「試行錯誤」

アンソニー・バークレー/ 中桐雅夫訳

ドットブック版 341KB/テキストファイル 249KB

700円

「ロンドン・レヴュー」誌の寄稿家トッドハンターは、大動脈瘤であと数か月の寿命と宣告された。彼は熟考のすえ、余命の残るあいだに「有益な殺人を犯そう」という結論に達する。めざす人物はすぐに見つかった。それは「吸血鬼」とよんでもいいような酷薄非情な女だった。ファローウェイ一家はその犠牲となってあえいでいた。彼は拳銃を忍ばせて夕闇のなか女の家を訪れ、椅子にすわる女めがけて発砲した…「殺意」とならぶバークレーの代表作。

アンソニー・バークレー(1893〜1970)英国生まれ。本名はA・B・コックス。「パンチ」誌にユーモラスな雑文を書いたりしたあと、ミステリ執筆に転向、「毒入りチョコレート事件」(1929)の知的ユーモアの利いた作風で高い評価を得た。その一方でフランシス・アイルズの筆名で「殺意」「犯行以前」などの心理サスペンスに重きをおいたミステリも発表し、こちらでも有名になった。バークレー名義の代表作には他に「第二の銃声」などがある。

立ち読みフロア
 大動脈瘤で、あと数カ月の生命しかない、と医者から宣告された時は、ローレンス・トッドハンター氏はわが耳を疑った。その様子を見た医者は、「時に、君はいくつだね?」とたずねた。
 やせた胸のあたりのYシャツのボタンをかけながら、「五十一だよ」とトッドハンター氏は答えた。
「なるほど。それに、非常に健康だったことはなかったね」
「近年はね」とトッドハンター氏はまじめくさって言った。「そう、確かにね」
 医者は聴診器をふりまわした。「じゃあ、あまり欲ばらぬことだな。君の血圧はここ何年も高すぎていたから、もし僕の指示に従っていなかったら、とっくに死んでいたところだよ」古い友達であるこの医者が、こんな無情な言葉を吐くとは、とトッドハンター氏は思った。
 彼は皮肉に笑いとばそうとしたが、実際に口を出たのは虚勢をはったかん高い笑いだった。「そりゃそうさ、しかし、数カ月しか生きられないと言われてみると……わが身に起ったことではなく、ロマンチックな小説のなかの出来事のようだな」
「こういうことは実生活にもしばしば起るものさ」と医者はすげなく答えた。「つまり、君の病気のほかにも、不治の病は沢山あるんだ。癌はいつものことだ。肉体はおそかれ早かれ燃えつきるものだ。非常に複雑な組織だからね。むしろこんなに長く機能を発揮し続けることの方が不思議だよ」
「君は死をあまりに軽く見すぎているようだな」とトッドハンター氏は憤慨して言ったが、その《死》という言葉で《僕の死》を意味したのであった。
「その通りだ」と医者は薄笑いを浮かべて言い返した。
「えっ?」
 一瞬、トッドハンター氏は不意を打たれて驚いた。誰も死を軽視できるはずはないし、とくに自分自身の死の場合はそうだからだ。
「軽く見ていると言ったんだよ。うん、僕は信心家じゃあない。すくなくとも、普通にいう宗教的な人間じゃない。たまたま、僕が生き残ることを確信しているだけさ」
「おお」とトッドハンター氏はややぼんやりとして言った。
「僕はまた、物質界における現在のこの生活は、いまいましいほど厄介なものだと信じている。だからそこから脱出するのが早ければ早いほどいいと思ってるんだ。死にゆく人に同情をさせようとするのは、牢獄から自由の世界へ出てゆく人に同情せよというようなものだ」
「こりゃあ、ひどい」とトッドハンター氏は目をまるくして意見を述べた。「いいボルドー葡萄酒には君とおなじくらい眼がない人間にとっては、ちょっとひどい言葉だね」
「囚人は慰めになるものを持たねばならん」と医者はなお話をつづけた。「牢獄に残された連中に同情することだよ。連中にはめいめい失うものがある、それにしても、悲しむより羨むべきところだが、君の場合には失うものもないのだ。女房はいないし、子供も、近しい親戚さえもない。全然幸運だよ。君は心を悩ますことなく、牢獄から出てゆけるのだ」
 トッドハンター氏はちっとも自分が幸運だとは思っていなかったので、いささか腹を立てて、ぶつぶつ言った。
 医者はさらに、「だが、君がこの見方をしないなら、君ができるだけ長く牢獄の中にとどまっていられるよう、努力せねばならない」とやさしい口調で続けた、「もともと僕は、君のような機会がくればいいとさえ思っているがね。打明けていえば君はマダム・タッソー〔ロンドンの蝋人形館〕のあわれな老人を思い出させるよ、バスティーユの監獄から暴徒の手で解放されながらどうしてもそれが腑に落ちなかった男さ」
「馬鹿なことを言うなよ」とトッドハンター氏は怒った。
「怒っちゃいかん」と医者は忠告した。「それが第一だ。感情をたかぶらせると、即座に牢獄からほうり出されるよ。力仕事なども駄目だ。決して走っちゃいかん、ゆっくり歩いて、二階へ上る時は一段ごとにやすむ。興奮は禁物だ、気をつけていつも気楽な気持でいるようにね。無味乾燥な生活だが、こうすれば、くいのばせる。食物はこれ以上減量はできないね、さもなければそれもやりたいところだ。何にしても大動脈は六カ月以内に駄目になるよ、どんなに注意していても、せいぜい一年だね。かくさずにというから、率直な話をしたんだよ」
「そうだったね」と、つらそうにトッドハンター氏。
「できるだけ休息をとり給え」と医者は続けた。「アルコール類は一切避ける。それに禁煙。あとは運だ。僕ならここからまっすぐ家へ走って帰って、着いた途端に死ぬ方を選ぶがね。時に、遺言書はつくっているんだろうね?」
「知るものか」とトッドハンター氏は不愉快そうに言った、「まるで鬼だよ、君は」
「とんでもない」と医者は憤慨してやり返した。「鬼とは何だ、君の因襲的なのにもあきれたよ。ずっとそうではあったがね。死にゆく人を気の毒がるのは慣習だから、僕にも気の毒がれというのだろうが、そのかわりに、君が羨ましいと言ったら、僕のことを鬼だとおっしゃる」
「よろしい」トッドハンター氏は厳然と言った。「君は鬼ではない。しかし僕の幸福を心から心配してくれるあまりに、君の診断に色がついたかどうか、疑わざるを得ないよ。言いかえればだね、別の医者の意見を聞いてみたいんだ」
 医者は歯をむきだして笑い、一枚の紙片を手元に引き寄せた。「そんなこと言ったって驚かないよ。三人でも四人でも相談してみるんだね。僕の正しいことが証明されるだけだ。一人紹介しよう。非常に堅い人物だ。おそらく、この種の病気には一番だが、三ギニーはとられるよ、君のような男には、それだけの値打ちはあるがね」
 トッドハンター氏はゆっくり上着を着て、厭々ながら言った、「本当は、君もみかけほど頑固じゃないようだね」
「僕の話に何か意味があるらしいというのかね? うん、完全な意味があるさ。僕の意見では、生き残る場合は科学的に証明されるのだ。だがそれが何になる? うん、肉体的状態よりも低い、また従って一層不快な状態はあり得ないんだ。ということは、普通の、物のわかった人間にとっては、肉体の次の状態の方がかなり愉快なものに違いないのだ。そこで必然的にこういう結論に――」
「わかった、わかった」と言ってトッドハンター氏は別れを告げた。
 いささか夢のような気持を抱きながら、トッドハンター氏はタクシーを拾ってウェルベック街へ向かった。貧しいわけではなかったが、自分の住んでいるリッチモンドからウェスト・エンドヘ行くのに、タクシーを使ったのはこれが最初だった。彼は健康についてとおなじく、金のことにも留意していたからだ。しかし、今の状況はタクシーを使うのが至当と思えた。その専門医は三ギニー受取ったが、彼の診断も、養生法も、あらゆる点で、前の医者のそれとまったくおなじだった。
 驚いたトッドハンター氏は別の車を拾った。彼は念入りな男で、どんな問題についても、最低三人の別の人物の意見を聞いてからでないと、自分の心を決めることはなかった。彼は気を取直して、今までの二人とは全然連絡のなさそうな専門医のところへ出かけたのだ。そして、三番目の医者の診断もまったくおなじだということを知って、彼はやっと納得した。
 彼はタクシーに乗って、リッチモンドに戻った。

……
第一部 第一章 巻頭

購入手続きへ    


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***