「審判」

カフカ/中野孝次訳

ドットブック版 270KB/テキストファイル 216KB

500円

銀行の業務主任ヨーゼフ・Kは朝の起き抜けに逮捕される。だが罪状は明らかにされない。法廷に出ても弁護士を頼んでも、肝心のところは何もつかめず、必死になればなるほどいよいよ不可解の度は増してゆく。……組織・機構・制度のとらえがたいぶきみさと、それに翻弄される個人との関係を茫漠としながらも確実なものとして力強く描ききったカフカの代表作。読者は不可思議な世界に否応なく引き込まれていく。

フランツ・カフカ(1883〜1924)
チェコのプラハに生まれ、ドイツ語で作品を書いたユダヤ人作家。プラハ大学で法律を学んだあと、労働災害保険局に勤務し、余暇をみつけて執筆をした。結核を患って41歳で亡くなった。カフカは、友人の作家マックス・ブロートに自分の死後、未刊の原稿をすべて焼却してくれるように頼んだが、ブロートは、約束に反してそれらを公にした。カフカの長編代表作「審判」「城」「アメリカ」はこうして世に出た。

立ち読みフロア
 だれかがヨーゼフ・Kを中傷したに違いなかった。なぜなら、なにも悪いことをした覚えがないのにある朝逮捕されたからである。彼に部屋を貸しているグルーバッハ夫人の料理女が、いつもは八時ごろ朝食を運んでくるのに、この日にかぎってやってこなかった。こんなことはこれまで一度もなかった。Kはそれでもなおしばらく待ってみた。枕に頭をつけたまま、向いの家に住む老婆がなみなみならぬ好奇心をみせてこっちを観察しているのを見ていて、それから、いぶかしくもあれば腹も空いてきたのでベルを鳴らした。するとすぐノックの音がして、この家で見かけたことのない男が入ってきた。痩せているががっしりしたからだつき、ぴったり身についた黒服を着ている。旅行服に似ていろんなひだやポケット、留め金、ボタンにベルトまでついているので、何の役に立つのかはわからなかったがしごく実用的に見えた。
「どなたですか」とKはたずね、すぐベッドに半身をおこした。
 男はしかし自分が来たのは当然のことだというように質問を聞き流して、逆にむこうから言った。
「ベルを鳴らしましたね?」
「アンナに朝食を持ってきてもらおうと思ってね」
 とKは言い、さしあたりは黙ったまま、注意力と頭をはたらかせてこの男が何者かたしかめようとした。しかし男はいつまでも彼の視線にさらされてはいないで、少し開けておいたドアのほうにむきを変え、ドアのすぐうしろに立っているらしいだれかに言った。
「アンナに朝めしをもってきてもらいたいんだってよ」
 小さな笑い声が隣室で起こって、そのひびきからはとなりにいるのが複数の人間なのかどうかわからなかった。こんなことで見知らぬ男のいままで知らなかったことがわかるはずなどなかったのだが、彼はそれでも警告するといった口調でKに言った。
「そういうわけにはいかない」
「そんなことは初めて聞くぞ」とKは言い、ベッドからとびおりてすばやくズボンを穿いた、「ぜひ知りたいものだね、となりの部屋にいるのがどんな人たちなのか、グルーバッハ夫人がこんな妨害行為にたいしどう責任をとってくれるのか」
 そう言いながら彼はむろんすぐに、こんなこと大声で言うべきじゃなかったし、言ったために見知らぬ男の監督権といったものをある程度認めることになってしまったのに気がついたが、今はそれもたいしたこととは思えなかった。いずれにしろ見知らぬ男はそうとったらしくて、言った。
「ここにいたほうがいいんじゃないのか」
「ぼくはここにいたくもないし、話しかけられたくもない、きみが身分を明かさぬうちはね」
「好意で言ったつもりだがね」と見知らぬ男は言って、こんどは自分からドアを開けた。
 Kが、気を抑えてゆっくり入ってゆくと、となりの部屋は一見したところ昨晩とほとんど変らぬように見えた。ここはグルーバッハ夫人の居間で、いつもは家具や敷物や花瓶や写真やでぎっしり詰った部屋が今日はいくぶん広いような気がしたが、それとてすぐにそうとわかったわけではなかった。ましてやここの第一の変化は、開けた窓ぎわに本を持った男が一人坐っていたということだったので、なおさらわからなかったのだ。そいつがいま本から目をあげて、言った。
「部屋にいなければいけない! フランツがそう言わなかったかね?」
「言ったよ。で、あなた方はどうしようっていうんです?」
 Kはそう言って、この新しい知合いからフランツと呼ばれた戸口のところに立止っている男に目を転じ、また視線をもとにもどした。
 開いている窓ごしにまたあの婆さんが目に入った。彼女はいかにも老人らしい好奇心まるだしに、いままた真向いになった窓ぎわに歩みよって、さらに事の次第を見とどけようとしていたのだ。
「ぼくはやっぱりグルーバッハさんに――」
 とKは言って、二人の男から、といっても実際は彼から遠くはなれているのだが、身をもぎ離す仕草をして、ずんずん歩いていこうとした。
「だめだ」と窓ぎわの男は言うなり本を小机の上に放りだして立ち上った、「勝手に出てってはいけない。あんたは逮捕されたんだ」

……第一章冒頭


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