「アンクル・トムのキャビン」(上下)新版

H・B・ストウ/大久保博訳

(上)ドットブック版 2698KB/テキストファイル 272KB

(下)ドットブック版 2219KB/テキストファイル 288KB

各800円

トムはケンタキーの温厚な農場主に雇われていた忠実な黒人奴隷だったが、事業に失敗した主人によって、小間使いイライザの息子ハリーとともに奴隷商人に売り渡される。トムの苦難はここから始まる。トムは ニュー・オーリアンズの富豪セント・クレアの一人娘エヴァが河に落ちたのを救った縁で、同家に買い取られる。だが、比較的落ち着いた暮らしも、エヴァの死、つづく主人の急死によって一転する。トムは飲んだくれで残忍なミシシッピの農場主 レグリーに買い取られていく。その果てに待っていたものは……19世紀アメリカが生んだ代表的な社会小説であり、黒人奴隷のさまざまな姿を鮮烈に描いた秀作として呼び声たかい長編小説。 ドットブック版には多数の原書イラストを収めてある。  

H・B・ストウ(1811〜96)アメリカ、コネチカット州生まれ。牧師の娘。本名ハリエット・ビーチャー・ストウ。オハイオ州シンシナチに移住後、南部の黒人奴隷の暮らしを見て、52年 Uncle Tom's Cabin を発表。一躍話題作、ベストセラーになり、各国語に翻訳された。彼女はニューヨークの新聞や雑誌を舞台に社会性のある小説・エッセイを発表し続けて、生涯を奴隷解放運動のために働いた。

立ち読みフロア
 二月の、ある冷えびえとした日の、午後おそくのことである。二人の紳士が、たった二人だけでワインをのみながら座っていた。大きな屋敷の、よく調度のととのったダイニング・パーラー(食堂)で、ケンタキー州はP――町でのことであった。その場には、召使いは一人もいなかった。二人の紳士だけが、たがいに椅子を寄せあって、何事かひどく熱心に話しあっている様子なのだ。
 便宜上(べんぎじょう)、わたしたちはこれまで、二人の「紳士」と言ってきた。しかし、そのうちの一人は、よく見ると、厳密には紳士と呼ぶにはふさわしくないもののようであった。背が低く、ズングリした男で、ゲビた俗っぽい顔つきをしているうえに、いやに、もったいぶったオウヘイなところがあった。それは、人を押しのけて出世しようとする、あの卑しい人間によく見られるものだ。服装もひどく飾りすぎていて、色とりどりの、いやにテカテカするチョッキを着込み、青いネッカチーフには黄色い水玉模様が派手に入っていたりして、それをこれ見よがしのネクタイであしらった様子は、いかにもこの男の人柄に似あったものであった。大きなガサガサした両の手は、むやみと指輪で飾られていた。ふとい時計の金ぐさりには、驚くほど大きな、そしてさまざまな色合いの印形(いんぎょう)の束がついていたが、――話に熱中してくると、男はそれを振りまわしたり、また、いかにも満足そうにジャラジャラ鳴らしたりする癖があった。男の口にする言葉は、マリーの文法書[リンドリー・マリーの『英文法』(1795)。当時、非常な権威をもっていた]などは頭から無視していて、神を汚すような言葉を適当なところに差しはさんでは、自分の言葉を飾るのである。それは、作者がどんなに写実的に描写したくても、そのままここに書き写すことなど、とても出来ぬものであった。
 相手のシェルビー氏は、いかにも紳士といった様子だった。それに、家の調度の整い具合や、全体としてよく手入れのゆきとどいている様子からして、安楽な、というよりはむしろ、富裕な、とさえ言える暮らしを感じさせた。前にも述べたように、二人は、いま熱心に話を交わしているところなのである。
「私は、そういうふうに話を決めてもらいたいのだがね」とシェルビー氏が言った。
「いやぁ、それじゃあ商売になりませんて――絶対にダメだね、シェルビーさん」と言いながら、相手はワインのグラスを手にとって、それを明りにすかして見た。
「だが、実際のところ、ヘイリー君、トムは珍しい男だよ。どこへ出したって、それだけの値打ちは確かにあるんだ、――しっかりしていて、正直で、腕があって、私の農場を全部、まるで時計のようにキチンと管理してくれているのだからね」
「そりゃあ、黒ん坊流には、正直かもしれませんがね」と言いながら、ヘイリーは勝手にブランデーをグラスについで飲んだ。
「いや、ほんとうだ。トムは善良で、しっかりしていて、よく気のきく、信心深い男だ。四年まえに、あるキャンプ・ミーティング[野外またはテント内で行なわれる宗教的集会で、通例、数日間にわたる]で発心(ほっしん)したのだが、奴は、ほんとうの信者に《なった》と私は確信している。そのとき以来、私は金のことも、家のことも、馬のことも、――いっさいを、奴に任せきっているし、この土地のどこへ行き来するにも、奴の好きなようにさせているのだが、万事につけて、いつも忠実で正直なことに間違いないね」
「人によっちゃあ、黒ん坊の信心だなんて、まるで信用しねえ者もおりやすがね、シェルビーさん」とヘイリーは無遠慮に手を振りながら、「だが、あたしゃあ、信用しているね。このまえ、オーリアンズ[ニュー・オーリアンズのこと。ルイジアナ州南東部にあり、ミシシピー河畔の港町で、当時ここには大きな奴隷市場があった]へ連れていった連中のなかにいた男がそうだ、――こいつのお祈りを聞いてると、まるで祈祷会へでも出てるようだったね。それに奴は、まるっきり素直なおとなしい野郎でね。そのうえ、あっしにとっちゃあ、奴はいい金もうけになりやしたぜ。というのは、どうしても売らなきゃならねえハメになった男から、安く手に入れたもんでね。で、あたしゃあ、その野郎で六百両、もうけやしたよ。いや、じっさい、黒ん坊の信心もありがてえもんでさ、それが正真正銘のしろもので、まちげえのねえってえときはね」
「ところが、トムの信心というのは、その本物なのさ。というのは、去年の秋、私はトムをひとりでシンシナティ[オハイオ州にある町。オハイオ川に臨む。この川を境にしてオハイオ側が自由州、ケンタキー側が奴隷州であったため、黒人奴隷はよくこの川を渡ってカナダへ逃げた]までやって、私のかわりに取引をさせたうえ、五百ドルの金をもって帰らせたんだ。そのとき、私はあの男に、『トム、私はおまえがキリスト教徒だと思うから、おまえを信用する。――人を欺くようなことは、きっとしないだろうからね』と言ってやった。やはり、トムは帰ってきましたよ、私の思っていたとおりにね。人の話によると、ある卑しい男たちがトムにこう言ったそうだ――『トム、おめえ、どうしてカナダへずらかっちまわねんだ?』とね。ところがトムは、『めっそうもない、旦那さまは、このわしを信じておいでなさる。わしには、そんなことはできねえ』――そう、言ったそうだ。トムを手放すのは、私には本当につらい。ぜひとも借金の全部を、このトム一人で帳消しにしてもらわなきゃならないが、してくれるだろうね、ヘイリー、君に少しでも良心があるならね」
「そりゃ、あたしだって、商売に差し支えないくらいの良心なら、もってまさあ。――ほんのチョッピリ、まあ、お題目ていどにはね」と奴隷商人はおどけた調子である。「だから、これでも、あたしゃ友だちのタメを思って、筋の通ることなら、どんなことでもいたしやしょう、って言ってるんです。だがね、こればっかりは、チィーと、つらいですな。チィーと、つらすぎますって」 商人は、じっと考えこむ様子で溜め息をついた。そしてブランデーをまた自分のグラスについだ。
「じゃ、ヘイリー、君はいったい、どういうふうに話を決めようというんだね?」とシェルビー氏は言った。しばらく不安そうに黙っていた後でだ。
「そうですな、トムと抱き合わせに貰えるような、男の子か女の子は、いませんかな?」
「うむ!――手放せるようなのは、一人もいないな。実のところ、私はほんとうに、やむをえず売ろう、というんだからね。家で使っている者を、一人だって手放したくはないのだ、実際にね」
 そのとき、ドアが開いて、四、五歳になる小さなクォドルーン[黒白混血児の中で黒人の血を四分の一伝えている者を、特に「クォドルーン」と呼ぶ]の少年が、部屋に入ってきた。その子の様子には、どこか非常に美しい、人を惹(ひ)きつけるようなものがあった。真綿のように細くて黒い髪の毛は、つやつやした巻き毛となって、まるい、えくぼのある顔のまわりに、たれ下がっていた。そしてまた、子供が部屋のなかを、もの珍らしそうに覗きこんでいるときにも、その子は、火のような輝きと、優しさをたたえた大きな黒い瞳(ひとみ)を、濃い、長いまつ毛の下からのぞかせていた。緋(ひ)と黄の格子縞(こうしじま)の派手な着物は、念入りに仕立てられ、体にピッタリとあって、この子の浅黒い上品な美しさを一段と浮き立たせていた。それに、この子の内気そうな様子のなかに見られる、なんとなく自信をもった滑稽(こっけい)な態度は、この子が絶えずこの家の主人から大切にされ、また目をかけられていることを物語っていた。

……冒頭より


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