「黒いチューリップ」

デュマ/横塚光雄訳

ドットブック版 276KB/テキストファイル 204KB

500円

ルイ14世によって引き起こされたオランダ戦争の渦中、オランダ国内は政治的党派の争いも過熱していた。その一方で、ハルレムの町は「黒いチューリップ」を作り上げた者に10万フロリンの巨額の懸賞金を出すというイベントを企画する。資産家の息子で根っからの園芸好きのコルネリウスは、全力をあげて品種改良に取り組む。だが隣家には、コルネリウスに対抗心と嫉妬の炎を燃やす園芸家ボクステルの目があった。彼はコルネリウスが当時の政治リーダーの叔父から重要書類を託されたらしいのを目撃する。その叔父が反逆者として処刑されると、ボクステルはさっそく当局に密告し、政治音痴のコルネリウスは逮捕され獄中の人となる……完成間近の黒いチューリップを放置したまま。デュマ円熟期の恋と陰謀のからむ大叙事詩。

アレクサンドル・デュマ(1802〜70)フランスの小説家、劇作家。黒人系の血をひき、北フランスのヴィレール=コトレに生まれる。パリに出て法律を学び、能筆を認められてオルレアン公の秘書になるが、18のときに観た「ハムレット」を忘れられずに劇作に打ち込み、29年「アンリ3世とその宮廷」によってデビュー。以後、多くの劇作によって評判をとった。35年頃からは歴史小説に手を染め、「三銃士」(のちに大連作「ダルタニャン物語」として完成)、「モンテ・クリスト伯」などの大作を次々に発表、世界を代表するエンターテイメント作家になった。派手な暮らしでも有名になったが、晩年はひっそりと息子の住む別荘先で亡くなった。

立ち読みフロア
 ハーグの町はいとも清潔で、小粋で、平素から日曜日ならぬ日はないといわれるほど活気の横溢しているところだ。このハーグの町にはこんもりとした茂みに覆われた公園があり、巨木大樹はゴシック風の家並に枝を差し伸べ、四通八達の運河の作る広やかな鏡には、東方風のドームを持つ幾多の鐘楼の影が映っている。
 一六七二年八月二十日のこと、七州連邦の首都であるこのハーグの町のどこの大通りにも、黒や赤の衣装を着け、息を切らし不安げな面持ちをした市民たちの群れが満ちあふれていた。腰に剣を帯びる者、肩に火縄銃を担ぐ者、あるいは手に棍棒を握る者など彼らが流れて行く方向は今日でも鉄格子の窓から見られるあの恐ろしいビュイテンホーフの牢獄だった。そこには外科医ティクラーによって提起された暗殺事件に関する告発を受けて、オランダ前宰相の兄コルネイユ・ド・ウィットが呻吟していたのだった。
 もしもこの時代の歴史、特に筆者が今から物語ろうとするこの年の歴史が、いま述べた二人の兄弟の名前と、どうしても切り離すことのできない関係にあるものとすれば、以下に述べる数行の説明はいわば前置きともいうべきところであろう。ところでまず、年来の知己たる読者諸君にあらかじめ申し上げておきたいのは、筆者はいつでも開卷劈頭(かいかんへきとう)に愉しさをお約束したいことである。そしてまた後に続く頁をおって、どうにかそのお約束を果たそうとするものである。しかしとにかくここで申し上げたいのは、以下に述べる説明は、この国の歴史が納められている一大政治事件を知るばかりでなく、わがフランスの歴史を明確にする上に欠くべからざるものであることをご諒承いただきたいということである。
 コルネイユあるいはコルネリウス・ド・ウィットなる人物は、この国の堤防監察官であったが、生まれ故郷ドルドレヒトの前市長であり、またオランダの代議士でもあって、年は四十九歳だった。当時、オランダの民衆は共和制に倦(う)んで、オランダ宰相ジャン・ド・ウィットも承知しているとおり、彼が連邦諸州に対して恒久法令を発し、永久にオランダから廃止すべきことを図った総督制に対し熱烈な愛着を寄せていた。
 いったい民心というものは、気まぐれな変遷を遂げる間に、ある主義のある背後には、ある人物のいることを認めずにすますことは稀なので、民衆は、共和制の背後にはド・ウィット兄弟の峻厳な二つの顔を見ていたのだった。この兄弟はオランダのローマ人というにふさわしい人物であり、国民の嗜好におもねることを軽蔑し、放縦に流れない自由や過剰に陥らない富に対しては不動不屈の味方であった。それと同時に民衆は、総督制の背後には若いオレンジ公ウィリアムの重厚で思慮のある、前屈みの額を見ていたのである。当時の人々は彼に対し「沈黙公」の綽名(あだな)をつけていたが、これは後世の人からも用いられている。
 ド・ウィット兄弟はルイ十四世を巧みに操縦していた。彼らはこの国王の精神的勢力が全ヨーロッパに拡大することを感じていた。彼らはまたギッシュ伯という物語の主人公によって有名となり、ボアロオによって歌われたあの素晴らしいライン戦争、三月間に連邦州の兵力を打倒してしまった戦争に成功した結果、この国王の物質的勢力がオランダを圧服するのを感じていた。
 ルイ十四世は永年にわたり、オランダ人の仇敵であった。彼らはほとんど絶え間なく、オランダに亡命していたフランス人の口を借り、全力をあげてこの国王を罵倒したり嘲弄したりしていた。その結果、国民的自尊心は共和国の解毒剤に化してしまったのだった。そこで国民感情に挑戦するある権力によって惹起される激しい抵抗と、敗北したどこの人民でも別の指導者が現われれば、廃滅と屈辱とから救われるのではないかという希望を抱く場合に自然と彼らに生ずる倦怠感とから、ド・ウィット兄弟に対しては、二重の激昂が湧き起っていたのだった。
 この別の指導者となる人物は、今まさに出現しかけており、未来に非常に巨大な幸運を担うべきルイ十四世と争覇戦を演じようとしていた。それはウィリアム二世の息子オレンジ公ウィリアムであり、ヘンリエット・スチュアートの血を受けたので、英国王チャールズ一世の孫にもあたっていた。この寡黙な若者こそ、既に筆者が述べたとおり、総督制の背後にようやくその影の現われてくるのが見えてきたという人物だった。
 この若者は一六七二年には二十二歳だった。ジャン・ド・ウィットはこの若者の傅育官(ふいくかん)となっていたが、この血筋の旧い貴公子を善良な市民にすることを目的として教育にあたっていた。彼は子弟愛よりも祖国愛を重視し、恒久法令によってこの若者から総督への希望を取り上げてしまった。しかし神は、自分に何らの相談もせずに地上の権力を作り上げたり、壊したりしようとする人間の自負心を嘲弄していた。オランダ人の気まぐれとルイ十四世が喚起した恐怖とによって、神はオランダ宰相の政治を変革せしめ、恒久法令を廃止して、オレンジ公のために総督制を復活せしめようとしていた。神はその意志をまだ本来の神秘に包まれた奥底に隠していたが、それはオレンジ公の上に向けられていたのだった。
 オランダ宰相は自国民の意志に屈服した。しかしコルネイユ・ド・ウィットは兄よりも強情だった。オレンジ党の平民がドルドレヒトの邸内で彼を取り囲み、死の脅迫を行なったけれども、彼は総督制復活の法令に署名しようとはしなかった。
 涙に泣き濡れた妻の切なる願いによって、ついに彼は署名することになったが、しかし自分の名前の上に、次の二つの文字だけは付け加えた。V.C、Caetus、すなわち「暴力に強制されて」という意味である。
 その日、彼が敵の襲撃から逃れ得たのは、まさに奇蹟というべきだった。
 ジャン・ド・ウィットの方は、自国民の意志に対し、もっと迅速かつ容易に同意したのだけれども、それだとて決して彼のために益するところはなかった。それから数日後、彼は暗殺計画の犠牲者となった。短剣で刺し通されたが、しかし彼はその傷によって死を呼ぶまでには至らなかった。
 それはオレンジ党員にとって思惑の外れたことであった。この二人の兄弟の命は、彼らの計画に永久的な障害となっていたのだった。そこで彼らは一時的に戦術を変更し、機会があれば一撃で一瞬のうちに成功を収めようという方法をやめて、短剣で果たし得なかったことを、誹謗によって成就しようと企てた。
 いったい、機に臨んで神の手許に、偉業を果たすべき偉大な人物が存在していることはめったにないものである。そこでたまたま、こうした神の摂理による取り合わせができあがる場合には、歴史は即座にこの選ばれた人物の名前を記録して後世の人々の賞賛にゆだねるのである。
 しかし悪魔が人間の事業に介入し、ある人物の生涯を破滅せしめたり、ある帝国を転覆せしめようとする場合には、一言耳打ちするだけでただちにその仕事にとりかかろうという憐れむべき人間が、さっそくその掌中に入ってくるものであり、そうでない場合は実に稀有なことに属するのである。
 さしあたり今の場合、悪霊の手先となるのにまことに恰好(かっこう)な地位にあったその憐れむべき男というのは、既に述べたとおり、ティクラーと呼ばれる外科医を業としていた男だった。

……《一 忘恩の民》より

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