たこの痩せぎすの少女は、片手を腰に当て、もう一方の手で老嬢よろしくの日傘をかざしながら、いかにも大人じみた気取った歩き方で、のっそりのっそりやってきたのだ。彼女の母親はボール紙製の二つの旅行鞄と手巻き式の蓄音機(ヴィットローラ)を引きずるようにして、あとからのろのろとついてきた。この婦人はもの静かな眼を持ち、空腹そうな微笑をたたえ、痩せほそって毛深い女であった。
 ポーチの上の子供たちがあんまりシーンと静まりかえってしまい、スズメバチの一群が円錐(えんすい)状にかたまってブンブンうなりはじめたが、女の子たちはいつものように悲鳴をあげたりしなかった。彼女たちの注目もミス・バビットとその母親の上に注がれていたが、二人は今や門のところまでやって来ていた。
「ちょっと失礼いたしますが」ミス・バビットの呼びかけた声は、きれいなリボンを思わせる、絹のようで子供らしく、映画スターや学校の女の先生を思わせる、非の打ちどころのないほど正確なものであった。「このおうちの、大人の方とお話できないでしょうか?」
 となると、もちろんエル叔母さんか、少なくともある程度まで私自身ということになった。ところが、ビリー・バーブやそのほかの男の子たちは――このうち一人として十四歳を越えたものはいなかったのだが――私たちのあとについて門のところまでやってきた。その少年たちの表情から判断して、きっと彼らはそれまで女性というものを見たことがなかったのだろう、そう誰でも思ったことであろう。たしかにミス・バビットのような女性を見るのは初めてだった。エル叔母さんの言ったように、小さな女の子がメークアップなどするという話をいったい誰が聞いたことがあるだろう? タンジー〔当時アメリカではやっていたオレンジ色の口紅〕のために彼女の唇にはオレンジ色の輝きができ、どちらかといえば仮装用の鬘(かつら)に似た彼女の髪の毛は、バラ色の巻毛を積みかさねたみたいであり、その眼には眉墨で粋(いき)な線が描かれていた。それでもなお、彼女には痩せた女の威厳がそなわっていて、いっぱしの貴婦人であったし、さらに驚いたことには、まるで男みたいに相手の眼をまともに見つめるのだった。
「あたくしはミス・リリー・ジェーン・バビット、テネシー州のメンフィスからまいったミス・バビットと申します」と彼女はいともおごそかに名乗りを上げた。男の子たちはみんな自分の爪先に視線をおとし、ポーチに残っていたコーラ・マッコール――当時、ビリー・バーブが求婚していた相手であったが――はほかの女の子たちを先導して、クスクス笑いのファンファーレを浴びせかけた。
「《いなか》のお子さんたち」ミス・バビットはものわかりのよさそうな微笑をたたえると、自分の日傘を生意気そうにぐるっと一回転させた。「あたくしの母です」と母親を紹介すると、この地味な婦人は、そのとおりだといわんばかりにチョコンと頭をさげた。「あたくしの母とあたくしは、こちらにお部屋を借りることになりました。おそれ入りますが、どなたかそのおうちを教えてくださいませんかしら? ミセス・ソーヤーさんとかおっしゃる方のおうちですの」
「あら、そうですか」とエル叔母さん。「あすこがソーヤーさんのおうちですよ、すぐ通りの向こう側ですわ。この辺で下宿屋といえばあすこだけで、屋根のあっちこっちに、二ダースばかり避雷針が立っている、古い、高い、暗い建物です。ソーヤーさんは雷が鳴ると死ぬほどおびえてしまうんですのよ」

……「誕生日の子供たち」冒頭より


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