「凱旋門(上・下)」

レマルク/山西英一訳

(上)ドットブック版 235KB/テキストファイル 209KB
(下)ドットブック版 249KB/テキストファイル 226KB

各500円

「ふたりは細い雨の降っている、人影一つない灰色の街を歩いていった。街の端までくると、ふたりのまえにまた広場がひろびろと果てしもなくひろがった。流れる白銀の糸の中から、凱旋門のどっしりした灰色の姿が、震えながら空高くそそりたっていた」……強制収容所を脱走して、フランスに不法入国、幽霊外科医として、もぐりの宿オテル・アンテルナショナールに不安な生活をおくっているラヴィック、天涯孤独の歌い手で、端役の女優マヅー、二人はふとしたきっかけで知り合うようになる。第二次世界大戦前夜の凶暴な嵐が吹き荒れつつあるパリを舞台に、避難民たちの不安と絶望、愛と復讐をみごとに描ききった名作。ラヴィックとマヅーの飲むカルヴァドスは当時、世界的流行にまでなった。

エリッヒ・マリア・レマルク(1898〜1970)はドイツのオズナブリュック生まれ。第一次大戦に従軍し、29年「西部戦線異状なし」を発表して一躍有名になる。ナチスに国籍を剥奪され、その著作はナチスの宣伝相ゲッベルスみずからの手で焚書にされた。妹は強制収容所で虐殺された。のちアメリカに移住して帰化した。代表作「汝の隣人を愛せ」「生命の火花」「愛する時と死する時」

立ち読みフロア
 女は、斜《はすか》いに、ラヴィックのほうへ近づいてきた。早足にあるいていたが、妙なふうによろめいていた。ラヴィックは、女がすぐそばまでやってきたとき、はじめて女に気づいた。みると、頬《ほお》骨の高い、目と目の間のひろい、青ざめた顔をしていた。その顔はこわばって、まるでマスクでもかぶったようで、げっそりこけているようにみえた。彼は女の目が街燈の光をうけて、ガラスみたいにひどくうつろな表情をしているのに気づいた。
 女はからだが触れるほどすれすれに、彼のわきを通りぬけた。ラヴィックは片手をのばして、女の腕をつかもうとした。とたんに、女はよろよろとよろめいた。もし彼がつかまえてやらなかったら、倒れてしまったろう。
 彼は、女の腕をしっかりつかまえた。「どこへいくんです?」ちょっとしてから、彼はたずねた。
 女は大きく目をみひらいて、じっと彼をみつめた。
「放してください!」女はささやくようにいった。
 ラヴィックは返事をせずに、なおも女の腕をつかんでいた。
「放してください! どうなさるんです?」女は、ほとんどくちびるも動かさずにいった。
 ラヴィックは、女が自分をちっともみていないような気がした。女は彼をすかして、どこかうつろの夜の闇《やみ》をみている。女にとって彼は、なにか自分をひきとめたもの、なにか自分が話しかけているものにすぎなかった。
「放してください!」
 商売女でないことは、すぐわかった。酒に酔ってもいなかった。彼はもう、女の腕をそんなに強くつかんではいなかった。振り放そうと思えば、らくにふり放すこともできた。しかし、女はそれに気がつかなかった。ラヴィックはしばらく待っていた。それから、「いったいどこへいくんです? 夜、ひとりで、パリの街をいま時分?」と、もういちど静かにいって、腕を放した。
 女は黙っていた。でも、先へはいかなかった。いったんひきとめられると、もう二度とあるきだすことができないように。
 ラヴィックは橋の欄干《らんかん》によりかかった。手の下に、しっとり湿った、ざらざらした石の肌《はだ》が感じられた。「きっとあそこだね?」彼は頭をうしろへふりむけて、下のほうを指さした。そこには、セーヌ川が灰色の光をちらちらうつしながら、ポン・ド・ラルマの橋かげのほうへ、休みなく、ゆっくり流れていた。
 女は返事をしなかった。
「早すぎますよ」と、ラヴィックはいった。「十一月じゃ早すぎますよ。そして、とても冷たいですよ」
 彼はタバコの包みをとりだして、ポケットの中のマッチをまさぐった。小さなマッチ箱の中には、棒が二本しかのこっていなかった。彼は用心しながら、からだをかがめ、両手でマッチの火をかこって、川面《かわも》から吹いてくるかすかな風に消えないようにした。
「わたしにもタバコを一本くださいません?」女は抑揚のない声でいった。
 ラヴィックは、からだをおこして、タバコの包みを女にみせた。「アルジェリアですよ。外人部隊の黒タバコです。きっとあんたには強すぎるだろう。ほかのをもってないんでね」
 女は頭をふって、一本とった。ラヴィックはマッチの火をさしだした。女はせかせかと、深くすった。ラヴィックは、マッチの棒を欄干から放りなげた。マッチはちょっと小さな流れ星みたいに、闇の中を落ちていって、水面にとどいて、消えた。
 タクシーが一台、橋の上をゆっくりやってきた。運転手は車をとめた。こちらをみて、ちょっと待っていたが、やがてアクセルを踏むと、しっとりぬれて、黒く光っている、ジョルジュ五世通りを走っていった。
 ラヴィックは、急に疲れをおぼえた。一日じゅう忙しい仕事をしつづけで、眠るひまがなかった。それで、酒を飲みにもういちど出てきたところだった。ところが、こうして夜ふけのしっとりした冷たい空気に触れてみると、またぞろ頭に大きな袋でもかむったように、疲れが出てきた。
 彼は女をみた。いったいおれはなんだってこの女をひきとめたりなんかしたんだろう? この女はどうかしている。それは明らかだ。しかし、それがおれにどうだっていうんだ? どうかしている女なんか、いままでいくらでもみている。ことに夜、パリの街《まち》においておやだ。そんなことはいまはどうだっていい。ただ望むらくは、二、三時間の睡眠をとることだ。
「うちへかえりませんか?」と、彼はいった。「いったいいま時分、街になんの用があるんです? せいぜいいやな思いをするぐらいがおちですよ」
 彼は外套《がいとう》の襟《えり》をおこして、立ち去ろうとした。女は彼のいうことがわからないように、ラヴィックをみていた。そして、「うちへ?」とくりかえした。
 ラヴィックは、肩をすぼめた。「うちだろうと、住居《すまい》だろうと、ホテルだろうと、なんだろうと、あんたの好きなようにいったらいいでしょう。とにかく、どこかへです。まさか警官につかまりたいわけじゃないでしょうからね」
「ホテルヘ! とんでもないわ!」と、女はいった。
 ラヴィックは立ち去りかねた。この女もまた、どこへいっていいかわからぬ人間なんだな、と彼は思った。それくらいのことは、はじめからわかっていたはずだ。いつだって、おんなじ手だ。この連中は、夜はどこへいっていいかわからない。ところが、翌朝になってみると、こっちがまだ眠ってる間に、どこかへすっと消えていってしまう。朝になると、どこへいったらいいかわかるのだ。夜とともにおとずれては、夜とともに去っていく、いつもながらの安っぽい暗闇《くらやみ》の絶望だ。彼は吸いさしのタバコを放り投げた。そんなことは、この自分だって、いやっていうほどしっているんだ!
「まあ、きなさい。いっしょにどこかでもう一杯やりましょう」と、彼はいった。
 それが一ばんかんたんだ。そうしておいて、勘定をはらって失敬すりゃいい。女は、どうしたらいいかぐらい、自分でわかるだろう。
 女はふらふらとあるきだしたが、つまずいた。ラヴィックは女の腕をつかんだ。「疲れたの?」と彼は聞いた。
「わかりませんわ。そうだと思うの」
「疲れすぎて、眠れないんだろう?」
 女はうなずいた。
「よくあるやつだ。まあ、きなさい。手をとってあげよう」
 ふたりはマルソー通りをあるいていった。ラヴィックは、女が自分によりかかるのを感じた。それは疲れたようなよりかかり方ではなかった――まるで落ちかかって、何かにすがって身をささえなくてはならぬかのように、よりかかった。
 ふたりはピエール・プロシェール・ド・セルビエ通りをよこぎった。シェーヨー街の交差点のむこうに通りがひらけていて、はるかかなたに、凱旋門の巨大な姿が雨模様の空を背景にして、ゆらめきながら黒々とあらわれた。
 ラヴィックは地下室へおりる、あかりのついた狭い入り口をさした。「ここですよ――きっとまだ何かあるだろう」

……巻頭より

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